act.12


 捲簾を追い払ってからも悟浄は扉の外に注意を払い続け、双子の部屋に近づく者を食い止めた。口の軽いメイドにでも立ち聞きされたら大変だ。足音も立てない連中なのが余計厄介だ。
「あ〜ちょっと待て!どこ行く」
「花喃様にお茶を。毎晩この時間にお召し上がりになります」
「今日はいい!」
「せっかく淹れたのに?」
「…分かった置いてけ。俺が飲む」
 拗ねたように口を尖らせた花喃付きのメイドは、あっという間に笑顔になった。
「後で厨房に戻すから。取りに来なくていいからな」
「悟浄様はお優しいですね」
「時々な。…何、この不吉な色の茶」
「ラズベリーのお茶です。美容にもいいし貧血にもきくし、子宮と骨盤を鍛えて月のものを軽くします」
「ああそう」
 悟浄は扉に凭れたまま、そのやたらと甘酸っぱい紅茶にブランデーを注ぎ足してちびちび啜った。
 何をしてるんだ俺は。全然優しくなんかしたくねえぞ。メイドにも。八戒にも。
 双子が部屋に篭もって1時間。花喃の気性を考えれば遅すぎる。あいつなら了解するにしろ断るにしろ、2秒で事を済ませそうなものだが。八戒が余程回りくどい口説き方をしたんだろうか。まさか突入したなんてことないだろうな、俺ならともかく侯爵出のお子様方が。
 悟浄は兄弟たちに干渉しないよう、充分に気をつけていた。どうせ家を出たら一生会う機会はないのだ。関わったら影響される。この家の匂いをつけて独角のところへ戻る訳にいかない。
 なのにたった数日で、二度も失敗した。悟空を部屋に入れ、八戒とぶつかった。これ以上は駄目だ。
 悟空はいい。俺のことなんかすぐ忘れる。兄は他にもうじゃうじゃいるんだし、皆悟空を可愛がる。
 …でも八戒は。
 悟浄は軽く眉間を揉んだ。
 言ったほうがいいですか、だと?ふざけんな。好きにしろ。そしてそれを俺に言うな。
 八戒が自分の為すがままな態度に苛立っているのは知っていた。しつこく俺と関わりたがった。俺に秘密を背負わせた。無理矢理俺を関わらせた。
 貴方にしか聞けないんです。
 貴方のせいじゃありませんから。
 可愛い顔してなんという男だ。手口が捲簾と同じじゃねえか。
 思えば会った時から「なんという男」だった。八戒は兄弟に一人前の男扱いされていない。姉に絶対服従で、表立って意見しないからだ。双子の見解は代表して花喃が口に出す。いつまでも花喃のおまけだと思われてる。が、意見がない訳ではないのだ。単に姉を前に出したほうが、八戒には楽なのだ。花喃は自尊心が満たされるし、八戒は敵を作らずに済む。たまに荒れても花喃に宥められて収まるところまでお約束。双子の愛の儀式みたいなもんだ。付き合わされる身にもなれ。
 目立つのが面倒な八戒と、目立つのが得意な花喃とで、事は丸く収まってる。だからどこまでも放っておけば良かったのだ。捲簾と天蓬の奇妙な関係にも、金蝉と三蔵の微笑ましい行き違いにも、意見したことは一度もない。なのにうっかり挑発にのり、まんまと背中を押すような真似をして、忠実な門番のように八戒の頼みを遂行している。
「…まずい」
 妙なことして茶が余計不味くなった。悪酔いしそうだ。自分のせいなのに腹が立つ。
 早く片付けばいい。花喃が受け入れるはずがない。あの気位の高い女が嫡子に蔑まされるような真似をするはずがない。今までぬくぬくと贅沢三昧に生きてきたくせに、今更愛があれば身分なんてとばかりに全て捨ててふたりで逃げる度胸なんかあるはずがない。八戒をそんなことに巻き込む訳がない。
 空になったカップが皿の上で音を立て、悟浄は自分で立てた音で急に我に返った。
 …俺は八戒がふられりゃいいと思ってるのか?
 八戒の部屋の戸が開いた。
 踵が床板を叩く音が真っ直ぐこちらに来るのを、悟浄は目を閉じて聞いた。…花喃。
「悟浄」
 ノックの歯切れも口調もいつもどおりだ。少なくともそう聞こえる。
 悟浄が部屋の戸をちょっとやそっとじゃ開けない事をよく知っている花喃は、扉越し早口で囁いた。
「見張っててくれたんでしょ?ありがとう。面倒をかけたわ。弟は貴方に甘えすぎよ。私からも謝るわ」
「面倒なんてとんでもない。骨盤が鍛えられたし」
「?…良かったわ。ところで捲簾がどこにいるか知らないかしら」
「車寄せで待ってりゃ捕まるよ」
「ありがと悟浄」
 花喃の靴音が遠ざかるまで待ってから、悟浄は詰めていた息を大きく吐いた。
 …知らねえぞ。
 俺はおまえらに関わらない。何もしない。例え八戒がこのまま部屋に閉じこもって出てこなくても、すぐに出てきて俺の部屋の戸を叩いてずうずうしくも開けろと言っても、絶対に俺は何も。
「悟浄」
「……なんだよ」
「開けて」
 ああ。もう。くそ野郎。悟浄はのろのろと戸を開けた。
 八戒はいつもと同じ顔で悟浄を真正面から見て、口を開きかけた。
「分かってる。言うな。興味ない」
 花喃のあの言い方。はっきりと、悟浄に分かるように“弟”と言った。
 遮られた八戒は口を閉じ、視線を足下に落とし、また顔を上げた。悟浄は舌打ちして八戒の腕を掴み、廊下に目を走らせてから部屋に引っ張り込んで鍵を閉めた。誰かに見られたら、俺が虐めてるみたいに見えるじゃねえか。
「金蝉から」
 八戒は唐突に口を開いた。
「お見合いの話が出たんですって。今朝。何で今朝なんだろう」
「…さあ」
「兄弟の中じゃ、強いて言えば、捲簾が一番好みなんですって。強いて言えばって、ねえ」
「…そう」
 ふわふわ喋るな。というか喋るな。興味ねえって言っただろうが。俺に何もさせるな。俺に何も言うな。
「捲簾なんかとっとと追い出されればいいのに」
「八戒」
「何です」
「俺以外には言うなよ」
 八戒はぼんやりと悟浄を見て、緑色を僅かに揺らしながら微笑った。
「…言えませんよ」
 笑いながら泣くな。
 


「捲簾様、夜間の外出はしばらくお控えください」
 車には酔うが車自体は好きである捲簾が、悟空を降ろして車庫に入れた車のミラーを何の気なしに磨いているところへ、珍しいことに執事長がやってきた。従業員のトップである彼は、基本的に嫡子としか会話をしない。
「車の手入れなど運転手にお任せください」
「…何?」
「運転手にお任せください」
「その前」
「夜間外出はお控えください」
 捲簾は綿布を放り投げ、掌を服で無造作に擦った。執事長はほんの僅かに眉を顰めたが、捲簾が懐から煙草を引っ張り出したところで本格的に眉を顰めた。
「伯爵のご命令なら何なりと」
「私の独断でございます。先程、天蓬様にも同じ事を申し上げました。寝ぼけてらっしゃいましたが」
「俺は起きてるが話が見えねえな」
 初老の執事は直立不動の姿勢を崩さず、口もほとんど動かさない。
「天蓬様とお近づき予定でした男爵家御息女行方不明の件。社交界で既に噂になっております」
「この世に噂がない日はないだろう」
「…聡明な捲簾様がお察しくださらないとは信じられませんな。金蝉様は縁談に乗り気でいらした。領地も派閥も絡まない縁談で破談を狙っての妨害工作、となれば一番に疑いをかけられるのは天蓬様本人ではありませんか」
 捲簾の指から煙草が落ちた。
「…何で天蓬?」
「本人に結婚の意思がなく、しかし伯爵の意向には逆らえないので、やむを得ず相手をどうにかした、と。極真っ当に、常識的に考えて、他に容疑者がおりませんので」
「…噂にしても…噂すぎるだろ」
「噂の質などどうでもよろしい!」
 子供の頃から彼に叱られ続けの捲簾は思わず黙った。確かに噂の質などどうでもいい。現に噂があるのなら。
「天蓬様は八戒様の件もあり、良くない噂が流れやすい下地があったのです。根も葉もなければ自然と消滅します。念のため天蓬様には目立つ行動を控えて頂くだけのこと。貴方様にも控えて頂く理由は、いい加減にその唯一出来のよろしい頭をお使いください。金蝉様の耳に入るのは時間の問題でしょうがその前に事態を悪化させぬよう動きました。ご協力を」
 一息に言うと、執事長はくるりと背を向けて正面玄関へ歩き出した。
「おい」
 一拍おいて、執事長が振り返った。
「立場わきまえろ」
「貴方が伯爵の摘出子とは信じられませんな」
「おまえこそ金蝉をないがしろにするとは信じられねえな。オヤジは死んだ。金蝉に仕えろ。身も心もだ」
 執事長は驚いたようだった。しばらく沈黙した後、軽く頭を下げ、屋敷の中に消えた。
 前伯爵の妙な人心掌握術のおかげで、先代から仕えた古い従業員は若い金蝉を下に見る。だからさっさと使用人を入れ替えろと、爵位を継いだ直後から天蓬が進言していたのに。いったい金蝉は天蓬をかってるのか、そうでもないのか。
「捲簾」
「おう。何だ姫。立ち聞きか」
 花喃は小声で「最後の方しか聞いてないけど」と呟いた。
「何かあったの?」
「いや別に」
 花喃は優雅にドレスの裾を軽く持ち上げて敷石を越え、捲簾のすぐ傍までやって来た。
「何かあったか?」
「いえ別に」
 打ち返された捲簾は苦笑し、花喃に煙草を1本放った。
「俺は今日、珍しく天蓬を助けたつもりでいた」
「…天蓬を?」
「でも結局天蓬への嫌がらせになったな。嫌がらせばかりしてるうちに嫌がらせしかできなくなっちまったみてぇだ」
「そう」
 勿論花喃には何のことだかさっぱり分からなかったが、捲簾が話せる程度のことを話してくれた姿勢にとりあえずは満足し、煙を細く吐きだした。捲簾は庶子とはいえ四兄弟のひとりで、大人だ。彼を取り巻く問題が何であれ、きっと自分など比べものにならない程大変なことだろう。
 私なんて。恋愛だもの。恋愛。なんてレベルが低いの。
「おまえの番だぜ花喃」
 とんでもなく小さい世界。小さくても私にはすべて。
「女って馬鹿よね」
 捲簾は先刻投げた綿布を拾い上げ、ミラー磨きを再開した。
「私の母も同級生も社交界のお歴々も皆そう。周囲の男に好かれてちやほやされて、よってたかって愛されるのが夢なの。それだけよ。信じられる?」
「普通だろ。男だって夢はハーレムだ」
「嘘ばっかり」
 捲簾の女癖の悪さは嫡子の間ではタブーだったが、庶子の間ではよく話題にあがった。
 ブレーキ不良なんだろオヤジと似て、と悟浄が言い、嫡子への嫌がらせでしょう、と八戒が言い(それにしても羨ましいと付け足した)、花喃は口には出さず思うだけに留めた。随分ロマンティックな想像だ、これだから女は、と自分でも思ったからだ。
 好きな人がいるのかもね。彼女以外は女じゃないのかも。
「これは独り言だけどな」
 捲簾はミラーを磨き上げると今度は車の後ろにまわって、花喃からは見えなくなった。
「仮に姉弟ができちまうような不道徳なことが起こったら、伯爵はふたりまとめて叩き出すだろうが、俺が伯爵になるまで待ってれば一生一緒に屋敷で飼ってやれるぜ」
 捲簾が何を言ってるのか理解するまでに、しばらく時間がかかった。
 花喃は棒立ちになり、無意識に弾いた煙草の火の塊が地面に落ちた。
 …無関心な悟浄すら疑っていたことを、弟妹に積極的に関わってきた捲簾が疑わないはずないじゃないか。
 捲簾が伯爵になるなんて考えもしなかったが、それを望むことは長兄の失脚を望むことだ。そこまで墜ちてはいない。金蝉のことは決して好きではなかったが、保護者としてしてくれた事、してくれている事を忘れた訳じゃない。それ以前に自分の望みはそんなことじゃない。
 花喃は吸い殻を爪先で勢いよく踏み消した。
「今朝、金蝉からお見合いを勧められたの。受けようと思う。嫌々じゃないの、少しは楽しみ。使える相手を捕まえて伯爵に貸しができれば気分がいいわ。それに、自分を試したくもある。いつまでも悟能を私に跪かせておくわけにいかないものね。正直言うと、そうなったらいいなとは思ってたけど。でも無理ね」
「花喃」
 どこをどう磨いていたのか知らないが、捲簾はようやく車の向こうで立ち上がって膝を払った。
「女であることを愚痴る女にはなるなよ」
 口調はどこまでも優しく、ただ優しいだけだった。それ以上の何もない。優しい捲簾。
「…そうね」
「今夜は大目に見るけどよ」
 捲簾は花喃の髪を乱暴に掻き回した。
「泣くときは好きな男の前で泣けよ。勿体ない」
 悟能の前では泣けない。悟能もきっとそう。
 それぐらい分かる。たったひとりの弟だもの。
 私のものだったもの。



「何も起こってない」
 金蝉は立ち上がって部屋の外へ三蔵を促した。
「いつもどおりだ。今日も明日も、我が家では何も起こらない」
「金蝉!」
「何も心配はいらない。明日に備えて早く寝ろ。おまえはいい教師だったらしいからな」
「金…」
 金蝉を追いかけて廊下にでた三蔵は、往き来する使用人に気付いて否応なしに口を噤んだ。
 知らないほうがいいことはある。確かにある。
 言葉で説明しなくても、意図が見えなくても、金蝉が三蔵に施すことはすべて三蔵のためを思い、三蔵のためになることだった。すべてだ。ひとつの例外もない。
 …知ったら、俺は金蝉を軽蔑するのか?
 天蓬も捲簾も知っていることを俺だけが知らないままで、金蝉の傍にいることが俺の役割なのか?
 自分のためにならなくてもいいから知りたいと思うのは、金蝉に対する裏切りなのか?
 こういう場合はどうすればいいんだ、悟空。



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