秘密は、重い、から ね
ソファーで本を読んでいるうちにうとうとして、眠りに落ちる寸前か落ちた直後、ふと父親の声を聞いた。
人にどう好かれるか。あの人たらしは始終そんなことばかり言っていた。
そんなに大層なものだろうか。人に次から次へと好かれれば人生が幸福で満ち足りるとしても、好かれないとそうはならないのだろうか。
だが確かに秘密は重い。ひとりで抱えていては手が痺れる。
もし何か打ち明けるのにぴったりの相手がいたとしたら、信頼した相手でも愛した相手でも、ましてや憎んだ相手でもない。いずれいなくなる人間。誰にも関心がなく、地面に掘られた穴のように放り込んだ秘密を飲み込んだまま、静かに、永久に消えてくれる相手。
「風邪ひくぜ」
天蓬の顔の上から本が滑り落ちた。そのくせ揺り起こすでもない、気の無い声音。
「…いつ来たんです」
「今。煙草がきれた」
「…右の引き出しの真ん中の奥」
悟浄が絨毯を踏んで書机に回り、引き出しを引っ張り出して指で一箱摘み上げるまでの一挙手一投足を、天蓬は目を閉じたまま、耳で見た。
「あるだけ全部持っていきなさい」
摘んでいた箱を落としたらしく、コトンと木の音がした。
「…貴方、混乱してるでしょう。約束が違います。人といる気がしないから貴方を部屋に入れたんです。何か人間的な目覚めがあったんなら金輪際贔屓しません」
悟浄は困ったように首を傾げただけで何も言わなかった。
それはそうだ。天蓬にとって悟浄は地面に掘った穴だった。穴が勝手に喋る訳にいかない。
「悟空が来てから皆浮ついてますね…。一番おかしいのは三蔵ですけど貴方も影響されて人に構いすぎ。ただでさえ目立つんですから動くと誰かを引きずりますよ。それ分かってて今まで頑張ったんでしょうに。…八戒あたりですかね。あの子貴方が結構好きだから」
抑揚のまるでない喋り方はところどころ千切れて聞こえず、ほとんど譫言だ。もっとも兄弟屈指の頭脳が繰り出す譫言の中身は適確すぎて、悟浄をそのたび震え上がらせた。
…千里眼。燐寸を擦りかけて、悟浄は思わず苦笑した。兄貴の顔すら見えない奴が、千里眼。
この家にやって来た4年前、悟浄はそれなりに頭を使って子供なりの処世術を試みた。向こうから寄ってきた捲簾は勿論、庶子では埒が明かないと果敢にも天蓬にすり寄った。天蓬は淡々と「貴方に近寄られると迷惑である」と言ったが、それは悟浄自身がどうこうより、悟浄のあまりに手加減のない懐き方に拒絶反応を起こしたのと、自分を差し置いて天蓬に懐く弟など斬って捨てそうな捲簾がいたせいだ。そのうち悟浄は急に大人しくなった。表情が薄紙でくるんだように薄くなり、口数も減り、何となく、適当に、巧く日々をやり過ごすようになった。金蝉にいずれこの家を出る旨宣言した直後のことだ。
そうなってからの悟浄は、天蓬には実に都合が良かった。突然抱きついて無遠慮にぺたぺた触ってきた子供が、たった1年かそこらで妙に落ち着き払って冷めた大人になったのはどう考えてもこの家の環境のせいで、天蓬は末弟を少しは不憫に思ったものの、それ以上の同情はしなかった。そういう家なのだから仕方がない。その気になればいつでも出て行けるのだ。悟浄は自分の愚痴は何ひとつ零さず、誰にも言えない天蓬の塵を底なしの穴のように受け持ってくれる。
嫡子にも庶子にも、特に捲簾に見つかってはまずかった。だからほんの時々、10日に1度程度、夜中に。期待もぶつけず何も求めず意見も言わず、ただいるだけ。天蓬にはそれこそが救いだった。
「…どうして僕が三男なんだと思います?」
一方的に話す天蓬の脇で煙草をふかしていた悟浄は、ある日突然モノを尋ねられて何度か瞬きした。
「三番目に生まれたからじゃねえの?」
「…庶子より嫡子が次男のほうが都合がいいでしょう。金蝉に何かあったら次男が爵位を継ぐんですよ。一週間しか違わない誕生日を馬鹿正直に申告する必要がどこにあります?伯爵は捲簾を次男にしたかったんですよ。罪滅ぼしなのか愛人をそれほど深く愛してたのか知りませんが、次男にわざわざ捲簾を選んだんです。僕は選ばれなかった。だから噂になるんです。嫡子が八戒にあれほど似ているのはおかしい、三男になるのもおかしい、僕のほうが実は庶子だと考えたほうがよっぽど自然です。僕だってそう思う。…今更確かめようがないしどうでもいいことですが、問題なのは僕が考えることを捲簾が考えないはずがないってことです。……本当に」
天蓬はそこで不意に言葉を切ったが、悟浄は役割を果たすべく「ふーん」とだけ言った。
…本当に酷い男だ。
親族会議はさすがにこたえた。何故だか気分を悪くしていた八戒なんかより余程こたえた。でも勝った。金蝉の期待通り、自分はどこまでも平気だ。だがどこまでもって、どこまでだ。どこまで、いつまで。
金蝉に弱音は吐けない。三蔵にも見せられない。捲簾の管轄である庶子は無論。
もう誰もいない。
「独角の手紙なら渡してあげます。それ吸ったら行きなさい」
天蓬はのろのろとソファーから降り、部屋が暗いのを差し引いてもかなりあちこちにぶつかりながら手探りでベッドを探し当て、ぼすんと突っ伏した。
「…天蓬」
「うるさい」
「最後なら言いたいこと言うけど医者行ったら?」
天蓬は枕に顔を埋めたまま、髪の間からようやく片目だけ開けた。
「その視力の落ち方、普通じゃねえよ。さっきからずっと耳頼りじゃん。変な使い方してるからじゃないの」
「生活に支障ありませんし貴方にも関係ありませんしうるさい」
「でもさ」
「…もう本当に貴方はお払い箱です。無関心でいられなくなったんなら早く家から出なさい。兄弟に情が移せば移すほど貴方が辛いんです。金蝉に直接話しなさい。今なら人数減らしたがってるから反対しません」
「そうしたいけど卒業証書が欲しいしな」
「金蝉が買ってくれます」
悟浄は長い間黙っていたが、もう以前のように邪魔にもならず、ただいるだけじゃなかった。怒りもせず笑いもせず受け流していた悟浄の中を、今やせき止められていた雑多な感情やら思考やらが猛スピードで走り回っている。
昔、同じように目も眩むような激しい男が近くにいた。おかげで目がつぶれた。
「そうする」
悟浄は花の煙草を一箱だけ懐に突っ込んだ。
「悟浄」
「ん」
「お疲れ様でした」
悟浄が笑ったのか怒ったのかは、目を閉じていたから分からない。来た時と同じように音もなく悟浄が出て行ったあと、天蓬は体を反転させて薄暗い天井を見上げた。だんだんと闇に目が慣れて、天井の模様がはっきり見えだし、天蓬は思わず噴きだした。
確かに視力は落ちてるが第一に原因は本の読み過ぎだし、第二に今は真夜中で、自分は寝起きで目がろくに開いておらず、眼鏡は行方不明だ。あのお人好しが何年も心を開かず淡泊を貫き通すのに、どれほどの忍耐力がいったことだろう。八戒相手にどれだけ苦労しただろう。可哀想に。
…可哀想に。
突然天井が揺れた。
恨むなら庶民に手を出した伯爵を恨んでくれ。貴方みたいな人がくる家じゃなかった。
悟空はどうなるんだろう。悟浄と同じ轍を踏むんだろうか。1年後に。同じように。
「…おはよう諸君」
「おはようございます」
金蝉はいつものように、食卓をぐるりと囲んだ数の多すぎる兄弟たちを、時計回りの一瞥で点検した。そして逆回りに点検し直した。
普段通りなのは天蓬ひとりだ。
三蔵が目を合わせない。これは拗ねてるだけだからいいとして、捲簾が珍しくぼんやりしている。庶子連に「頼り甲斐のある優しいお兄ちゃん」をアピールする為の嘘くさい快活さはどうした。悟浄は更に珍しいことに機嫌が悪い。いつも暗い目が今朝は燃えるようだ。ひたすらオーラを殺してきた、あの努力は放棄か。双子は相変わらず勘にさわる品の良さで微笑を浮かべてはいるが、ふたりの間にそれまで存在しなかった「礼儀正しさ」のようなものが見える。見合いの話を機に一悶着あったのかもしれない。そして、悟空。
突然金蝉と悟空の目が真正面からあった。
初日とは打って変わって落ち着き払った末弟は、狼狽えもせず目も逸らさない。
鏡を見ているようだ、と金蝉は思った。
…何故、鏡。まったく似ていないのに。
成る程、つまり悟空は今、自分と同じ事をしているのだ。兄弟のひとりひとりを点検している。
悟空はすいっと視線を横に逸らせた。
金蝉の左には三蔵。右には天蓬。天蓬の隣に捲簾。
…この席順はいつ決まったんだ。妙だ。何故このふたりが並んでるんだ。物心がついた時には確かもうこうだった。ふたりが瓜二つだった幼少時には、同じ顔を並べるなんてオヤジはなんて悪趣味なんだと苛々したものだが、20年近くこうだから慣れてしまった。何故どちらからも文句が出ないんだろう。
ふたりの間に起こったことを、金蝉はまったく知らない。知っているのは今ある結果だけだ。伯爵家の維持という生涯を捧げるべき仕事に必要な情報は過程ではなく結果。他のことは知れば知るだけ心が乱れる。
…金蝉、冷静でいろ。部下も兄弟も皆平等に扱え。四六時中気を抜くな。本音を出すな。
もう死の淵にあった前伯爵は、最期になって急に本音をぶちまけた。
おまえが弟たちに比べて優れているのは、少しばかりの冷静さと、先に生まれた運だけなんだからな。
傍に付いていた侍従はうろたえたが、金蝉は何の感慨もなく頷いた。
自分は天蓬にも捲簾にも、度胸も頭脳も劣る。そんなことはどうでもいい。俺は努力ではどうにもならない運に恵まれた。それにあの出来のいい弟たちをこれっぽっちも愛していない。知らないのだから愛しようがない。こうでなければ情が湧いて、とても平等になど扱えない。
三蔵が金蝉の前に、音を立てて塩の瓶を置いた。拗ねてはいるが、注意はひきたいらしい。
三蔵への説明不可能な愛情については、金蝉は説明不可能な故に分析を先送りにしていた。知り合った時間だけ取ってみても、三蔵のことは天蓬より更に知らない。しょっちゅう怒鳴ってるだけで、これといって役にも立たない。だがその冷静さとはまったく無縁の弟には、何故か好意が持てた。兄弟の誰といても背筋をぴりぴりと伝う緊張が、三蔵には無かった。
そうこうするうちにも悟空の視線は天蓬と捲簾を交互に往き来し、スープ皿に戻ったと思ったらまた跳ね上がってふたりに直進した。悟空が食事に集中しないのを、今朝は誰も窘めない。悟空の不躾な視線にあの捲簾がまったく気付かず、天蓬は明らかに気付いていたが、その上で無視した。
「さて」
金蝉はひとつ咳払いした。
「本日も通常営業だが何か俺が介入すべき懸念事項はあるか?何かあれば何かあるとだけ今言っておけ、夕方以降なら時間を割く。…何もないなら俺の気に障る態度を取るな。悟浄!!」
突然の怒号に驚いた悟浄の手元で、フォークがキンと耳障りな音を立てた。
「おまえのことだ。ボタンを留めろ見苦しい。二度目だ」
「…後で時間を」
「4時に懲罰室へ来い。花喃、おまえもだ。例の件ならもう進めてる。文句があるなら言え」
花喃は質問の内容にではなく物言いたげな態度を見抜かれたことでびくりとしてから、首を振った。
「ありません。お願いします」
「捲簾。おまえは何をぼけっとしてる。今朝はメイドにもちょっかい出さなかったが」
「…普通褒めろよ」
「ねー天蓬」
悟空がおもむろに口を開いた。
一同は脇に雷でも落ちたように一斉に顔をあげた。
「…なんでしょう?」
「捲簾が見えないって本当?」
食堂は、その場にいた使用人まで一瞬で凍り付けになった。
天蓬は口を開きかけ、また閉じ、急に顔を上げて三蔵を見た。三蔵の顔色はみるみるうちに白くなった。
「…や…俺……俺は…別に何も」
「天蓬ってば」
悟空の不自然なほど呑気な大声は、部屋の隅々まで響き渡った。
「それって捲簾のことが嫌いだから?俺も別に好きじゃないけど、何でそんなに嫌いになったの?皆言ってることバラバラだけど本当はどっちが悪いの?何があったの?」
その後の10分程度、金蝉には記憶がない。長年かかって叩き上げられた精神力はちょっとやそっとで度は失わず、呆然としたとか気絶したとかいう訳ではないが、家長としての心得に従って余計な回線を切り、冷静かつ猛スピードでその場を片付けた。片付けたというのは文字通り、即座に食事を中止させ全員を自室に放り込んだということだが。
天蓬はまったくの無表情で自分から席を立ち、真っ直ぐ自室へ向かった。悟空は悟空でわざわざ全員揃ったところを見計らってテーブルの上に爆弾を放り投げた自覚は十二分にあるらしく、大人しく部屋に閉じこめられた。
三蔵は10分では収まらず、天蓬に睨まれた(と三蔵は思っていた)その瞬間から1時間は頭が真っ白だった。
俺のせいか。俺のせいなのか。
そりゃ口止めした訳じゃないが、普通聞かないだろ、あんな席で。普通って伯爵家の普通だが。
この家は家と名はついているが家じゃない。兄弟とはいえ絶対不可侵、上の者には絶対服従、爵位出の人間なら疑問も持たずに了解し守るべき掟だ。そういうものだ。そう決まっている。だから嫡子は勿論生まれた時からこの家にいる二番目も、侯爵出の双子も、きちんと守った。だがそんなローカルルールが悟空にまで通用するなんて何故思っていたんだろう。
何故もくそも前例があるからだ。悟浄が守ったからだ。あんな精神的引きこもり野郎が前例になる訳がなかったのに。
悟空はわざとやった。敬語も使わず、目上の者に許可をとらずに発言しないというルールも無視し、普通の兄に話す口調で、屋敷中が皆知っていて口にしないことを、わざと。
俺は悟空がそうすると分かってたんじゃないのか。
自分にできないことを、して欲しかったんじゃないのか。
「…追い出したりしないだろうな」
三蔵は自分の独り言でますます追い詰められ、思わず書机に突っ伏した。
金蝉は悟空を追い出したりしないだろうな。自分が嘆願すればきいてくれるかもしれないが、天蓬は無理だ。天蓬が悟空を追い出せと言ったら終わりだ。それでも庶子が一丸となって庇えば何とかなるかもしれないのに、捲簾まで敵にまわしてどうする。馬鹿なのか?あいつらを舐めてるのか?
というか悟空も心配だが俺の身も充分心配だ。今のうち天蓬に言い訳しよう。一刻も早くだ。でないと消される。
三蔵は勢いよく立ち上がって部屋の戸を開け、途端に外から凄い勢いで押し返されて額と鼻の頭をぶつけた。
「何しやがるてめぇ!」
「金蝉様のご命令は自室待機です」
金蝉の侍従だ。三蔵は銃を引き抜いた。
「どかねえと扉ごとぶち抜くぞ!鉛玉は不味いぞ?明らかに人体に有害だ!」
返ってきたのは何と溜息だった。信じがたい侮辱だ。使用人風情が嫡子に向かってこの態度。
「おまえ今何吐いた?え?何吐いた?俺相手に二酸化炭素吐いていいのか?」
「…三蔵様、落ち着いてください。貴方まで規則を軽視なさるとはどういうおつもりです。“金蝉様のご命令です”。…二度言わせないでくださいまし」
三蔵は銃を構えたまま二、三歩下がってベッドに腰を落とした。
規則?くだらない。
…くだらない?
「花喃、胸の重さで落ちるよ」
「あんたの胸じゃないわよ!」
「危ないって」
「じゃードアの前の人殴り倒してきてよ!もう何なのいつまで監禁なのだいたい悟空何考えてんのよ信じられない!」
花喃にとっては悟空の行動すべてが謎だった。天蓬が何考えていようがどうでもいいじゃないか。庶子の最年長である捲簾を「別に好きじゃないけど」なんてよく言えた。
「悟浄!出てきなさいよ!説明しなさいよちょっと!」
「…何で悟浄に説明させるの」
「世話係でしょ!?」
二階の窓から双子が身を乗り出して騒いでいるのを、捲簾は中庭から呆気にとられて見上げた。いくら部屋が隣り合ってても窓越しに大声でその会話はどうだろう。敷地の外まで響きそうだ。
「…あれ、捲簾じゃないですか」
「どうやって抜け出したの!?」
「ふふーん。だてに監禁され慣れてませんて」
捲簾は小石をひとつ拾うと、双子の更に隣の窓めがけて放り投げた。
「出てこい悟浄。知らんふりしてんな」
のろのろと窓が開いた。
「降りてこい。八戒おまえも。庶子会議だ。そろそろ腹わろーぜ」
「私はどうなるの!」
「女は窓から降りるのは無理だな。それにもう家の人間じゃないからな。却下」
「ひど……っ!」
八戒は窓枠に手をかけて捲簾を見下ろした。
「捲簾、僕の姉ですよ。ないがしろにするなら僕も行きません」
捲簾はあっさり両手を挙げた。
「なら飛び降りろ姫。抱き止めてやるから」
「…と…飛び…飛べ………ないんじゃないかしら」
「怖いのか?」
捲簾は両腕を広げたままにっこり笑った。
「“落ちても2階よ。死なないわ”…誰が言ったんだっけ?」
「あの、困るんですけど捲簾様、私もクビは怖いわけで」
真っ青になる料理長や騒ぐメイドを掻き分けて、庶子四人はずかずかと厨房に侵入した。
「奥の食事部屋貸せ。他に連中に見つからない場所がねえんだ。ちったあ庶子を哀れに思え」
「思ってますけど、いえそんな上からは思ってませんけど、でも、あの、実際メイドたちも見てますし、伯爵のお耳に誰かが」
「お嬢様方の口なんざ俺と悟浄で手分けして塞ぐ。鍵貸せ」
料理長は決死の覚悟で捲簾の前に飛び出て扉を背で塞いだ。
「捲簾様、勘弁してください!貴方の…捲簾様のことだと伯爵は余計に…その…申し訳ありません!」
「……」
八戒が捲簾を押しのけて前に出た。
「お願いします料理長。話し合いたいだけなんです。こんな機会滅多に無いかもしれないし」
「あったら困ります!」
「大事なことなんです。迷惑はかけませんから」
「もうざぶざぶかかってますから!何故八戒様まで…貴方らしくもない!」
「ね?珍しいでしょう?貴重でしょう?僕が今まで無茶言ったことありますか?今回だけです。絶対ばれませんし、ばれたら情緒不安定な僕に刃物持って脅されたと言ってください。何なら本当に脅しますよ」
八戒の手が本当に包丁に伸びたので、花喃は飛び上がって引ったくった。
「悟能、貴方どうしたのよ!ちょっとかっこいいわ」
「…基準が分からねえな」
「真顔なわりに言ってること無茶苦茶だしな」
だが結局は八戒の無茶な気迫がきいて、料理長は半泣きで戸を開けた。図々しくも人数分珈琲を淹れさせると、捲簾は戸を閉め、鍵をかけた。それから八戒を振り向いた。
「おまえ、天蓬と似てきたな」
「おや。じゃあ嫌われましたね」
捲簾は煙を一筋吐いた。
「いや、別に?」
金蝉は自室で朝刊を読んでいた。
どんより曇った空のせいで照明を落としたままの部屋は薄暗く、金蝉はほとんど窓に額をくっつけんばかりにして外の明かりに新聞を翳した。紙面と窓枠の間から、上着のポケットに両手を突っ込んで裏庭をとことこ突っ切る捲簾が目に入った。部屋を抜け出すことなどお見通しだ。向こうも、それをお見通しだ。
突然部屋の照明が点いた。
「金蝉様」
「ノックしろ」
「どうなさるおつもりで」
金蝉はぐるりと椅子ごと執事長に向き直った。
「どうもしない。ほとぼりがさめたら無かったことになる。いつもどおりだ」
「そのような暗黙の了解は悟空様には通じないのでは」
近頃この執事長は口数が多い。
「悟空とはこれから話す。…そんなに俺は頼りないか?」
「…貴方はまだお若い」
「なら早死にしたオヤジに文句を言え!」
金蝉は新聞を机に叩きつけ、目の前の使用人を無視して呼び鈴を振った。メイドが血相を変えて飛んできた。
「はい金蝉様!何か」
「懲罰室に悟空を呼べ!」
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