act.16




「メイドも置かずにほったらかしにされるとは、歓迎されないにもほどがあるぜ兄貴」
 天蓬が消えたものの数秒後に、悟浄がずかずか入ってきた。独角は息も整わないまま椅子から飛び上がった。
「何おまえ!いつ来た!」
「今」
 半年前は「兄貴!」と叫んで可愛く抱きついてきたはずの弟は、片手で独角の肩をトンと突き、軽々と席に押し戻した。
「ん〜?何慌ててんのかなお兄ちゃんは。さては天蓬と俺の悪口でも言ってたか。赤いとか赤いとか」
「…それ悪口なのか?」
「ここではな」
 悟浄はさっきまで天蓬がいた場所にどっかと腰を下ろした。
「で、何よ急に。来るなら来るで連絡ぐらいしろよ、自分の立場分かってねえんじゃねーのかこの馬鹿。猛突進するしか能がねえ奴が自力でここに座ってる訳もねえしよ。伯爵様は下々の者と違ってお忙しいんだよ」
「…あんだとコラ」
 あまりに矢継ぎ早の悪態に、独角は悟浄が立ち聞きしたかどうか測るタイミングを失った。
「ちょっと見ねえうちに達者な口きくようになったじゃねえか」
「そっちはまったく成長してねえけど、もう伸びシロもねえってか?お気の毒様」
「ここじゃのびのび悪態もつかせてもらえねえらしいな」
 悟浄が急に黙ったので、独角もつられて口を噤んだ。…図星かよ。
「あ、そうそう」
 悟浄はパンと手を打った。
「弟が増えた」
「まだいたのかよ!!」
 “弟”と口に出した途端、悟浄は条件反射のように笑顔になった。そうすると自分の後をよちよちくっついてまわってた頃の子供のような顔に戻り、独角は内心ほっとした。肩を押した力といい、半年前より確実に高くなった視線といい、少し目を離すとあっという間に成長してしまう。
 俺だって目を離したかなかったよ。全部ちゃんと見ててやりたかったよ。
「かっわいいよ。凄く。弟ってあんな可愛いもんなんだな。知らなかった」
 普通は急に知ったりしねえがな。
「…誰かに似てんのか?」
「どうだろな。顔は特に誰ってこともねえけど、強いて言えば一部天蓬に似てるかな」
「どの一部だよ、こええな」
「…なんとなく…能力が?」
「ますますこええな」
 大丈夫、こんな話するぐらいなら聞かれてない。
 掌にかいた汗を、独角はこっそりソファーに吸い取らせた。
 その可愛い弟が、実は弟でもなんでもないなんて知ったら、こいつは。
 自分の年が誤魔化されていたと分かったら、悟浄はたちどころに気付く。そりゃ天蓬なんかに比べたら遙かに劣るかもしれないが、悟浄は馬鹿ではないのだ。そうとは知らず飛び級できる程度には。
 伯爵は好奇心に溢れ、いつも目を輝かせ、惚れっぽく、飽きやすかった。伯爵が双子の生みの親である侯爵令嬢に会った時にはもう、母親は捨てられていた。正確には伯爵らしく、礼儀正しく、別れを告げられていた。
 独角は覚えていた。家に出入りしていた男の面子。その時期も。どう考えても16だと計算が合わない。

 悟浄の父親は伯爵じゃない。
 赤毛の男。

 母親のほうは一途だった。健気が服着て歩いているような女だった。折りに触れては兄弟に言い聞かせた。
 貴方たちは伯爵様の子供なの。お父さんは町を丸ごと持ってるような男なのよ。
 あまりに色んなものを持っているから、持っていることも忘れてしまうの。
 自分をいくら騙しても限界は来る。魔法の効果は徐々に薄れる。次第に兄弟への扱いに差が付いた。そして始まった悟浄への虐待。それでも独角の前では譫言のように繰り返すセリフを、悟浄の前で喚くことはなかった。完全に魔法が切れるのが怖かったのかもしれない。
 悟浄はあの人の子供じゃない。悟浄はあの人の子供じゃない。
 可哀想な女。可哀想で馬鹿な女。だから独角は、身勝手な母親に憤りながらも最後は泣いた。背中から突き刺した包丁を抜き取ったその瞬間、飛んできた返り血と一緒に涙が溢れた。
 後悔なんかしていない。悟浄を守るためだった。幼い弟には未来があり、彼女にはなかった。あったとしても手に入れる努力を怠った。誰に詰られても構わない。絶対に捕まる訳にはいかない。まずは悟浄を逃がすのだ。治外法権のあの家に。

「待たせたな」
 現れた金蝉は明らかに不機嫌で、動作に勢いがつきすぎて開けた扉が扉止めに当たってまた戻ってきた。
 悟浄は嫌な予感で眉を顰めたが、独角はまったく躊躇しない。
「何だそれ。乗馬かなんかか?」
 金蝉は慌てた様子もなく、手にした鞭をメイド目がけて放り投げた。
「悪いが本日は多忙でな、話なら手短に頼む。おい、独角に茶を入れ直せ。俺には水。悟浄には…」
 言いながら金蝉は、部屋からこっそり出ようとした悟浄の襟首をひっつかんだ。
「灰皿の換えだ。…おまえ何故ここにいる。自室待機の意味も分からんか」
「…分かりましたが逆らいました」
「まあ呼ぶ手間が省けた。独角、どうせ用件はこいつ絡みだろ。一緒でいいな?」
 金蝉は悟浄と独角の椅子を並ばせ、メイドにわざわざ隣室から運ばせた椅子を向かいに据えて腰を下ろした。がどうも位置が気に入らなかったらしく、上座へゴトゴト椅子ごと移動して、二、三度座り直してからようやく落ち着いた。
「…おい悟浄、伯爵はいつもこうなのか?」
「位置取りにこだわるのは政治家の習慣なんだよ、議場の席順ひとつ間違っただけで号外が出るから。気にすんな」
「気になるわ」
「用件を聞こう」
 聞こうと言いながら、金蝉は独角にまったく口を開かせなかった。
「悟浄を今すぐ引き取りたいって話なら、あと半年待て」
 一瞬で片付けられた独角は、前傾姿勢で静止した。
「話は済んだな。じゃあさようなら」
「ちょ、ちょっと待て。ついていけてない」
 金蝉は腕を組み、色素の薄い目で独角をじっと見た。
「…独角、あまり俺を侮るな。俺に会う用件といったらそれぐらいしかないだろう。何なら理由も当てようか。そもそもおまえがうちと縁を切ったのは、悟浄が母親殺しの容疑者であるおまえの巻き添えにならないようにだ。迎えに来たということは、ようやくほとぼりがさめたってとこか。もう住まいを転々としなくて良くなった訳だな。ひとまずおめでとう」
「……あ、ああ」
「で、その途端、今度は伯爵家に犯罪者がいるってんで弟を預けとくのが怖くなった。傑作だな、人殺しでも人殺しは怖いか」
「…金蝉」
「勘違いするな。俺が一度でもおまえを責めたか?人を殺めるにはよくよくの事情がある。真剣に戦って生きてりゃ譲れない事情のひとつやふたつ誰にだってある。おまえにもあった。うちにもある。他人の事情を詮索するような野暮な真似はお互いよそう」
「半年の根拠は?」
 悟浄が押し殺した声で尋ねた。
「俺はすぐに出たいんだけど」
「らしいな。便宜を図ってやれと天蓬にも言われた。が5分前に事情が変わった。今は兄弟を減らす訳にいかん。半年待て」
「なんで」
 金蝉はもう立ち上がっており、部屋の前には既に従僕がじりじりとスタンバイしていた。勿論、独角を丁重に玄関までお送りする為だ。
「いいから半年待て。そのかわり、立派な卒業証書を付けてやる」

 ああ。そうだったのか。
 
 その一瞬で悟浄は白昼夢を見た。氷の夢だ。グラスに入った氷の夢。
 とろとろと注がれる琥珀に溶かされて、ピチピチと小さな破裂音がする。
 ずっとずっと心に引っかかってたものが溶ける音だ。
 
「訳分からん。事情が変わったってどういうことだ。半年待ったら何があるんだ?」
 後ろに影のような従僕がぴったりついて来ていたが、独角は一向構わない。使用人が金蝉直通の盗聴器だなんて発想はないのだ。普通ないが。
「さあな」
 悟浄は慎重に答えた。見当はついてる。頭の中で次から次へと氷が割れる。
「天蓬がおまえの便宜を図るってどういうことだ?あいつ、もしかしていい奴なのか」
「さあ」
 とにかく独角を外に出すまでは滅多なことは口にできないし、落ち着いて考え事もできない。
 それでなくても俺は今いっぱいいっぱいなんだ。当然だろう。俺には本当の兄弟がいなかった。独角とさえ、半分しか繋がっていなかった。
「悟浄、本当に俺が引き取っていいんだな?ぎりぎり食わせてはやれるが、いい暮らしはできねえぞ」
「分かってる」
「いい服も着れねえし」
「そろそろボタンが付いてない服が着てぇよ」
「悟浄様とか呼ばれなくなるぞ」
「呼ばれたくなったらそういうプレイをするからいい」
「弟にも会えなくなるぞ」
「…それも分かってる」
「あとな、俺は煙草が嫌いだ。俺と住むなら禁煙しろ」
「マジかよ!今ので他の問題が全部消し飛んだ!え、マジで!?」
 玄関まで来たところで、厨房に続く階段から脱兎の如く悟空が飛び出してきた。
「ところで悟浄。あっちから弾丸が来るぞ」
「…悟空?」
 悟空は悟浄に気付くと泣きそうな顔のまま速度を上げ、独角が慌てて飛び退いたところを一直線に、悟浄目がけて体当たりした。
「いって!何だよおい!…どうした?懲罰で泣いたのか?」
「泣いてねえ!!」
「…おい。懲罰ってなんだ」
 独角が低音で唸った。しまった。独角は家族間の暴力に過剰反応するんだった。
「あー悟空、こいつが独角。ほら、前に教えたろ?4番目の兄貴」
 悟空は悟浄の腹にしつこくしがみついていたが、いきなりばっと顔を上げた。
 …血の臭い。
「初めまして悟空。諸事情であんま会う機会もねえんで、今まで失礼したな」
 独角は身をかがめて挨拶したが、悟空は凍り付いたように動かない。
 大きな目の焦点が、独角の後ろ、僅か斜め上にぴたりと合った。
 ああ、この人も長い間引きずっている。血まみれの、女の人を。
「…悟空?どうした?」
 悟空はようやく悟浄から手を離し、独角に向き直ってぎこちなく頭を下げた。
「初めまして。悟空といいます。よろしくお願いします」
「俺とは別によろしくしなくていいけど、くれぐれも悟浄をよろしく頼むな。…じゃ悟浄、近いうちにまた」
 言うなり独角は、玄関を開け放って苛々待っている従僕に素早く蹴りを入れ、あっという間によってたかって視界から締め出された。
「そういうことをするから益々俺の立場が悪くなるんじゃねえかよボケ野郎!」
「…今の人が、悟浄の本当のお兄さん?」
 悟浄が見下ろすと、悟空はじっと見返してきた。
「捲簾が言ってた。悟浄は“本当の兄弟”にこだわるって。独角だけが兄貴なんだって」
 …そうだなぁ。こだわってたな。ここの連中のことを兄弟だと思わないように、わざとこだわってた。
 けどそもそも兄弟じゃなかったんだから笑い話だ。天蓬がやたらと便宜を図ってくれたのは、ただ責任を感じたのだ。俺を弟じゃないと知りながら、俺をこの家に引き込む手伝いをしたからだ。だから。
 …でももう関係ない。兄弟として知り合ってしまった。知らないふりで逃げる訳にいかない。
「それは捲簾の勘違い」
 悟浄はひょいと悟空を抱き上げた。
「おまえは俺の大事な本当の弟だ」
「ほんと?」
「俺のこと好きだろ?」
「好き!」
「なら俺のお願い聞いてくれるよな?」
 にっこり笑った悟浄は、次の瞬間真顔になった。
「吐け」
「え」
「おまえ金蝉に何かとんでもねえこと言いやがったな」



 手入れらしい手入れをしていない温室の中は、既に外と違わず冬の様相だった。
 それでもたくましく這い回るおびただしい数の蔦が、八戒が石畳を踏む音で一斉に反応した。
「ひさしぶりですね、皆さん」
「八戒。今更だが頭大丈夫か」
「植物を舐めちゃいけませんよ。彼らは執念深いうえに義理堅くて、全部繋がってるんです。ここで優しくしておくと、いつか樹海で迷った時にも植物が助けてくれます」
「いや迷わないし」
 温室の存在は知っていたが、悟浄は見るのも入るのも初めてだった。花喃も入ったことがない。「気味が悪い」そうだ。
 確かにここは入れる奴を選びそうだ。声も出さない、見て分かる程には動かない、しかし確実に生きているものの気配が床から天井までをびっしり埋め尽くし、主が来るのをじっと待っている。そんな八戒みたいな部屋。
 悟浄は悟空を逆さに振らんばかりにして事の次第を聞き出し、その後、温室に行こうと外階段を上がっていた八戒を捕まえた。急に同い年の兄から、ひとつ年上の友人になってしまった男。
「ここは僕の逃げ場所だったんですけど」
 八戒はベンチに腰を下ろし、厨房で紅茶を入れてきたポットを悟浄に向けて振った。
「でも、もうここにはあまり来ないような気がして。ここで頑張って咲いててもこの子たち誰にも見てもらえませんし、庭師さんに相談して全部中庭に移してもらおうかと思ってるんです」
「何でまた急に…」
 悟浄は名前も知らない薄桃色の花弁をそっと撫でてみた。これで俺は樹海で遭難せずに済むのか?
「ケジメですよ。花喃にもふられたことだし、僕もこそこそ隠れてひっそり咲くのはやめようかなって」
「…もういいや。おまえが突き抜けたのはよく分かった。そこを見込んで相談がある」
 悟浄は八戒の隣にすとんと腰を下ろした。
「捲簾の話、どう思う?」
「…どうもこうも。まともな僕には捲簾も天蓬も理解の範疇外ですよ。正直関わりたくないですね」
 言いながら八戒の目にはありありと不信感が滲み出た。人と関わるのを一番嫌がってきたのが当の悟浄だからだ。
 独角の希望でなければ絶対に来なかった家と、会わなかった連中。だが半端な血縁だった兄弟が実は他人だと分かったら、逆に会ったことに意味があるように思えてきた。
 会った以上何かしなきゃいけないんじゃないか。もっと早く何かしたらよかったんじゃないか。
 そうしたら幼い悟空ひとりを戦わせずに済んだんじゃないか。
「俺、ちょっと今、変なんだけど」
「貴方も変なんですか?変な人ばっかりですねこの家」
「捲簾も天蓬も俺には赤の他人だ」
「…?ええ…貴方がそういう考えであることは重々…」
「だからほっときゃいいのは分かってるんだが巻き込まれてくれ。悪いニュースがある」
 完全に硝子と鉄骨で囲まれた密室だったが、悟浄は素早く辺りを見回してから八戒の両肩をひっつかんだ。
「…悟空が金蝉に言っちゃったらしい」
「…何を…」
「捲簾は伯爵になる気だって」
 八戒はしばらくきょとんと悟浄を見返していたが、カーテンを引いたような勢いで顔色を変えた。
「…な、何でそんなことを。捲簾殺されるじゃないですか!」
「そういえば仲良くしてくれると思ったんだと。伯爵にとっちゃ自分以外の人間なんかいくらでも替えがきく、弟の機嫌取りに割く時間があったら片付けたほうが早い、そんな発想、伯爵には普通でも昨日今日来たガキに察しろってのは酷だろ。しかも聞いて驚け、悪いニュースはまだ続く…おい逃げるな!」
「ああもう聞きたくないな!何ですか!」
「俺は今日金蝉に、家から出たいって話をしたんだが」
「ええ!?」
「…いや、それはまだ悪いニュースじゃなくて」
「悪いニュースですよ僕には!!」
「今は兄弟を減らす訳にいかないから、半年待てだと」
 セリフの意味を同時進行で理解した証拠に、八戒は言ってる傍から絶望的な溜息をついた。
 つまり金蝉の予定では、我が家ではじきに兄弟がひとり減るのだ。
 立て続けでは如何にも怪しいから、せめて悟浄には家を出るまでの期間を半年あけろと言ったのだ。
「…もう今日明日片付けられても不思議じゃないんですね。スピードには定評がありますからね長男は」
「どうする」
 八戒はぼんやり顔を上げた。
「おまえ、捲簾嫌いだろ。いなくなったら嬉しいか?」
 いくら捲簾が狂犬でも伯爵相手じゃ万にひとつも勝ち目はない。金蝉がその気になれば、今夜にもどこかのビルの土台に放り込まれて終わりだ。
「なあ。どうする」
「ど、どうするって」
「どうしたい。俺は家の行く末に関わりないし、家に残るおまえがどうでもいいって言うなら、俺もどうでもいい。でも捲簾に死なれたら、ちょっと残念な気もする」 
「…頭にきますね。僕もです」
 八戒は舌打ち混じりに呟いて、勢いよく敷石を蹴った。
「仕方がない。助けましょう」
「どうやって」
「金蝉は三蔵と天蓬に止めてもらう。僕と貴方で捲簾を止める。完璧だ」
「え、何が?どこが完璧?止めてもらうって、どうやって?ちんたら嫡子口説いてる間にやられるぞ」
「こっちには悟空がいます。何とかなりますよ。とりあえずは捲簾をひとりにしなきゃいいんでしょう」
 八戒はパンと膝をはらって立ち上がった。
「24時間張り付きます!さ、行きますよ悟浄」
「…おまえ本当に頼りになるな」
 
 口には出さなかったがふたりとも、頭の隅では考えた。
 それこそが捲簾の望みだったらどうしようかと。
 婚約者と同じ目に遭うことが。伯爵の手で埋められることが。



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