気がついたら赤錆色の泥の中に寝ていた。身じろぐたびにずぶりと沈む。 視界は濃い藍色で、そこから落ちてくる雨粒が目の中に次々飛び込んであっという間に水の膜が張り、頬を伝って耳へ流れた。 …天蓬は凄い。俺は夢さえ見たいようには見られないのに、奴ときたら現実まで好きなように変えちまうんだから。 「ベッド以外の場所で寝ると魘されると聞いてるが」 頭の上から声が降ってきた。 「本当なんだな」 目を開けると、屋敷中の部屋のすべての鍵を持ち、屋敷中のすべての従業員の口を割らせるただひとりの男が覗き込んでいて、上下逆さまの顔で口をきいた。 「おはよう捲簾」 「…おはようございます閣下」 金蝉はにこりともしなかった。 「朝食まで30分もない。起きろ」 一等客室のソファーに転がっていた捲簾はもそもそと体を起こした。はずみで毛布が床に滑り落ち、拾おうと手を伸ばしたら、金蝉が毛布の裾を踏みつけた。話している時に気を逸らされるのが嫌いなのだ。相手が毛布でも。 「探したぞ。部屋にいないから」 「…ちょっと気分転換」 金蝉は寝起きでまだ頭の回転が怪しい捲簾には頓着せず、扉のほうを顎でしゃくった。 「廊下で寝こけてる3人はなんだ?」 ゆうべ部屋の照明が木っ端微塵に吹き飛んだ後、枕と毛布を抱えて廊下をずんずん進む捲簾の後ろを、悟浄と八戒と、何故か三蔵までついてきた。金蝉はもう就寝したらしく、その証拠に廊下の明かりが通常の半分に落ちていた。 伯爵の家だ。伯爵の呼吸に合わせて動き、呼吸を止めれば一緒に止まる家。 「どこ行くんです」 「あんな部屋で眠れるか、罰ゲームじゃあるまいし。客間だ!一等の!」 「…自分で割ったくせに」 「てめえらだろ!」 「三蔵だろ」 「俺じゃねえ」 「うるせえ!」 捲簾は自分で始めた怒鳴り合いを自分で打ち切って客間の扉を掌で叩いた。 「どこまでついてきやがる、自分の部屋で健やかに寝ろ!このうえまだ何しようってんだ、無駄だ無駄!」 3人は顔を見合わせ(この3人が顔を見合わせたのは、捲簾が知る限り初めてだった)また捲簾に視線を戻した。 「無駄なのは最初から分かってんだ馬鹿」 「そんなことも分からねえでやってると思うか」 「無駄なことするななんて貴方に言われたくない」 うぜぇ。 捲簾は後ろ手で戸を開けると中に体を滑り込ませ、「あ」の形に口を開いた3人の目の前で鍵をかけた。誰かが腹立ち紛れにドアを蹴る音がしたが、しばらくすると止んだ。長い間上客を入れていなかった客間のシーツは肌に馴染まず、結局ベッドは諦めた。今更懐いてこられても覚悟が鈍るだけで嬉しくもなんともない。仲良く風邪でもひきやがれ。 でも朝食には遅れんな。 …朝までいたのか。 捲簾はぼんやりと扉のほうに目をやった。馬鹿な悟浄が夜通し部屋の前で張り、それに八戒が付き合うのまでは予測できたし金蝉も予測しただろうが、まさか三蔵まで粘るとは思わなかった。 「三蔵に何をした」 「…急に好かれるようなことは何も」 金蝉は捲簾の顔をじっと見詰め、本当に心当たりがないと見えたので、そのまま捲簾の隣に腰を下ろした。 結局雨は止まなかった。外は昨日の続きのように薄暗い。 「おまえに聞いてみたいことがあった」 最後に、が抜けている。 金蝉は両掌を水を掬うように持ち上げ、しばらく眺めてから指を組み、甲に顎を載せた。 「もしおまえが嫡子だったらどう思う」 「は?」 「もし、おまえが嫡子だったらだ。天蓬が庶子だったらだ。もし本当はそうだったら」 そこで金蝉は言葉を切った。捲簾は懐を探って煙草を引き出し、依れた1本に火を点けた。金蝉の注意が扉に向かわないように。3人が聞き耳を立てている。 「…こうはならなかったと思うか」 「なった」 金蝉はほんの僅かに身動いだ。 「例え俺が嫡子でも、俺は同じ女に惚れて庶子のほうを可愛がった。天蓬が庶子でも、家に馴染もうと努力してあんたに気に入られて秘書になった。そして今日あんたは俺にこう聞いてた、“もしおまえが庶子だったらどう思う?”…そんな話しにわざわざ俺を捜し回ったのか。暇だな」 それは金蝉にとっては願ってもない返事だったが、捲簾は最後の最後に金蝉を、ただ嬉しがらせて終わりにはしなかった。 「俺はあんたみてぇに環境で作られた人間じゃねえんだ。家の奴隷で終わりゃしねえよ」 金蝉は朝食に向かう途中でメイドを捕まえ、捲簾の部屋の掃除は必要ないと申し伝えた。 もう、捲簾があの部屋で眠ることはない。 捲簾が鍵をかけてしまった後に3人に出来ることはなく、かける前から既になかった。 今朝も金蝉が客室に入っていくのを、寝たふりで見送る以外することがなかった。 例え金蝉が金蝉でなくても、捲簾が捲簾でなくても、誰かが誰かの首を絞めようと本気で決めたら止められない。 3人の中でも三蔵は、自分が何をやっているのかさっぱり分からなかった。おまえらはいい、庶子なんだから、捲簾に世話にもなっただろう、せめて少しでも近くにいようと思うだろう、でも俺は何だ、俺は今が平穏で、このままの生活を変えたくないだけだ、もし悟空が来なければこうはならなかった、その前に悟浄が来なければ悟空も来なかった、その前に双子が来なければ悟浄は来なかった、いっそ自分が生まれなければこうはならなかった。三蔵は一晩中呟き続け、悟浄と八戒は黙ってそれを聞いた。気休めの言葉はいくらでも吐けたが、第一に彼らは会話を楽しめる程仲が良くはなかったし、第二に、返事を自分たちがしても三蔵が納得しないことを知っていた。 返事は翌朝、捲簾から扉越しに降ってきた。 「なった」 扉に耳を押し当てていた三蔵は、思わず込み上がってきた塊を必死で飲み下した。 「おはよう諸君」 「おはようございます」 朝食の席で金蝉は、恒例の総点検を放棄した。 「本日の予定は」 全員が一斉に金蝉を見た。 「特にない」 全員が一斉に視線をさっきまで見ていたものに戻した。 「天気が悪いな。外出する者は気をつけろ。何もなければ今夜は全員揃う。夕食はここで」 …“天気が悪い”? 悟浄はスプーンの柄でこめかみを揉んだ。何故わざわざそんなことを言う? 廊下で夜明かしした3人の心中には砂のような、しかも湿った砂のような諦めが積もりつつあった。 捲簾を一生守るなんてことはどう頑張ったってできない。守るだけならできるかもしれないが、3人とも、それだけに一生はかけられない。第一捲簾がそれを望んでいない。食事を終えたら三蔵と悟空以外は皆出かけて、別々の場所で、家の外にいながら家からは出ず、各々の義務を果たさなければならない。ただひとり捲簾を守れそうな奴は、全員寝不足で欠伸を繰り返している中でつるりと陶器のような肌をして、涼しい顔で珈琲を啜っている。 「ねー天蓬」 悟空が昨日とまったく同じ調子で同じセリフを言い放った。花喃の手からフォークが落ち、三蔵は茶を噴いた。 「またかよ!」 「今度は何なのよ!」 「…やめなさい品のない」 最後のセリフは天蓬だ。 「何ですか悟空。今聞く必要がある話なら聞きます。手短に」 「昨日の晩、書庫で本読んだんだ。とにかく本を読めって言ってたから、三蔵が」 「…はい?」 「歴史の本とかはよく分かんないんだけど、下のほうにあるじゃん。童話とか民話とか。ああいうの」 「…それが天蓬と何の関係がある?」 金蝉は眉を顰めて尋ねたが、続きが気になったのか発言を止めようとはしなかった。 「こう書いてあった。女は男より魂が下にある。欲が深く、罪が深く、業も深い」 立ち上がりかけた花喃の袖を八戒がテーブルの下で掴み、振動でカップが跳ね上がった。 「…だから?」 「だから、猫と女は化けて出るんだってさ」 悟空はそれだけ言うと、ぽかんとする一堂を尻目に食事を再開した。 「…な、何が言いたいんです悟空は」 「…もう俺の手の届かないところへ行ってしまったよ」 「少なくとも私に喧嘩を売る以外の理由があるんでしょうね。そうよね?」 庶子連が囁き合う中、天蓬だけが、ゆっくりと顔色を変えた。 あまりに静かで、目立たたず、“無表情”の範疇を逸脱していなかったので、その変化に誰も気付かなかった。捲簾以外。 …天蓬? 天蓬は、捲簾のいる方向を見た。 「…天」 「話はそれだけだな。なら各自きびきび動け」 金蝉がナプキンを放って立ち上がった。 「天蓬、来い。出る前に目を通してもらう資料が山ほどある」 「……」 「返事は」 天蓬の微妙に焦点の合わない視線は、結局、捲簾を通り抜けた。いつもどおり。 「…はい」 玄関の前にずらりと車が並ぶ。普段と変わらない朝の光景。 屋敷の前の煙草屋の主人は、今朝もうんざりした溜息をつく。 悟空と三蔵は正面階段の上から、兄弟がひとりひとり出かけるのを見送った。 「…悟空」 「うん」 「朝飯の時のあれは何だ」 「分からない」 悟空は玄関から目を離さない。 「分からない?」 「天蓬は、もっと大事なことが分かってないかもしれない」 今朝、最初に身支度を調えて出てきたのは花喃だ。次に八戒。 「…どういう意味だ?」 「天蓬には死んだお母さんが見えてて、生きてる捲簾が見えてない。だから生きてるのと死んでるのの区別がつかない」 「…どっちでも同じってことか?」 「本人は区別してるつもりかもしれない。でも分かってない。全然分かってない。捲簾が死んでもまた会えると思ってる。ううん、死ねば会えると思ってる。死んだら会えないんだ。例え見えても会ったことにならないんだ。夢と同じだ。だっていないんだから」 次に悟浄。玄関まで来てから「あ」と叫んで引き返した。忘れ物をしたらしい。八戒が花喃に向かって首を振り、花喃が先に外へ出た。エンジン音が響く。 「三蔵、俺は今まで4回見たことがある。もう死んでる人を」 待ちくたびれたらしい八戒が玄関を出る。捲簾がコートに腕を通しながらやってきた。そして悟浄。 「俺を生んでくれた母さんを孤児院で見た。この家で奥方も見たし、捲簾が殺した人も、独角が殺した人も見た」 天蓬が息せ切って走り出してきた。三蔵は呆然と天蓬を見下ろした。奴も走るのか。 「何でだろう三蔵。女の人しか見たことないんだ」 「悟浄!」 天蓬が悟浄の肩を掴み、掴まれた悟浄は飛び上がった。 「な、何!?」 「車!」 「あ?え?」 天蓬は咳き込んだ。 「車、を、止め」 今日は天気が悪い… 交通事故! 悟浄はドアの傍に控えていた従僕を突き飛ばして玄関を飛び出した。車寄せで足踏みしながら待っていた八戒が驚いて振り返る、その背後で捲簾を乗せた車が動き出す。 「八戒!その車止めろ!」 「え?」 悟浄は鞄を八戒に放り投げて駆けだした。足場は枯葉と泥濘で最悪だ。あっという間に服が駄目になる。悟浄は今にも外門を飛び出そうとした車のサイドミラーを掴み、ボンネットに飛び乗った。 「な、何だ?」 捲簾が座席から腰を浮かせたその瞬間、運転手は明らかに意図を持って急ハンドルを切った。 「うわ!」 不意をつかれた悟浄は足を滑らせて濡れたボンネットを遠心力で滑り落ち、植え込みの中に叩き落とされた。悟浄だけでなく中途半端に立ち上がっていた捲簾まで反動で横ざまにふっとばされ、天井に思い切り頭をぶつけた。 「…てめ、何しやが」 捲簾が言い終わらないうちに、今度はフロントガラスにヒビが入った。庶子用の車は防弾ではないのだ。 この混乱のまっただ中で捲簾が知る由もなかったが、それは八戒の投石だった。後ろから投げた石を移動中の屋根を飛び越して運転席と助手席の真ん中に落としたコントロールは見事だったが、運転手は怯みはしたものの少々視界が狭まったぐらいでは諦めず、勢いよくアクセルを踏み込んで敷地を飛び出した。毎朝伯爵家の車が舞い上げる埃とエンジン音を愚痴っている煙草屋の主人は、タイヤが軋む耳をつんざくような騒音と飛び交う罵声に竦み上がった。 ぐらぐらする頭を振って、捲簾はようやく後部座席と運転席の間に挟まっていた体を起こした。安全運転の車に体調良好で乗っていても酔う体だ、打撲に寝不足にジグザグ走行が重なって喋るのもやっとだ。 「……おまえ」 切った唇を拭うと、捲簾は鞄を助手席に放り投げた。 「…金蝉に何頼まれた」 「頼まれてはおりません」 微かに声が震えてはいたが、運転手はきっと前方を見据えたままだ。 「職務をきちんと全うしろと、お叱りを受けました。私はどうも無駄口が多すぎるようです」 「質問に答えろ」 「ですから職務を全うしろと。私の仕事は捲簾様を職場にお送りすることです。ただ今日は」 運転手は初めてバックミラーをちらりと確認した。 「寄り道致します」 「どこに」 「ゆうべ通りかかられてお気に召した場所を、捲簾様にもお見せしたいそうです。この雨ですから少々煙るでしょうが、町が見渡せる高台です」 その場所なら知っている。捲簾にとってもお気に入りの場所だ。この近辺では一番見晴らしのいい丘だ。 話すうちに運転手の声は震えが激しくなってきた。さすがにハンドルを握る手は微動だにしなかったが、それでも汗ばんできたのが分かった。 「停めろ」 「ブレーキはききません」 そんなことも知らないのかと言いたげだ。 「俺と心中する気か?」 「貴方が大嫌いだ!」 運転手は突然堰を切って喚いた。 「私を雇ってくれるところなどなかった、身内に罪人がいたからだ、私の父は人殺しだ、仕事仲間を殴って死なせた、本来なら華族の屋敷になど奉公できる身ではない、それでも金蝉様は事情を知った上で雇ってくださった、だから精一杯職務に励んできた、例え嫡子の坊ちゃん方をお乗せできなくても幸せだった、なのに!貴方ときたら!妾の子供のくせして何だその態度は!」 捲簾は何か言おうと口を開けたが、そのまま閉じた。 あまりの速度に雨粒が、車窓をほぼ真横に横切っていく。 「悟浄様も八戒様も落ち着きがないクソガキだ、ところかまわず女がセックスがと低俗な話ばかり。でも一番酷いのはあんただ!身の程も弁えず金蝉様に悪態はつく、ただの一度も労いの言葉もくださらない、挙げ句何度途中で車を降りて私から職務を取り上げた!?私のプライドを傷つけた!?階級なんぞクソ食らえと思っていたがとんでもない、あんたと嫡子はまったく違う!人間ががさつだ!私と変わらないクズだ!」 「…おまえが死んでどうする」 「妻と子供がふたりいる。ぎりぎりの生活だ。務めあげれば家族に余りある報酬を金蝉様が約束してくださった」 「だからおまえが死んでどうするんだよ」 「分からないのか!初めて金蝉様に恩返しができる、この私が!あんたもだ!死ぬぐらい何でもないだろう!」 捲簾は袖でガラスを拭った。どう考えても高台からのダイブまで猶予は数分だ。後続も対向車も少ないが道幅が狭すぎる。飛び降りようと思えばできないことはない、が。 「飛び降りる気じゃないでしょうね」 反論がないせいで冷静さを取り戻した運転手、いや運転席の男は口元を歪めた。本人は笑ったつもりなんだろう。 「金蝉様は貴方の覚悟はとうにできてると仰ってましたよ。度胸は据わった男だと。せっかく見直しましたのに、その度胸すら投げ捨てておしまいか」 「運転代われ」 捲簾はレバーを力任せに蹴り上げて助手席の背を倒し、男の胸ぐらを掴んだ。 「助手席へ移れ」 「貴方を生かして帰したら、私も家族もおしまいなんだ!」 「てめぇと心中はごめんだ。ひとりで行く」 一瞬操縦者を失った車は大きく蛇行し、すぐさま捲簾の手で体勢を立て直した。四方八方からクラクションが鳴り響く。さすがに冷や汗が流れた。伯爵家の車が他人を巻き添えにする訳にいかない。 「…なんですって?」 「坂の手前で飛び降りろ。運が良けりゃ怪我で済む」 「捲簾様!私は」 「てめぇ自身より金を欲しがるのかよ、てめぇの家族は!」 捲簾はこの状況よりも、助手席で呟き続ける男の頭の悪さにほとんど哀しくなった。 「あんたは酷い、最後まで私を、まるで虫けらみたいに」 早いとここいつを落とさないと、下手をうったら後続に轢かれる。 バックミラーをちらりと確認した捲簾は、飛び上がって凝視し直した。後続車の速度が尋常じゃない。追突してきそうな勢いだ。やれやれ、あの車もどこぞが故障してるんだろうか。 「…降りろ!」 上り坂にかかったその瞬間、捲簾は運転手を渾身の力で蹴り飛ばした。路肩に落ちるか真後ろにふっ飛ぶかは賭けだったが、幸い悲鳴を残して扉から飛び出した体は申し訳程度の柵を越えて土手を転がり落ち、あっという間に視界から消えた。 捲簾は大きく息を吐き、改めてアクセルを踏み込んだ。もうバックミラーは見なかった。過加速と無茶なギア虐めで耳障りな音はするしハンドルに空回り感があるが、あと少しだけ無事に走ってくれ。御丁寧にガソリンは満タンだ。この嵐でもきっと派手に火柱を上げてくれる。 鳥肌が立った。下半身が重く痺れる。自分の体の変化を、捲簾は冷静に分析した。やっぱりいざとなると怖いんだろうか。だがたいして間をおかずに、これは恐怖とはまったく別の感覚だと気付いた。 「…うーわ。イきそう」 興奮してる。 捲簾は、これは愛した女にもうすぐ会えるせいだと自分に言い聞かせた。後続のせいじゃないと。 本当はとっくに気付いていた。12の頃に愛した女。運命だと思えた女。彼女の顔を数年前から、まるで思い出せなくなっていること。今にもすり切れて風に飛びそうな彼女の感触、彼女の匂い、彼女の言葉、かろうじて心にしみついた彼女の残滓が、あといくらも経たないうちに朽ち果てて、綺麗さっぱり消えてしまうことを。 …俺は彼女を忘れてしまう。 このまま生き続けたら、俺は俺の為に死んだ女を忘れてしまう。 捲簾はハンドルをぶん殴った。 「この期に及んで邪魔すんなクソ天が!!!!」 右は雑木林、左は崖、舗装道路は右にカーブしているが、直進すると土になり、構わずまっすぐ突っ走ると町を一望しながら空を飛ぶ羽目になる。道幅はすれ違うのもギリギリ、しかも上り坂。そんな道を、後続車は一瞬横に並んで、追い抜いた。対向車が現れたらまたたくまに正面衝突だ。今や先行車になったその車は土煙をあげて滑りながら90度車体を曲げ、捲簾の前に飛び出した。 それからの数秒は、まるでコマ送りのように見えた。 前を塞いだ車の運転席には既に人影はない。驚いて捲簾が瞬きする間に、ボンネットがスローモーションで前の車体にめりこみ、バンパーが跳ね上がり、ライトの破片が舞い、助手席が千切れて飛んだ。胸にハンドルが押しつけられ、そこに火がついた。体の中で火が爆ぜる。骨が割れ、肉に刺さる破裂音。だが顔には氷のような雨が当たって寒い。運転席側のドアが開いて、確実に折れた腕を何の躊躇もなく鷲掴んだ。 「捲簾!」 …おまえ、今度はあの可哀想な運転手を殺そうってのか? 昆虫みたいに潰れて絡み合った2台の車が、赤土の上を滑っていく。 |