act.15




「今?ここに?」
「貴方が呼んだんじゃないの?」
「…どうやって呼ぶんだよ。窓からか」
 そうだった。悟浄は手紙一通検閲無しでは出せないんだった。
「…悪かったわ。じゃあ急に来たのね。とりあえず貴方は部屋に戻ったほうがいいと思う」
 独角の名を聞いた途端、背後の八戒がビンと殺気立った。
「何しに来くさりやがったんでしょうかね!」
「…噛みつくなよ頼むから。この家にひとりもまともな兄弟がいねえと思われたくねえんだよ」
 八戒は渋々口を閉じ、捲簾は不思議そうな顔をした。
「まるで俺より独角のほうがまともみたいじゃねえか」
 独角の、この家での立場は最悪だ。籍を抜いても血が繋がってることに変わりはないが、籍を抜いた以上「華族にふさわしい振る舞い」を強制できず、悟浄がいる以上完全に締め出す訳にもいかない。嫡子は持て余し、庶子には悟浄を捨てたと責められる。
 まあ八戒に噛みつかれたぐらいで気に病む男ではないのだが、何故かいつもタイミングが悪い。
 半年前に来た時はたまたま親族会合中で高飛車な連中と鉢合わせしたし、今日は今日で悟空の反乱。
 悟浄は花喃に礼を言い、捲簾と八戒を置いて厨房を出た。
 これ以上この家が「嫌なところ」だとは思わせたくない。でないと独角を責めることになる。

 悟空は懲罰室の場所を知らなかった。
 悟浄が厨房を教え、八戒が温室を教え、三蔵が書庫を教え、捲簾が町を見渡せる丘を教えたが、誰も懲罰室を教えなかった。
「…それでは、ご案内します」
 何とも不可解な顔をしたメイドの後をついて歩きながら、悟空はそれに思い当たって微笑した。
 兄たちは実に自分勝手に自分の教えたいことだけを教えた。家の基準ではなく自分の基準で動いた。自分が寛げたり、隠れ家だったり、大事に思えたりした場所を、悟空に分けてくれた。自分がずっと欲しかった兄弟とはそういうものだ。もっと自由で、不作法で、自分の一部と思わなければできないような遠慮のない愛し方や憎み方をする。それが一生続く。そういうものだ。
 三蔵は縁を切れと言ったけどそんなことはしたくない。家族になって一生こだわられたい。例え将来離れても、自分の一部として意識され続けたい。
 夕べ血まみれで歩いてた捲簾のことは好きになれそうになかったが、天涯孤独だった悟空には、その捲簾ですら羨ましかった。視界から消すほど弟にこだわられた、捲簾の何かが、少し羨ましい。捲簾は何をしたんだろう。きっとこの家の人間がしないことをしたのだ。真面目に。深く。

「初めてだな」
 金蝉が言い、悟空は頷いた。
 懲罰のことなのかふたりきりで話すことなのか、どっちにしても初めてだ。
 長兄の声は低いがよく通り、抑揚がないのに正確で、何を話しても「決定事項を申し伝える」という断固たる感じがした。声の出し方すら1から徹底的に教育された物言いといい、薄明かりで発光しそうな金髪といい、理屈抜きにこの人は、他の兄弟とは決定的に何かが違うと思わせる。
 懲罰室と名はついているが極普通の小部屋で、入り口に椅子があり、壁際に机があり、その上に鞭があった。外が薄暗いので明かりがついていたが、金蝉は「後で消す」と言った。
「俺は人の泣き顔を楽しむタイプじゃないんでな」
 悟空が“人の泣き顔を楽しむタイプ”を想像する前に、金蝉はコンと机を指で叩いて遮った。
「俺が言いたいのは、別におまえを殴りたい訳ではないということだ」
「…はい」
「しかし俺はこうして鞭を持っているのだから結局殴る訳で、俺にもおまえにも実に残念な事態だ。こんなことは二度ないように願いたい。何故殴られるか分かってるか?」
「天蓬のことを皆の前で言ったから?」
「疑問に疑問で答えていいと誰かが間違えて教えたらしいな。悟浄か?八戒か?」
 悟空は同じセリフを、語尾を上げずに繰り返した。 
「そのとおり。おまえはまったくおまえに関係のない立ち入った質問を、軽々しく口をきける立場ではない目上の人間に対して公衆の面前で行った。無遠慮で敬意を欠いた行為だ。天蓬が困ると思わなかったのか」
「思った」
 悟空は言い切り、言い切られた金蝉は机に腰掛けた姿勢も顔もそのままで「やりにくい」とつぶやいた。
「思ったらするなよ」
「困らせたかった」
「…おまえは人の泣き顔を楽しむタイプなのか?」
「そうでもないけど、遠くで礼儀正しくしてたら天蓬のことが分からない。俺の兄貴なんだから知りたいし、兄弟なんだから遠慮したくない。答えたくないなら金蝉じゃなくて、天蓬がそう言えばいい」
 話してる途中で金蝉は、机の上からつっと滑り降りた。
 悟空は金蝉の軌跡が金色に残るのを目を見張って眺めた。
「おまえには恐れ入った」
 口調こそ穏やかだが、パチンと小さな音を立てて手の中で鞭が鳴る。
「子供だと思って侮った。三蔵が突然話し合おうだとか知り合おうだとか気味の悪いことを言い出したもんだから、俺はかかりつけの医者を呼ぼうかと思ったぞ。そんなおまえに郷に入っては郷に従えという言葉を贈ろう。分からなければ辞書をひけ。おまえは兄弟と深く知り合い好きになったり嫌いになったりしたいんだろうが、それに優先する主従関係が我が家にはある。これもまた立派な絆のひとつだ。一般家庭の御兄弟のようにべたべた馴れ合うのは、ここが一般家庭ではないという単純な理由から不可能だ。馴れ合いたかったら庶子とやれ。二度と嫡子に対等な口を聞くな。三蔵が許しても俺が許さん。分かったら袖を肘まで上げろ」
「…やってみなくちゃ分からない」
「やってみる権利はおまえにはないんだ。…悟空」
 金蝉は不意に微笑んだ。
「何でも思い通りにはなると思うな。人生を決めるのは努力でも才能でも顔でもない。運だ。まず運があって初めて、努力も才能も役に立つ。おまえは運がいいか悪いかして、伯爵を父と兄に持った。嘆いても怒っても変わらん事実だ。どうせなら、誇れ」
 優しいが、我慢の限界が無いほどは優しくないと、はっきりと相手に伝える口調。
 伯爵は三蔵みたいにはいかない。今の状況に迷いがない。ひとつでもヒビがあれば、そこから割れるのに。
「9番目のおまえのことなど誰も気にしない。大人しくしてれば済む話だ。それとも家を出るか?食い扶持が減ってほっとしてる養父母のところへ帰りたいか」
「…俺は9番目だからって理由で、ここにいるのを許されたくない。俺だから、許されたい」
「家の役に立つ人間になれば許すも許さないも俺が家から出さん。分かったら袖を上げろ。両方だ。二度言わせるな」
 悟空は考える時間を稼ぐために、のろのろと袖を捲った。これ以上逆らうと家から放り出される。
 家は出たくない。皆と別れたくない。でもこのままの家は嫌だ。俺の希望はそんなに難しいことなのか?
「いい子だ」
 金蝉は言って、手を伸ばして明かりを消した。
「目を瞑れ。見てると余計痛い」
 何もないはずがない、人間なんだから。迷いを見せない訓練をしてるだけで、何かあるはず。
 金蝉に、この一番上の兄に何か問題は。今の兄弟たちに何か…。
「金蝉!」
 今まさに悟空の前へ回り込んで鞭を振るおうとしていた金蝉は、つんのめったように止まった。
 あるじゃないか。大問題が。
「捲簾はどうするの!?」
 金蝉は振り上げた鞭をそのまま傾け、自分の肩にとんと預けた。
「……どうするの、とは?」
「捲簾は伯爵になる気だ」
 一瞬間があって、また勢いよく照明が点灯した。金蝉が正確にスイッチに鞭を当てたと分かるまで数秒かかった。
「何故そう思う」
「だって…だってそうに決まってる。これ以上天蓬にやることがない」
 金蝉はふっと窓の外に目をやった。
 …やった。迷った。急かしてまで聞き出す価値がある話なのか、どこまで信用していいのか、判断材料が何も無くて決めかねてる。
 ほら。俺を知らないからこういうことになる。俺に関わってくれないからこうなる。三蔵ならもう、俺相手に迷わない。
「金蝉、聞いて、俺はただ皆と…」
「捲簾のことなら俺のほうがよく知ってる。俺の命令には最低限従ってるし家名にきちんとプライドを持ってる。夕べも家のために…」
「そんなの、伯爵家の名前を落としたら伯爵になる意味がないからじゃん!」
 金蝉は今度こそ、悟空を真っ直ぐに見た。
「悟空。おまえ何を根拠に言ってる?」
「…俺が捲簾だったらそうするっていう想像」
「意味のない事をするな。おまえは捲簾じゃない」
「でも庶子だ。やっぱり無理だよ、こんなにはっきり区別されてるんだから庶子には家がどれだけ大事かなんて分かんないよ。捲簾はちっちゃい時から伯爵のせいで酷い目にあってて、疑問ももってて、天蓬のことも恨んでて、なのに今、家に残って家の為に働いて金蝉の言うこともきいてる、その理由って何?俺が二番目だったら絶対伯爵になってみようと思う。伯爵になってみれば、この家にどれだけ価値があって伯爵が何なのかが一番手っ取り早く分かる。天蓬にだって勝てる」
 金蝉は、自分が雨音を咎めれば雨が止みでもするかのように、ほんの一瞬窓硝子を睨んだ。
「俺への忠告って訳か」
 再度口を開いた時には、口調は平静に戻っていた。
「生まれた時から毒味は付いてるし窓は防弾、簡単にはやれやしねえよ。おまえの考える事じゃない」
「考える事だよ!兄弟のことじゃんか!」
 悟空はこの時点で、自分の発言がいったい誰の身を危険にさらしたのか、まだ気付いていなかった。
 捲簾が引きずっていた死体のせいで、捲簾の煮えたぎった気性のせいで、捲簾さえ押さえれば誰も傷つかないと思いこんでいた。
「だからもっとちゃんと話して、捲簾とも普通の兄弟になれば…」
「どうせ早死にの家系だ。たいしたことじゃない。その覚悟あっての貴族だ」

 …あまり命とか大事にする家じゃないんだな。他に大事なものがあればそれを優先する。

 伯爵家はこんな人間を作るのか。生まれた時からこんな価値観を叩き込んでこんな人間を作るのか。
 金蝉は鞭でトントンと肩を叩きながら、悟空が顔を上げるのを待った。本人が自分の非を認めて納得し、反省するまでは殴れない。でないと躾ではなく暴力になる。
 …何故こんなに頑ななんだ。嫡子と一線ひいてろというだけのことが何故できない。
 金蝉は生まれてから今までの天蓬との付き合いを頭に思い浮かべたが、「楽しい」という思い出がひとつも無かった(無論捲簾とはもっと無かった)。頭がきれて、傍にいると役に立つだけの男だ。伯爵家自慢の弟だ、できることなら一生傍に置いておきたい、だが例え死んでも自分は泣かないだろう、惜しむだろうが哀しくはないだろう、そういう男。多分お互いに。
 なのに9番目は、俺の危機を勝手に想像して何とかしろと言っている。訳が分からない。
「…悟空、俺はおまえのおかげで今日の仕事をふいにしてこれからの予定も詰まってる。早い話がさっさと済ませたい。無礼を謝って二度としないと誓え」
 悟空はキッと顔を上げた。
「誓わない」
 金蝉は返った言葉を反芻した。誓わない?
「納得いかないから誓わない。でも家は出ない。天蓬のことも金蝉のこともちゃんと知りたいし俺のことも知って欲しい。それが間違ってるんだったら、俺は何度でもやるから何度でも殴ればいい」


「…また思い切ったこと言いましたね」
「殴られてから言えればもっとかっこよかったな」
 懲罰の後に庶子を探して厨房に行ったら、穏やかとも言えないムードの捲簾と八戒がいた。残香から察するに、さっきまで悟浄もいたらしい。ならそのまま居続けてくれればいいものを、何故捲簾を置いていく。
 捲簾に薄ら笑いで言われると、全くその通りである手前大泣きする訳にいかなくなって、悟空は次兄を睨み付けた。
「捲簾のせいだよ!半分ぐらいは!」
「きたよ。結局俺のせいだよ。おまえの反乱も天蓬の視界も俺のせいで今日の大雨も俺のせいだぜきっと」
「悟空」
 八戒は自分もまだ包帯が取れない腕で悟空の傷に布を当て、そっと撫でた。
「もうやめなさい。日を置かずにこんなこと何度もやられたら、本当に腕が死にますよ。金蝉は情で動く人じゃありません。間違ってるとか正しいとかじゃなく、貴方とは別のことを当たり前にして今まで生きてきた人なんです。変えようとしても無理です。…兄だからといって、無理に愛さなくてもいいんです」
 それにしてもこんな子供が、泣きもせずによく堪えた。糸で切ったように真っ直ぐな傷口は腫れ上がって弾ける寸前だ。
「なら天蓬から変える!」
 悟空は鼻声で喚いた。
「…変わんねえよ、あいつは」
「いいや変える。三蔵だって変わった。本当は自分のこと聞いて欲しがってた。思ったこと話せる相手がいて嬉しくない人なんか絶対いない。捲簾、天蓬の部屋教えて」
「やだね」
「やだねじゃねえよ!俺の兄貴だ、部屋ぐらい教えろ!」
「これ以上俺の許可無しに奴に近づいたらぶち殺す!」
「…まあまあ」
 八戒の合いの手は、考え事をしながらだったので多少緩んだ。
 捲簾が天蓬を憎んでいるのは、婚約者を死に追いやったからじゃない。きっかけはそうだとしても、その後逃げたからだ。自分を視界から締め出したからだ。とすると、じりじりと天蓬の外堀を埋めてきた捲簾の目標は何だろう。自分だったらどうする?自分を見もしない人間の目を開かせる為には。
 …追い詰める。それ以上逃げられないところまで。自分しか見えないところまで。
「なんだよ金蝉も捲簾も、俺の許可俺の許可って何様なんだよ!それじゃどっちが伯爵でも同じことじゃんか!弟は兄貴の持ちもんじゃない!もう知らねえ!俺は勝手にやるから勝手にしろ!」
 …どっちが伯爵でも同じこと?
「あ」
 八戒は思わず呟いた。外堀を埋めて本丸を取ってしまえば逃げ場がない。伯爵の第一秘書である天蓬には、捲簾しかいなくなる。
「…伯爵になる気ですか」
 もう宥める気にも引き留める気にもならない使用人達は、泣きそうな顔で突っ込んできた悟空が同じ顔で飛び出していくのを呆気にとられて見送った。そろそろ昼食の仕込みをしたいのだが、いつまでもこの調子で騒がれては集中できない。
「…どうして仲良くできねえのかな、ここの坊っちゃん方は」
「ねえ」
 料理長のぼやきに、メイドが応じた。
「簡単なのにね」
 

「そんなに家が大事なら、何だって評判落とすようなことばっかやってんだ」
 玄関で押し問答するような真似は品位に関わるからやめてくれ、と言ったらこの返事。
 伯爵家三男手ずから茶を注いでやってるというのに、礼は無いわ足は組むわ言葉は荒いわ、つくづく下品な男だ独角は。
「僕は何もしてませんけど」
「へえ?婚約者殺したとか実は庶子だとか女嫌いだとか瓜二つの弟を虐待とか違法煙を密輸してるだとか勅撰議員の党首暗殺を計画中だとか、そりゃあもう愉快な噂の大行進だぜ」
「…本当に愉快ですね。少し驚きました」
 どうせ味など分からない相手に丁寧に淹れるのも馬鹿馬鹿しい。
 天蓬は砂時計の砂が落ち切る前に、注いだ紅茶のカップを、独角のほうへ押しやった。最後の噂の犯人は、金蝉がクビにした例の秘書だろう。まったく男の嫉妬は厄介だ。
 独角が屋敷に入った回数は片手で足りる。しかもいつも本館の客間、これ以外の部屋は知らない。必要に迫られて金蝉と話した以外は、嫡子との会話は挨拶程度だが、初対面からものの数秒で、独角は天蓬に違和感をもった。
 こいつとは合わない。貴族なんかと気が合うわけないが、目が合わない。
 礼儀としてこちらを見てはいるのだが、見られている気がまったくしない。
「…天蓬よお…」
「呼び捨てはご遠慮ください」
「天蓬さんさぁ。噂ってのは火種があるんだろ。たまたま煙が…天蓬さんからあがってるだけでよ」
「だったら?」
「悟浄を引き取りに来た」
 さり気なく言ったつもりが、焦りが出て声が掠れた。
「予定より早いが、別に問題ねえだろ?」
 天蓬は無反応だ。湯気で曇らないよう眼鏡を押し上げて紅茶を啜っている。
 ああ、どうでもいいか。そりゃそうだ。っつーかはなからおまえに用はねえんだよ。金色の伯爵様は何してる。いっそ家捜ししてやろうか。どうせこの部屋よりいくつもランクが上の客間がごろごろあるんだろ?
「独角」
 おまえは呼び捨てか。そういや年上だった。全然見えねえ。

「悟浄はいくつです」

 奇妙な間があった。
 天蓬は硝子玉のような目を上げ、独角は視線を避けるように腰を浮かせかけ、また戻した。
「…年下だ」
「当たり前です。いくつです」
「…17」
 天蓬はふっと溜息をついてまた紅茶を注いだ。次に口を開くまでの間、独角は椅子の上でじっと座っていた。
 何も大人しく待つ必要はない。「それがどうした」とさっさと部屋を出て使用人を捕まえればいい。こいつと向かい合ってるより生産的だし、自分には時間がない。なのに独角は身動きひとつできず、天蓬がカップを皿に戻すまで待った。
「…子供にとってひとつの年齢差がどれだけ大きいか、知ってるんですか貴方は。贔屓目に見ても出来が並以下の悟浄が、一学年上の学業についていくのにどれだけ苦労したと思ってるんです。何も本人も自覚してない苦労を理解しろとはいいませんが、僕が言わないと貴方は一生そんなことに思い当たらないでしょうから、一応、嫌味として言っておきます」
 一息に言うと、天蓬は膝をはらって立ち上がった。
「お待ちを。金蝉は用事が済んだらすぐ来ます」
「天蓬!」
 声量の調節も忘れた独角の大声に、天蓬は振り返りもしなかった。
「金蝉は知りません。聞きたいことがそれなら」
 目の前で戸が閉まった後も、扉に天蓬の残像が残っている気がした。
 …金蝉は知らない?
 独角は無意識にシャツの胸の辺りを握り締めた。心臓が痛い。上から見ても分かるほどドクドク波打ってる。
 そりゃ金蝉が悟浄の本当の年を知っていたら、例えどんなに奉仕精神に満ちあふれていたとしても悟浄を引き取りはしなかっただろう。身辺調査を担当したのが天蓬だったとしたら、天蓬だけが知っていたのは不思議じゃない。不思議なのは何故、それを金蝉に報告せずに止めたのかだ。
 何故黙ってた。何故黙っていてくれた。

 独角が慌てふためく様は面白かったが、彼に一矢報いる権利が、果たして自分にあっただろうか。
 …まあ、もう二度と会うこともない。
 天蓬は扉を閉めると、途端に花の匂いに驚いて顔を上げた。
 悟浄がいた。ぽかんと天蓬を見ていた。
「……悟浄」
「ああ」
 呼吸のような声だった。
 人は本当に驚くと、こんな声しか出ない。
 「まさか」とか「なんで」なんて文章は出ない。いつかの自分もそうだった。
「ああ。…そうだったのか」

 俺は16だったのか。



→novels top
act16