「…締め切りを作ろうとしたんだ」 金蝉は懲罰室の壁に向かって言った。天蓬の成婚は、捲簾への締め切りだった。 ああ、不思議で仕方がない。何故兄弟の誰もこんな重要な事を尋ねてこない。いや各々考えてはいるだろう。考えないはずがない。公然と口にするには不謹慎だと自重しているのかもしれない。 伯爵位の第二継承者は誰かと。 捲簾だ。第二子なんだから当然だ。それで試しに、天蓬との会話に紛れ込ませてみた。 『俺に何かあったら、懲罰もおまえの役目だ』 天蓬は反応しなかった。相変わらず底の見えない能面のような顔で腕をさすっていた。 おい。おい。何故そこで突っ込まない。視界から締め出したからっていなくなった訳じゃねえだろうが。おまえの前にもうひとりいるだろう。まさか俺が跡継ぎを作るまで死なないとでも思ってるのか。庶子に跡を継がせるはずがないとでも思っているのか。伯爵家の籍に入っている以上、伯爵の血が流れている以上、あと半分が誰の血だろうが年の差が7日だろうが関係ない。捲簾がこの家を攫う。 金蝉は常に死を覚悟していた。貴族精神の根幹が「命より誇り」だからだ。実際に華族出身の役人なんて血気盛んな反体制派から見たら暗殺リストの最上位だ。死ぬのは構わないが物事には順序がある。捲簾の追放が先だ。その当人に弾劾されてる場合じゃない。いっそ家と関係ないところで俺が庇いきれないような大罪でも犯してくれないか。でないと追い出せない。追い出す理由が何もない。いっそ… いっそ奴を。 「金蝉!」 ノックと同時に三蔵が入ってきた、というより飛んできた。 「…この非常時に晩餐会に代理出席させた文句でも言いにきたのか?」 「何か非常時なのか?」 「いや全然」 「文句を言うのはやめた。いつでも代役を申しつけてくれ」 三蔵は、笑顔こそないが晴れ晴れと言い放った。見たことのない弟の上機嫌ぶりに驚きはしたが、疲れてもいたので、金蝉は曖昧に頷いた。 「…そうか。なんだか知らんが有り難いな」 「そのなんだか知らんがまあいい的な発想はやめて、知ろうじゃねえか」 「…何言ってんだおまえは」 「天蓬と一緒に駆り出される時の俺に価値があるとすれば、どんなに人が犇めいた大広間でもすぐ見つかることだ。で、何やらキラキラしてるほうに寄ってけば、お目当ての第一秘書が傍にいるって訳だ。俺はそう思ってた」 「別に天蓬のノボリ代わりにおまえを派遣してる訳じゃねえぞ」 「そうだよな。だったらはなから天蓬に金のタキシードでも着せりゃ済む」 「済むっていうか」 「要するにあんたは、人間観察できる場に出向くことは俺の将来に役立つと信じたからそうした。そうだろ。悟空の事だってそうだ、あんたはいつも理由を言わないが、常に俺や兄弟のためになるように気を配ってくれてる。しかしだ、俺は初めてあんたの心中を考えてみたから思い当たったが、こういうことは話すべきじゃねえか?俺は今日からそう思う。兄弟はもっと話し合うべきだ」 「天蓬!悟空を呼べ!」 三蔵がまだ喋っている途中で、金蝉は開けっ放しの戸からふらりと覗いた天蓬に向かって怒鳴った。 「…何故?」 「聞くに決まってるだろう。尋ねるんだ経緯を。三蔵が、こうなんか正直言って気持ち悪い理由を」 「気持ち悪いとは何だ」 憮然として答えた三蔵は、しかしはたと自分の興奮ぶりに気付いて咳払いした。 「…つまり、いつもひとりで思ってるようなことを人に話すのも意外と悪くないと気付いたから…提案だ」 「…提案なら、検討しよう」 妙な沈黙の後、天蓬が「それで」と言った。 「悟空はもういいですか?呼ぼうにも先刻拉致されて、正面玄関から車で連れ去られましたが」 金蝉はとうとう四兄弟全員に乱心されたようなショックで眩暈を起こした。自分が壁に愚痴るぐらいだから、八戒が温室の緑と、天蓬が幽霊と話したりするのも分かる気がする。 「…拉致…とは誰に」 「多分、僕の、兄に」 常に姿勢を崩さない天蓬が、今夜は余程疲れたのか扉に凭れて爪を弾いている。 「捲簾が?…まあ三蔵すらご執心なんだから庶子同士交流しようってのは自然だが。何で拉致しなきゃならんのだ」 「悟空はドライブを嫌がっていたようです」 金蝉は三蔵を振り返った。 「おい、悟空は捲簾を嫌ってるのか?それとも逆か?」 「…捲簾の話は特に出なかったと思うが。それに逆はねえだろ、奴だって庶子は可愛いがるだろ」 「大丈夫ですよ。一日でふたりも殺したりしないでしょう」 天蓬は凍り付いたふたりを尻目に欠伸した。 「今日は疲れました。おやすみなさい、ふたりとも」 ぱたぱたと足音が遠ざかり、金蝉はやっと肩から力を抜いた。 さすがは天蓬だ。何を見たのか知らないが、自分から言うのは如何にも苦しかった。あの娘に手をだしたのは捲簾でも原因を作ったのは自分なのだ。 「…まだ問題は山積みだが…とりあえず三蔵。おまえ部屋で酒でも飲んでちょっと落ち着」 「金蝉」 三蔵が不意に腕を掴んだ。 「何も知らないのが嫌になった。いったいこの家で何が起こってる?」 目の前で急に叫ばれて呆気にとられた捲簾がまだうんともすんとも言わないうちに、悟空はあげた悲鳴を自分で抑えて大きく息を吸いこんだ。 ──落ち着きなさい。息を吸って。 「…何?」 「だっ…あ…なんでもない」 「なんでもなくて叫ぶのか?」 捲簾は何故だかうっすら微笑さえ浮かべていたが、悟空の体は勝手に後ずさって壁にどんと背中をついた。 「ごまかせねえ嘘ならついちゃ駄目だろ、悟空」 ──見えたものを全部口にするのは愚かなことですよ、悟空。 「おまえ、俺以外の奴とは随分仲良しみたいだけどなぁ。何?俺は駄目なの?なぁ、なんで?」 まるで猫に弄ばれてる鼠だ。捲簾が一歩進むたびに一歩下がるを繰り返した結果、悟空は廊下の端から端まで押し戻された。 捲簾は不意に自分の肩越しに後ろをちらりと見た。 「なるほど」 言うなり捲簾はもの凄い素早さで悟空の首根っこをひっつかんだ。 「いい夜だぜ9番目。ドライブでもしようか」 鼻から脳髄まで突き抜けるような血の臭い。 「助けて悟浄!」 思わず口走ったセリフを最後まで言い終わるのときっかり同時に、戸が開いた。 「呼んだ?」 「呼んでる!」 悟浄は部屋から顔だけ出した姿勢で捲簾と、小脇に抱えられた悟空を交互に見た。 「話しといで」 「悟浄!」 「大丈夫。捲簾は何もしねえよ」 しないも何も現に首根っこ掴まれて荷物みたいに抱えられてるじゃないか。さっき怒鳴ったことを根に持ってるのか。自分が捲簾を怖がってるのを知ってて見捨てるのか。 「あのな悟空、捲簾が嫌ならきちんと本人に言え。そうすりゃおまえに二度と構わねえよ。捲簾はそういうのには慣れてる。でも何も言わずに避けるな。そうは見えねえがこの兄ちゃんは、さっきのおまえの態度で深く傷ついてんだ」 「…むかつくなぁおまえは」 「大丈夫だから行っといで。待ってるから」 最初から最後まで捲簾を無視しとおした悟浄は、悟空が初めて髪を褒めた時のように笑って、戸から顔を引っ込めた。 「呼んでくれてありがとな」 「だからあいつは苦手なんだ」 捲簾はブツブツ言いながら玄関を出、待機していた運転手を蹴り出して車に乗り込んだ。観念して大人しくなった悟空は助手席に放り込まれ、慣れない車の座席でもぞもぞと体勢を整えた。 「っと、まだ匂うか?待て、窓開ける」 「え?」 悟空は思わず捲簾の背後を窺ったが、さっきまで捲簾が引きずっていたモノはもういなかった。 「朝、車酔いして…あ、違うな。これ八戒と悟浄が使ってた車か。あいつもやったのかな」 「…何を?」 「俺と悟浄は車に弱ぇんだよ」 自分で運転すると平気なんだけど、と捲簾は呟いて、乗車経験2回目の悟空でもいくら何でも速すぎると思えるほどのスピードで敷地を飛び出した。 「は、速くない?」 「気持ちいいだろ?」 捲簾は本当に気持ちよさそうに煙草に火をつけ、風に髪を嬲らせた。ところどころに点った灯りで浮かび上がる穏やかな横顔を見ていると、さっきとはまるで別人みたいだ。 …大丈夫。捲簾は何もしない。悟浄がそう言った。 でも悟浄も酷い。今夜は双子の部屋に立入禁止で、悟浄は捲簾を食い止める役目を仰せつかっていたはずだ。一石二鳥とばかりに捲簾を俺に押しつけたんじゃないのか。 「…本当の兄弟って」 随分経って、捲簾がひとりごとのように呟いた。 「え?」 「悟浄はよく本当の兄弟って言い方をするだろ。こだわってんだ。奴に言わせれば悟浄の本当の兄弟は独角ひとり、八戒と花喃が本当の姉弟、三蔵と天蓬と金蝉が本当の兄弟」 「…うん」 「つまり俺とおまえには“本当の兄弟がいない”って共通点がある訳だ」 捲簾はくすりと笑った。 「変な話だな。父親と母親が同じだって共通点を絶対視する。双子の絆なんか余計に凄いと思ってる。一卵性ならともかく異性の双子は二卵性だ。同じDNAを持つ特別な相手じゃない、ただ極普通の姉弟が同時期に生まれたってだけの話だ。なら俺と天蓬だって双子みたいなもんじゃねえか?」 悟空は捲簾が前だけを見ているのを幸いと横顔から目を離さずにいたが、捲簾が「天蓬」と言う時の口調には、何の特別な感情も見えなかった。 「俺には意味ねえと思うがな、そんな振り分け。もっと重大なこともある。俺と悟浄には車に弱いという共通点があるな。弱点が同じというのはなかなか貴重だ。天蓬と八戒には顔が似てるって共通点がある。これは凄ぇな、本当の兄弟じゃねえのに。そして天蓬とおまえにも重大な共通点がある」 捲簾は座席の背もたれをとんと突いた。 「まだいるか?」 「いな…え、捲簾にも見えるの?」 「いいや」 捲簾は右に大きくハンドルを切り、車体はゴトンと微かな衝撃とともに停まった。 「俺には見えない」 目の前は緩やかな土手で、遙か下に水が流れ、その向こうにささやかな夜景が広がって細かな細工のついた絨毯のように遙か遠くまで光が敷き詰められている。 景色に見入った悟空が我に返るまで、捲簾は煙草をふかしながら待った。 「おまえはさっき、俺の後ろにいた奴のことを言わなかったな。言わないほうがいいと判断した」 「…うん」 「普通なら仰天してすぐさま口走るようなことなのに、おまえはやめた。考えてそうした。予備知識があったから。多分天蓬とふたりで話をして、天蓬の忠告を信じたから。そうだろ」 「…うん」 「悟浄には天蓬に近づくなと言われたはずだ。花喃も八戒もそう言ったはずだ。でもおまえは天蓬を信じた」 捲簾は背に深く凭れたまま、初めてゆっくりと悟空を見た。 「おまえをここでぶち殺したら天蓬は泣くかな?」 一瞬すうっと腰から下が冷えたが、捲簾の目を真正面から見つめていたらふわっと血の気が戻ってきた。 本気じゃない。試してる。9番目の自分を。 「俺が怖いか?どう怖い?天蓬と俺はどう違う?」 悟空は力を抜いて、捲簾と同じように後ろに凭れた。綺麗な光。光を目に入れてから瞼を閉じた。 「…女の人を殺したから。そんなことする人は怖いよ」 「ああなるほど」 捲簾は呼吸のついでのようにあっさり頷いた。 「でも初対面から怖がってたよな」 「殺しそうに見えた」 「それはよく言われる」 捲簾は何の前触れもなく体を起こしてドアを開け、外に出た。悟空もつられて湿った草を踏んだ。 夜風は痛いほど冷たいが美味しいと思えるほど澄んでいて、微かに虫の声が聞こえる。黒づくめの捲簾は夜の空よりまだ黒く、見上げると空を捲簾の形にくり抜いたように見える。 「悟空」 「はい」 「信じようと信じまいと勝手だけどな。天蓬も人を殺してる。しかも女を」 「……本当に?」 「そういうことが必要な家なんだぜ、恐ろしいことに。オヤジも。金蝉も。まぁ直接やったわけじゃねえだろうけど。…あと」 「…あと?」 「…ま、あまり命とか大事にする家じゃねえんだな。他に大事なものがあればそっちを優先する。…見てろ?」 捲簾は見事に丸く輪の形に繋がった煙を立て続けに3個作り、悟空はそれが真っ直ぐ上に上がって月にかぶって消えるまで眺め続けた。 「それでも俺が特別に怖いんなら、俺は何か特別に酷い殺し方でもしたのかな?余計に苦しめたとか、そういう」 「捲簾は真面目なんだよ」 「……不真面目に人殺す奴がいるか?」 屋敷に戻る間中、捲簾は口をきかなかった。車寄せに停車して、2階の窓から悟浄が顔を出したのに目をやってから、先に行けと悟空を促した。それから、首を捻りながら言った。 「…でもまあ、ありがとう」 |