act.14




 この星に天候があり、この国に季節があることに、大人になってから感謝するようになった。おかげで初対面の人間ともいきなり話せる。
「ひと雨来そうだな」
 煙草屋の親父は小銭を受け取りながら頷き、頷いた顎をそのまま脇にしゃくった。
「今朝から一台も車が出て来ねぇ」
「うん?」
「そこ。伯爵んち」
 何故天気の話に伯爵家の動向で応じるのかと思ったら、どうやらこの辺りでは時候の挨拶と伯爵家の雲行きは同義語らしい。
「毎朝この時間は次から次へと車が湧き出て、晴れた日にゃ埃撒き散らして大迷惑なんだが。今朝はどうしたんだか」
 どうしたんだか俺が知る訳ないが、金蝉には用がある。厄介な四兄弟が全員在宅とは不都合極まりないが。
 …まあいい。
 勢いづけに煙をひと吸いしてからわざと玄関先で踏みにじり、呼び鈴を拳で殴った。
 顔を出した侍従は「どちらさま」と言いかけて絶句した。
「…ご無沙汰しております」
「伯爵に面会を。いくらでも待つ」
「お約束も無しでは…」
「俺みたいなのをいつまでも玄関先に立たせとくほうが困るんじゃねえのか?俺にも外のほうが居心地はいいが」
 侍従は考える間を稼ぐために、異様にゆっくりと首を振った。
「誠に申し訳ありません。本日は少々取り込んでおりまして」
「…全員?」
「全員」
「僕でよければ空いてますが、お相手しましょうか」
 おまえなら空いてないほうがマシなんだよと顔に出しかけて何とか耐えた。今や社交界を溢れ出した噂の的は、伯爵と同じかそれ以上の有名人だ。一片の無礼でも働けば、いや働こうとしただけで、女子供構わず殴り飛ばす男だ。
 その天蓬は侍従を虫のように軽く追い払い、気だるそうに髪を掻き上げた。
「おひさしぶりですね。独角」



 庶子会議。いわゆる捲簾による庶子連の招集は数年前には頻繁にあった。今から思うと捲簾の、ただの派閥作りだったのだ。双子を手懐けるための仲良しごっこは、悟浄が来てからは更に勢いづいた。庶民出の庶子、独角の弟、真っ赤な髪と目、迫害要素が百貨店の如く勢揃いした悟浄を親戚はこぞって攻撃し、その悟浄を一丸となって守ろうという建前のおかげでいっそう頻度が上がった。
「あれのおかげでよりいっそう我々は隔離されたと言えますね。貴方しか頼みの綱がないみたいに。勝手に嫡子に接近しないように貴方に首輪を付けられた。結局貴方が手懐け損ねた悟浄がリタイアしたんで会議も間遠になった訳ですが、ほんとは僕らなんかどうでもいいんでしょう貴方。可愛くもない、憎んでもいない、そもそも興味がない」
 半地下の窓を雨粒が叩き出した。
 男ばかりの兄弟の中で花喃が疎外感を感じるのはいつものことだが、今日のコレは過剰だ。
 歌うように話す八戒と、本当に鼻歌交じりでそこらをうろうろしている悟浄と、机の上に足を放りだしてふんふん聞いている捲簾の間では、この事態は事前に了解されていたとしか思えない。花喃の知らないところで。
「…ちょっと待って悟能…貴方いったい誰に口きいて」
「貴女は黙ってなさい」
 生まれて初めてくらった弟からの命令に、花喃は弾かれたように黙った。
「僕の望みは学業を終えて生業を立てるまで平穏無事にこの家で過ごすことと、姉の幸せな成婚。それだけ約束してもらえれば貴方の邪魔はしませんよ。僕も命は惜しいんで」
 捲簾はちらりと花喃を見てから、八戒に戻した。
「本当に天蓬に似てきたな」
「貴方が二度言うとは。褒められてるんですか?」
「わりと」
 花喃がまた何か言いかけて、つんのめったように言いとどまった。
「質問に答える前に質問がある」
「ルール違反ですがまあいいでしょう。どうぞ」
「何だって急に態度がでかくなった?姉貴にふられて怖いものがなくなったか」
「ええ」
 悟浄がぷっと噴きだした。
「確かに俺はおまえらのことなんかどうでもいいが一方的に非難されるいわれもねえな。俺は充分おまえらを可愛がったし、おまえらにも俺が役に立ったんじゃねえのか?…まあおまえの度胸に免じて平穏無事な生活とやらは保証する」
「なら結構」
 八戒は態度は終始落ち着き払っていて、捲簾を相手にしても微塵も揺れない。悟浄は歩き回りながらも八戒を丹念に観察した。こいつが以前あんなに情緒不安定だったのは花喃のせいか。周囲の機嫌を伺っていたのは花喃のためか。こいつから花喃を引くとこうなるのか。
 ということは天蓬に花喃みたいな存在を足すと八戒になるのか?
 …貴方、混乱してるでしょう。
 悟浄は確かに混乱した。泣き疲れた挙げ句人のベッドをひとりで占領してこてんと寝てしまった八戒を、胸が痛いほど愛しくも思ったし、何の権利があって厚かましくここまで甘えるかと血が出るまでぶん殴りたい気持ちにもなったし、そもそも何だってこいつは俺の前で泣く?何故ひとりで泣かない?俺が慰めもしないし頭を撫でてもやらないのも知っていて。
 とにかく悟浄は混乱したまま今朝八戒を揺り起こし、金蝉に頼んで出来る限り早く家を出ると伝えた。八戒は不機嫌そうに独角のせいかと聞いたので、ここにいないのをいいことに「そうだ」と答えた。理由も分からないのにおまえのせいだとはとても言えない。今出ないと出る気がなくなりそうなんだよおまえのせいで、とは。
「次は?花喃か?何か言いたいことは?」
 捲簾は勢いよく煙を噴き出し、棒立ちの花喃を振り返った。
「あ、そういやおまえ俺に惚れてたみたいだけど、値の張る女は苦手でな。跪いて足舐めてくれるような女が好きなんだよ。八戒にしときゃ良かったのになぁ?きっと体のどこでも好きなだけ舐めてくれたぜ」
 花喃の顔色はみるみるうちに白くなったが、震えだした手を捲簾に飛ばしもせず、目も伏せないのは立派だった。八戒も悟浄も無言と見るや、その手でパンと髪を払って3人を悠々と見渡した。
「私は誰にも用はないわ。念のため聞くけど、途中退席の懲罰はあるのかしら」
「よせよ。嫡子の悪しき伝統を引き継ぐのか?俺だったら鞭なんか使わず素手でやるね」
「愛を感じるな」
 悟浄の合いの手を、捲簾は無視した。
「それじゃ私はお先に失礼。…さっきは受け止めてくれてありがと捲簾」
 花喃はドレスの裾を翻し、中を覗こうと寄ってきた使用人を犬でも追い払うように蹴散らして、音を立てて戸を閉めた。残響が収まるまで待ってから、捲簾は「さて」と疲れた声で呟いた。
「…次は悟浄か」
「わざとだろ」
 言った途端、悟浄目がけて火の点いた煙草が飛んできた。
 捲簾がわざわざ憎まれ口をきいて“幸せな結婚”を手助けをしたことには八戒も気付いた。嫌われるなら徹底的に嫌われてくれればいいものを、捲簾は半端だ、何もかも。天蓬のことも。天蓬の話が出ると必ず不機嫌になるが、そのくせいつも自分から口に出す。
 どちらにしろ八戒は経験で、自分が同時に二人以上愛せないタイプなのと同じで、二人以上同時に憎めないとも分かっていた。今の八戒には捲簾以上に不愉快な兄が他にいる。
「俺は悟空が心配」
 悟浄は捲簾に焦がされた毛先を灰皿に捻り落としながら呟いた。また自分のことは棚上げだ。
「大丈夫かなぁ。金蝉、やたらと機嫌悪かったもんな」
「貴方がボタン止めないからでしょうが!」
「ああそうだなーゆうべソファーで寝たせいでなー筋肉痛でなー」
 雨はますます激しくなり、悟浄が筋肉痛の腕を伸ばして明かりを点けた。
「悟空、何がしたかったんだと思います?家庭内の身分差を取っ払って理想の家族像を目指したとか?」
「…八戒、素直にモノを見ろ。あのクソガキはなんつった?」
 捲簾の踵がテーブルをコンと打った。
「“捲簾と天蓬に何があったの?”だ。…あーむかつく。何で俺に聞かねえの?まず俺だろそこは。俺を優先しろよどいつもこいつも。好き勝手にてめぇの脳ミソいじくれる変人が自分に都合の悪い事いつまでも覚えてる訳ねえじゃねえか、俺ならすーぐ教えてやんのに。そんなに俺よりあいつがいいか?そりゃちょっとばかり顔は綺麗だけど?いや、ちょっとじゃねえけど?俺が一度でもあいつみてえにおまえらに手ぇあげたか?一度でもあいつみてぇにおまえらを見下したか?散々庇ったろ?何度も懲罰代わってやったろ?おまえらのことなんか好きでもなんでもねえからってそれが何?嘘だったとしてそれが何?好きなふりするのは実際に好きになるより大変なんだよ。おまえらはともかく会って数日の悟空にまで奴を優先される理由は何!?」
 ガン!
 遂に踵で机に穴を空けそうな轟音が鳴り響き、ふたりは思わず飛び上がった。
「結局あれか?俺はあのクソ天蓬より下ってことか?俺は死のうが生きようがどうでもいい訳か?」
「誰もそこまで言ってねえだろ、何その極論…」
「ならわざわざこんな狭い場所で甘ったるい匂いさせてんじゃねえよ、嫌味かこの突然変異が!」
「捲簾!」
 壁際の悟浄と捲簾の間に割って入った八戒の胸に灰皿が当たり、けたたましい音を立てて床に転がった。
「言い過ぎです」
 音に驚いた誰かが外から戸をノックしたが、諦めたらしくすぐに鳴りやんだ。
 八戒は灰の汚れを払い、灰皿を元通り捲簾の前に置いた。
「…悟空は頭のいい子です。わざわざ天蓬のほうに尋ねたのは、今の状況に関しては天蓬が悪いと判断したからじゃないですか?」
 捲簾は目だけ上げて八戒を見た。
「だって、貴方のほうはこうして天蓬のことを考えて不機嫌になってるのに、天蓬のほうは視界から締め出してるんですよ。貴方と向かい合いもせずに切り落とすなんてそんなの」
 八戒はそこで息を継いだ。
「殺されたのと同じじゃないですか」

 聞かれなかったからだ。
 捲簾が今まで誰にも話さなかったのは、単に誰にも聞かれなかったからだ。
 弟が自分を視界から抹殺したというのに、誰も問題にしなかった。俺が殺されたっていうのに。
 まあ世の中ってそういうものだ。死んでも問題にされない奴は大勢いて、俺も、俺の女もそのひとりだった。それだけの話。

 昔、捲簾は運命と思えるほどの恋をした。相手は部屋付きのメイド。
 誰が誰の部屋に付くかはメイドの一番の関心事だ。機嫌を損ねたら即クビが飛ぶ厄介な嫡子よりは庶子のほうが、いや先の出世を考えたら嫡子のほうがと異動のたびに大騒ぎ。
 当の彼女は18歳になったばかりだったが、そんな人事にはまったく無関心に淡々と仕事に励んでいた。くだらないお喋りで時間を潰すような真似はせず、媚びも見せず、しかし気配りは隅々まで行き届き、控えめで清楚で可愛らしかった。常に身分を弁え決して業務の範疇を逸脱することはなかったが、たった一度、事もあろうに前伯爵に口答えするという暴挙に出た。
「捲簾様の部屋に鍵を掛けるのはおやめください。ここは捲簾様のご自宅です」
 勿論前伯爵は鍵を掛けるのをやめなかったし、捲簾は飽きずに脱走を繰り返した。
 が、たかだかメイドが自分のために、怯みもせずに雇い主に進言したという事実は捲簾を感動させた。
 …ここは、捲簾様のご自宅です。
 その日から居心地の悪いこの家が、捲簾にとっては大切な自宅になった。結果的に捲簾は彼女に恋をし、彼女も捲簾に恋をした。当時、捲簾は12歳。
 12。弟が急に増え出してから、捲簾はようやく客観的に12という年齢について考えるようになった。12歳。悟空と変わらない。運命の恋を実感するには早すぎるが、男としては充分機能する年。しかも捲簾にとっては彼女が初めての女でもなかった。妙に達観して大人びた捲簾は体の成長も早く(天蓬もそうだった)飛び級するほどの頭の出来で(天蓬もそうだった)盛り場をふらついたところで咎められもしなかった。年相応に見られるようになったのは極最近だ。
 自分が生まれて今年で何年目かなんてことよりも、彼女がメイドであることのほうが問題だった。爵位をもつ家の次男が使用人と結ばれるなんてことは許されない。これにも捲簾はあっさり答えを出した。爵位を捨てればいい。彼女がいるところを家にすればいい。
 捲簾は天蓬に相談した。
 相談したのだ、こともあろうに天蓬に。12年間、天蓬と捲簾は極普通の兄弟だった。仲睦まじいというほど無邪気にうち解けるには、生まれ方も天蓬の性格もおおいに邪魔をしたが、同じ部屋で同じ教師に勉強を教わり、食事は並んでとり、生意気な三蔵や厳しい金蝉の悪口を言い合い、おやつを奪い合ったり分け合ったりしていた。
 その日捲簾から、勉強の合間に事を打ち明けられた天蓬は、しばらく黙って眉間を揉んだ挙げ句「よく分からない」と言った。
「…分からないって何が?」
「その…つまり…言ってることは分かるんですが」
 天蓬が言葉を選び損なって詰まる、という現象はこの時点でもう既に珍しかったので、捲簾は驚いた。
「…なんでメイドを好きになるんですか?メイドなのに」
「…ごめん、今度は俺が分からない」
「メイドという時点で、好きから外れるでしょう?」
「なんで?」
「なんでって…例えば…もし相手が妹だったらですよ、妹という時点で外れますよね?」
「外れない。好きになるかもしれない」
「男だったら外れますよね?」
「外れない。好きになるかもしれない」
「…犬だったら?」
「大型犬ならなんとか」
 言ってる途中で天蓬は、もうこの話は終わりだと言うことを示すためにノートをこちらに押しやった。
「…答え合わせしましょう、捲簾」

 その晩、彼女は屋敷から姿を消した。


「…つまり何?クビになったってこと?天蓬がオヤジに告げ口したのか?」
「…ていうか12歳って」
「奴はだな、夜中に俺の部屋までやって来て」
 今まさに天蓬がやって来た、とでもいうように、捲簾は窓の外に目をやった。
「雨の中、俺を外に連れ出した。今俺が通ってるうちのビルがあるだろ、役所の手前の。あの頃はまだ半分土手で、これからビル作るってんで削って土台張ってたとこだった。あそこに俺を連れてって、わざわざ掘り返してまで俺に見せた」
「…何を?」
「だから彼女の死体をよ」
 捲簾は物わかりの悪い弟たちに向かって舌打ちした。
「で、奴は俺に言った訳。“ね?”って。“伯爵家に逆らうとこうなるんですよ”…なーんの悪気もなかったな。いい勉強をしましたねってなもんだ。そういう家でそういう教育受けてりゃそうなるよ。天蓬が悪いんじゃない。悪いのは俺だ。メイドに惚れたことは間違いじゃないが、誰かに秘密を打ち明けなけりゃ収まらなかった俺は間違ってた。天蓬は俺とは根本的に違う人間だってことを忘れてた俺が間違った。そこに埋まるべきはどう考えても俺だった。何で俺にわざわざ見せた、おまえはそんなに俺が嫌いかと聞いたら、奴は心外だって顔をした。奴にとってはオヤジに密告したことも、俺を連れてきたことも、全部俺のためだった。俺への親切だった。“こんな女が貴方にふさわしい訳がないってコレを見れば分かるでしょう”…生憎、俺には全然分からなかった。コレってのが首から上を叩き潰された泥まみれの死体のことなら、おまえなんかよりよっぽど綺麗だ、申し訳ないが俺はおまえを許さない、俺が死ぬかおまえが死ぬまで許さない、いっそ今すぐ俺もここへ埋めろ、おまえが埋めろって、そう言った。勿論もっと酷い言い方で言ったよ。当たり前だろ、大雨で真夜中で目の前に好きな女の死体があるんだからよ」
「何でその場で天蓬を殺らなかったの?」
 悟浄が「何で今日の夕飯は和食じゃないの?」とまったく同じ調子で尋ねた。
「俺だったら天蓬のほうを埋めると思うけど」
「何で好きな女と同じ命日に同じとこに埋めてやらなきゃならねえんだよ」
「そんなもん?」
「…まあとにかく俺がそう言ったら、天蓬は心底驚いた顔で俺を見た。それが多分、奴が見た最後の俺だ」
 突然八戒が小さく嘔吐き、悟浄が身を翻して戸を開けた。
「珈琲のお代わり頂戴。あと水も」
「…なんでおまえが気分悪そうなんだよ。昔の話だ。もう…ずーっと昔の」
 八戒は口元を押さえたまま、無言で首を振った。
「俺はそれまで天蓬のことを、相棒みたいに思ってた。だから俺と一緒に苦しんで欲しかった。俺らをこんな目にあわせたこの家はいったい何なのか、ちゃんと考えて欲しかった。でも俺を臭いものに蓋をするみてぇに見るのをやめて逃げた。俺はそれが許せねえんだ。無かったことにしたのが許せない」
 珈琲カップを3つとグラスひとつを片手で持って戻ってきた悟浄を、捲簾は一瞥した。
「俺が悟浄を気にくわねえのはな、こいつにも逃げ癖があるからだ」
「何の話よ」
「てめぇの話だよ。逃げんだろ?家から」
「逃げるも何も、元から俺の家じゃねえもん」
「へーぇ。おまえの家はどこよ。独角か?あの薄情な兄貴がおまえの家か」
「僕も逃げたい…」
 八戒は呻いた。
「これ以上余計なこと知ったら耐えられなくなりそう」
 次に響いたのは、ノックというより殴打だった。
「…そのノックは花喃」
「どうしたの悟能、なんで一転顔が真っ青なの。まあいいわ、悟浄ちょっと」
 花喃は悟浄の腕を引っ張って耳元で囁いた。
「独角が来てる」
「…は?」

 


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