act.2



 …何だこれは。八戒は膝の上で両手を握りしめた。
 庶子の自分が親族会議に呼び出された時点で覚悟しておくべきだった。あぁ今日は遠縁も出てくるから世話役が足りないのかなぁ茶でも運べばいいのかしら?などと脳天気に構えた自分が馬鹿だった。
「…そっくりね」
「うりふたつだ」
「伯爵の血だろうかねぇ?彼も端正な顔立ちだったし」
 屋敷に来た時は年より幼く見られた八戒の容姿は、ここ数年で様変わりした。いきなり背が伸びて顔も変わった。変わった途端、自分でも気味が悪いほど天蓬とそっくりになった。それだけでも天蓬の勘に障りすぎるほどだというのに、何も親戚集めて見せ物にすることはないだろう。
 天蓬は良くも悪くも実に貴族らしい貴族だ。華族の嫡子であるという誇りのみで忠実に伯爵に忠誠を誓う、上流社会の模範だ。綺麗な黒髪も白い肌もこの国で尊ばれるにもっともふさわしい色だ。その天蓬に、実は庶子じゃないのかなんて噂が流れ出している。自分の顔のせいで。気位の高い天蓬にははらわた煮えくりかえるような屈辱だろう。もうはっきり言って命の危機だ。自分は今命の危険にさらされている。こんなにいいお天気で、窓の外では小鳥が囀っていて、姉は今頃のびのびと午後のお茶でも飲んでいて、自分は死にそうだ。何なんだこれは。腹立ってきた。
「…八戒。ちゃんと顔をあげろ」
 長兄の言葉に従いたいのは山々だが、顔をあげたら目の前に天蓬がいる。あの黒曜石みたいに黒光りした目。
 初めて会った時から、天蓬だけは怖かった。母親が伯爵より上の侯爵位で上の兄弟も居なかった双子は、頭を下げられ傅かれることに慣れていた。4兄弟への敬意を欠いた本心を、天蓬がもっとも敏感に感じ取った。次の瞬間ふたりまとめて頬を張られた。
「目上の者に対する礼儀を知らないことを恥じなさい」
 生まれて初めて殴られたショックでまだ目の前に星を飛ばしていた八戒を尻目に、姉がくってかかった。
「何よ年上だからって偉そうに!初対面でいきなり敬意を払えったって無理よ!」
「…それでは僕らのほうが、初対面で年下の貴方に敬意を払えとでも?」
 正論だ。
「お客様のつもりなら非礼をお詫びして丁重にお持てなしします。ただし、帰って頂きますが」
 そのへんで、とやんわり止めた金蝉、「相変わらず手が早ぇな」と双子を無視して天蓬のほうにコメントした三蔵、「女の顔を殴るこたねえだろ」と吐き捨てた捲簾、もう初日で兄弟の青写真は描けたようなもんだった。
 天蓬が長いからというだけで髪を切ったし、名前さえ大人しく奪われた。今、屋敷で自分を悟能と呼ぶのは姉だけだ。「能」の字が先々代の名についてたというだけで。髪や名前はどうでもいいが、いったい顔をどうしろというのだ。
「…金蝉」
 八戒は顔を上げないまま、机の下で金蝉の袖をひいた。
「気分が悪いので、退出させて頂けないでしょうか」
「…マナー違反なのは承知だな?」
 罰はやむを得ない。ここに居続けると更なるマナー違反を引き起こす恐れがある。要するに吐く。
 できるだけ足下だけを見て立ち上がり、一礼して下がろうとしたその瞬間、はっきりと誰かの舌打ちを聞いた。

 八戒は目の前の危機に気をとられて忘れていた。
 そもそも、この会合を仕組んだのは誰だ?



 車の音がした。窓に一番近い場所にいた悟浄が椅子ごと窓に凭れ、ひょいっとカーテンを捲った。
「なぁに悟浄、もう4兄弟のお帰り?せっかくのびのび午後のお茶を楽しんでるところに」
「…八戒。早退の模様」
「あらやだ。悟空、今のうちお茶のお代わりどうぞ。もうすぐ嵐が来るわ」
 悟空が花喃に教わった手順で角砂糖を紅茶に滑り込ませようと苦心している間に、凄まじい轟音とともに扉が開いた。
「僕、この屋敷出ますから!!!」
「…また始まったよ」
「どうしたの悟能」
 予想通り優雅なティータイムを満喫していた姉と悟浄にますます激高した八戒は、剣幕に驚いて凍り付いた悟空の姿は見落とした。
「庶子を会合に呼んで何かと思えば首実検ですよ、ほーら天蓬とそっくりでしょう?わーほんとね凄い凄い!動物園の猿ですか僕は!」
「…伯爵の血筋が証明できて良かったわ」
「そりゃそうですが僕の身にもなりましょうよ!っていうかなってくださいよ!天蓬の血筋が揺らいだんですよ!ただでさえ嫡子じゃ天蓬ひとり黒髪だし、親族会議であんな屈辱受けて彼の顔色、青色通り越して緑色ですよ!多分!怖くて見なかったけど!今度こそ殺される!」
「俺は好きだな緑色」
「悟浄!!!」
 八戒がテーブルを叩いた拍子にお茶道具が跳ね上がり、悟空が「ひっ」と声を挙げた。
「悟浄、八戒は優しいって言ったのに!」
「根暗とは言ったが優しいなんて言ってねえよ」
「…なんですって?」
 八戒はテーブルに手を付いたまま悟浄を睨み付け、それからやっと隣の悟空に気が付いた。みるみるうちに毒気が抜ける。
「…悟浄、彼が悟空?」
「さぁ。動物園から逃げた猿かも。挨拶も出来ねえところを見ると」
 悟空は飛び上がって気をつけした。
「初めまして、悟空といいます!今日からお世話になります!」
「あ、あぁ、初めまして、僕は八戒と」
 セリフの途中で悟浄はパンと手を打った。
「さ!挨拶も済んだことだし出てくんならさっさと行けよ八戒。部屋はもらうぜ」
「私は行かないわよ。天蓬喜ばすために逃げるなんて御免だわ。どうぞおひとりで」
 3人に一斉に見つめられた八戒は暫し視線を彷徨わせ、ようやく肩の力を抜いて椅子をひいた。
「…申し訳ありませんでした、取り乱しまして。もう大丈夫です」
「今日の嵐は短かったわ」
「悟空のおかげかね」


 4兄弟の個室は西館、それ以外は南館、共有スペースは本館だ。勿論廊下は繋がっているが、場所によっては一旦外へ出て庭を突っ切ったほうが早いため、未知との遭遇は戸外であることが多い。
 会議を終えて戻ってきた三蔵は、ちょうど中庭で煙草に火をつけたところだった。冬場は庭師がやり甲斐を無くして手を抜くせいで、しぶとく残った枯れ葉が足下でガサガサ音を立て、三蔵は小さく眉を顰めた。
 …何だか妙な感じがする。何か起こっているような。
 三蔵は金蝉と個人的に仲が良かったが、一族のトップとしての兄に相談を受けたことは一度もない。自分は相談役に値しないのだ。あと少し早く生まれていれば、伯爵の秘書に就くのは天蓬ではなく、自分だったはずなのに。
「…捲簾の野郎」
 三蔵にとって都合の悪いことは、すべて庶子のせいになる。天蓬とはひとつしか年が違わない。何故違わないかというと、捲簾が天蓬と1週間差で生まれたせいだ。正妻の機嫌を損ねた伯爵が部屋に篭もって奉仕しまくったせいで、早々に自分が出来てしまった。もっと、せめて、2つや3つでも違っていれば良かった。そうすればほんの一歩先にいるだけの兄に、走りきれないほどの距離を見せつけられる必要はなかった。しかし卑屈な態度は自分がもっとも嫌悪するところだ。天蓬を羨むまい。
 結局思考は一巡した。
「…あー畜生。捲簾の野郎」
 背後で枯れ葉が鳴った。
 と思ったその瞬間、三蔵の目の前は真っ黒になった。


「てめぇら!!!!!」
 悟空の首根っこ捕まえて引きずるようにやってきた三蔵を、双子と悟浄は呆気にとられて眺めた。
「こいつ俺見るなり後ろから跳び蹴りして来やがった!どこの山猿だ!」
 三蔵に容赦なく放り投げられた悟空を、八戒が危うく受け止めた。
「庶子の無礼は連帯責任だ!分かってんだろうな!そいつの躾が終わるまで俺の目の前に出すな!」
 大音響を残して扉が閉まり、また開いた。
「八戒!5時に懲罰室へ行け!」
 今度こそ三蔵が行ってしまうと、悟浄はやれやれと悟空を抱き上げた。悟空も出せない八戒も懲罰じゃ晩餐会はお流れだ。
「悟空、跳び蹴りは捲簾にしろと言っただろ?名前も確かめずに蹴るな」
「…確かめてもどうなのよ…」
 悟空は「だって」と抗弁した。
「三蔵は蹴っても大丈夫そうに見えた」
「現に怒ってるじゃねえかよ」
「そうだけど!」
 双子は何となく目を合わせた。悟浄は兄弟の名前も序列も丁寧に教え込んでおきながら、見た目に関してはまったくコメントしていなかったらしい。こんなに色とりどりの兄弟なんだから、まず髪の色ぐらい教えるだろう。無意識に避けたんだろうか。
「そうだけど、でも、怒ってるけど三蔵は怖くない。うん、大丈夫」
 悟空は自分の言葉で勢い付いたように深く頷いた。
「うん。俺、絶対仲良くなる」
「…すげぇ。よりにもよって三蔵に懐いた」
「何という有望株。捲簾が喜ぶわ」
 …何を呑気な。
 八戒は力無く時計を見上げた。5時まであと30分。心の準備ぐらいはできるか。
「悟空が嫡子を落としてくれれば勢力図はまた変わってくるわよ。ねえ悟浄、庶子がひとり増えただけでも有利じゃない?」
「そうか?」
「…そうかって。嬉しくないの?」
 悟浄はとんと床に悟空を下ろした。
「俺は嫡子と火花散らす気はねえから、そういうのは勝手にやって。俺は悟空が楽しけりゃなんでもいい」


「ねえ悟能、独角もあんな感じだったかしら」
 花喃は軟膏の蓋を開けて残りの量を確かめた。懲罰室の後はこれがごっそり減るのだ。
 悟浄は悟空にせがまれて、厨房探検しに行った。あそこならうっかり嫡子に出くわす心配もないし、使用人も庶子の相手は気楽に出来るので歓迎してくれる。
「どうだったかな…」
「まぁ独角は今は伯爵家と無関係だけど、悟浄はまっただ中にいるのにいつも人ごとみたい。何て言うか、のらくらして。…何て言うのこれ。壁に腕押し?」
 それじゃ凭れてるだけだ。
「…暖簾です暖簾」
「まるで何とも思ってないみたい。あらゆることを。…髪の色のこと以外って意味だけど」
「…苛々する。時々」
 悟浄は八戒とよく一緒にいるわりに、無条件に肩をもってくれたことが一度もない。悟浄は誰にでもそうなのだ。何でも受け流す。否定はしないが肯定もしない。言いなりにはならないが取り立てて反抗もしない。
「…僕も悟浄のことを弟とは思ってないけど、友達でももう少し…こう…」
 花喃はパチンと救急箱を閉めた。
「さ、時間よ。薬は充分、行ってらっしゃい。ここで待ってるけど痛みは分かち合うわ。姉弟だもの」


 八戒は階段の途中でぎくりと足を止めた。懲罰室の前の人影。足下からどっと潮のように血の気が引いた。
「気分はよくなりました?」
 懲罰室には嫡子庶子問わず、伯爵家の子供なら誰でも容赦なく放り込まれる。前伯爵が生きていた時は伯爵から、それ以降は金蝉から、皆、直接罰を受けた。それが、何故、今日、今。
 …天蓬が。
「八戒。返事は」
「…はい」
「懲罰については納得していますか。釈明があれば今聞きます」
「…会合を、途中退席しました。礼を逸した行為でした。反省しています」
「入りなさい」
 八戒はすべての気力を震えそうになる足に総動員して部屋に入り、促されて扉を閉めた。
 …これはただの懲罰だ。相手が天蓬だというだけだ。それだけだ。怯えると余計に痛さが増す。
 天蓬が手の中でシュッと鞭を扱いた。その音で初めて八戒は顔を上げ、天蓬の顔を見た。いつもとまったく変わらない、陶器の人形のような無表情。
 不意に眩暈がした。何か、自分は、見落としてないか?大事なことを。

 …悟浄。

 八戒は目を見開いた。悟浄?何故、今悟浄を思い出す?
「腕をこちらへ」
 空気を切り裂く風の音。
 …歯を…。

 歯をくいしばれ。



novels top
act3