act.3



「悟浄様、これを」
 悟空と厨房へ向かう途中、メイドが擦れ違いざまにさり気なく封筒を押しつけた。
 宛名は悟浄ではなく兄のひとりで、差出人の名はない。悟浄はそのあからさまに不審な郵便物の表面を指で撫で、手触りを確かめてから上着のポケットに突っ込んだ。突っ込んでから、嫌な気持ちになった。
 紙質で値の見当がつく。値で誰からの手紙か見当もつく。自分は今、人に値をつけるような真似をした。
 悟空が好奇心をまったく隠さず見上げてきたが、悟浄が視線を逸らすと「先行く」と心得たように走り出した。
「厨房って突き当たりの階段下行って右だよね!」
「馬鹿、左だ!右はボイラー!」
「分かった!」
 悟浄は再び前伯爵に感謝した。人の気持ちにとんでもなく敏感な弟、あれはあんたの最高傑作かもしれない。
 その弟が角を曲がったのを確かめてから、悟浄は薄暗くなってきた窓に凭れて封を切った。
 屋敷を出入りする郵便物は、すべて伯爵の検閲を受ける。検閲を免れるには、執事の手から伯爵の机に届く間に、確実に抜き取れる者宛に親展で出すしかない。名前を貸してくれている兄は、自分と同じように指で紙を撫で、こうして封も切らずに悟浄にまわす。どうしてそうしてくれるのか知らないが。
 便せんを開くと悟浄は眉を顰め、丁重に延ばして光りに翳した。相変わらず字が汚い。男らしさを強調する為にわざと乱暴に書いたと無理矢理思いたいぐらいだ。勿論、独角は必死に書いてこの有様なんだが。内容もいつも一緒だ。元気か、俺は元気だ、今度はいつ頃顔を出す、ができれば行きたくない、連中と顔を会わせたくないし、そこは狭くて暗い。
 狭くて暗い?
 悟浄は長い廊下の、とんでもなく高い天井を見上げた。
「…できれば行きたくないって言われてもな」
 できなくても来てもらわないと会えないんだけどな。
 独角はしょちゅう住所が変わるし、悟浄は自由に遠出できる身分ではない。遠出どころか近所のお散歩さえ監視付きだ。
 悟浄とは比較的気が合う双子のことも、独角は苦手にしていた。悟浄、やっぱりあいつらも自分とは違う人種という気がする、確かに気さくでいい奴らだが、贅沢で裕福な育ちをした奴しかしない崩れ方をしてる、あんなもの一朝一夕に身に付くものじゃない、弟とも妹とも思えない、おまえはまだ16だ、上が全員死なない限り爵位は継げやしない、なら親父の遺産で学校だけは出てこい、いざという時教養が人を救うってことを俺は理解した、俺はおまえほど状況に慣れるのが巧くない…。
 慣れる。
 確かに慣れるのは悟浄の特技だ。あっという間に慣れる。行動が制限されるのも手紙ひとつ覗かれずに出せないのも、腹を立てたのは最初だけで、すぐさま慣れてしまった。壁をぶち抜いて窓を開けるぐらいなら窓のない壁に慣れたほうが早い。終の棲家でもあるまいし。
 そんな考え方は端から見ると「諦め」に近いらしく、独角や八戒を苛立たせる。4年もここにいて、紙の質で値踏みするようなくだらない人間になった。双子にしたって本当に自分と気が合ってるのかどうか分からない。あいつらは結局、お互い同士で完結している。他人を必要としていない。気が合うふりをする事に慣れただけかもしれない。
 俺は適応しすぎる。きっと土に埋められてもすぐ目を退化させて穴を掘り出す。
 もしかしたら独角は、俺が環境に流されてずるずる変わるのを見抜いたんじゃないか。だからあまり俺に会いたくなくなったんじゃないか。でも悟空とは気が合いそうだ。近いうちに来てくれればいいけど。
 …それよりも気になるのは。
 悟浄は便せんを封筒に入れ、二つ折りにして、こんどはシャツの胸ポケットに入れた。
 俺は確か17のはずだが。

 
「人が料理を作ってるとこは綺麗だな」
 悟空の言葉に厨房中の空気がふわっと緩んだ。
 誰かに食べさせるために食材を吟味し刻み湯気の立つ鍋を掻き回し、真剣な顔で味見して、首を捻ったり、満足げに頷いたりする。悟空は養母が家の小さな台所でそうするのを見るのが好きだったし、下町の食堂の厨房で料理人が大量に皿を捌くのも好きだった。
「それは食べ物がいっぱいあるからじゃないんですか?」
「それもあるけど。ねえ俺もやってみたい」
「駄目ですよ伯爵家のご子息が。本当はこんなところにも出入りする身分ではないんですよ」
「悟空、火使ってるとこには寄るなよ」
 悟浄が厨房の扉をノックすると、あちこち走り回る悟空をようやく捕まえた料理長が笑顔で振り返った。
「何だか悟浄様のちっちゃい頃みたいですねぇ」
 顔見知りの連中のほとんどは、会釈はしたが料理の手は止めない。相手が嫡子だったらすぐさま直立不動で応対しないと叱り飛ばされる。
 悟浄も屋敷に来た頃は厨房が一番お気に入りだった。皆、頭を撫でてくれてこっそりおやつをくれた。
「ちょっと悟浄様!味見ならご自分の皿からなさってくださいな」
「美味い」
 双子の部屋からティーセットを下げてきたメイドは、肩をすくめて勢いよく茶葉を流しに開けた。
「悟浄様は何でも美味いですから、参考になりません」
「悪いな、忙しい時間に飢えた餓鬼連れてきちゃって」
「それはいいんです。悟空様は可愛らしいし、皆喜んでます。今日の夕食は各自のお部屋に出来たぶんから運べばいいし。晩餐会の時は配膳が大変でね、金蝉様に合わせると下に行くほど冷めちゃうでしょう。お酒のペースも好みもてんでばらばらだし、それに皆様黙々食べられるだけで空気が重いったら。でもお部屋に運ぶと、普段は使用人なんか目にも入れない金蝉様も一言ぐらいはくださいますしねぇ」
「俺が金蝉に言いつけたらおまえクビだぞ」
「悟浄様はお優しいからそんなことなさらないですもんねー」
 悟浄はあからさまに意図を持って媚びてきた女の顔をしみじみと眺めた。こういう時の女の目はネズミを前にした猫みたいだ。華族の屋敷に入るメイドは客の前に出すインテリアでもあるから、能力は勿論容姿も選りすぐりだ。彼女たちは自分に誇りを持ち、身分をわきまえるだけの分別も持つが、同時に野望も持つ。相手が庶子なら俄然敷居が低い。
「あんた」
「はい」
「可愛いね」
「やだぁ、ありがとうございます」
「ちょっと外出よーか」
「はい?」
 悟空がオーブンに夢中でこっちを見てないのを確認してから、悟浄はメイドを厨房から引っ張り出し背中で扉を閉めた。
「捲簾はもうあんたに飽きたのか?」
 耳元で低音で唸られたメイドの肩が跳ね上がり、頬はあっという間に真っ赤になった。捲簾は使用人に手を出して、嫡子…主に天蓬に嫌がらせするのが生き甲斐なのだ。
「庶子ならどうとでもなるとでも思ってるなら八戒にあたれ。俺は兄貴のおさがりってもんがこの世で一番嫌いなんだよ」
「…でも」
 恨めしそうな猫がこっちを見上げた。
「さっき廊下でメイドから文を…あれ恋文じゃないんですか?」

 さて。悟浄はこめかみを軽く揉んだ。
 油断も隙もない。今後は直接手紙を手渡してもらわないとまずいか。
 ああ面倒くせえ。いっそ使用人全部男にしちまえばいいのに。女は好きだが近場に手を出して捲簾とかぶるのも、嫡子に無駄に睨まれるのも面倒だ。容姿端麗で抱けない女が目の前でうろうろしていると、最初は良くても腹が立ってくる。
「悟浄〜」
 悟空が料理長に強請ってもらったとおぼしきクッキー缶を手に厨房を出てきた。
「今日って皆で晩ご飯食べないの?」
「全員揃うのは朝食会。夜は揃う時と、部屋で各自食う時と半々。…まさか皆で食べないと美味くないとか言うんじゃねえだろうな」
「それはないけど」
 飯はいつでも美味いし、と悟空はあっさり言って首を傾げた。
「でも一緒にごはん食べる人のこと家族っていうんだと思う」
「それはいい意見だ」
 そういえば自分もそう思ってたんだった。昔は。
「そーだな…とりあえず、俺と食うか?」
「うん!」
「今晩中に兄弟全員と会えりゃ良かったんだけど。俺の部屋に食事運…」
 角を曲がった途端、正面階段の踊り場に金蝉と天蓬がいるのが目に飛び込んだ。
「うわ。いる」
「…伯爵様?」
 悟浄は悟空の手からクッキー缶をひょいっと取り上げた。
「よし行け。挨拶してこい。1番目と3番目だ」
「え?…ひとりで?」
「金蝉と一緒なら天蓬は大人しいから大丈夫。ここで待ってるから行ってらっしゃい」
 兄たちと顔を合わせずに済むなら合わせたくない、悟浄がそんな本音を隠そうともしないでへらっと笑ったので、悟空は仕方なく頷いた。いざという時は助けてくれるだろう。
 階段の下から見上げると、ふたりは書類のようなものを見ながら難しい話をしている。切れ切れに聞こえる単語も何が何やらさっぱりだ。邪魔して怒られないだろうか。…邪魔だったらそう言うか。
 悟空は足音を立てないよう、でもいきなり声をかけて驚かれない程度には気付いて貰えるように、慎重に階段を上がり、3段下に立った。…凄い金髪。きらきらだ。三蔵と似てるから、こっちが伯爵様か。
「あの!」
 二人が同時に振り向いた。
「…ああ、9番目か」
 金蝉はすぐに言ったが、天蓬は無言だ。男にしておくには勿体ないような白い肌と真っ黒な目で真っ直ぐ見下ろしてくる。
 こっ…え〜…。
 しかも左手に持ってるのは鞭に見える。いつも持ち歩いてるんだろうか。
「悟空といいます、今日からお世話になります、よろしくお願いします!」
 しばらく間があった。はきはきと応えたつもりだが歯切れが足りなかっただろうか。
 だがふたりの兄は単に悟空を上から下まで丁重に観察していただけだった。観察を終えた金蝉が、悟空と視線を合わせた。
「ようこそ。一番上の金蝉だ。こっちは天蓬、3番目」
「は、はい!」
「慣れないところで疲れただろう。今夜は部屋で食事してゆっくり休め。朝食には絶対に遅れるな。遅れたら、分かってるな」
「はい!」
 分からないから後で悟浄に聞こう。
 余計な無駄を一切省いた物言いは近寄りがたくはあるものの、伯爵様は意外と優しくてほっとした。
 が天蓬はまだ無言だ。礼をして下がっていいのか。お言葉賜るまで待つべきか。礼儀に関係なく、天蓬の声が聞きたくなっていた。八戒があれほど怖がる兄だ。綺麗な顔に似合わず地獄から響くような低音とか、それとも…
「悟空」
 天蓬はいきなりぽんと名前を呼んだ。
 あまりに普通の声で普通に呼ばれたので、悟空は一瞬呆けた。
「………はい」
「厨房に行きませんでしたか」
「…い、きました」
「あまり行かないように」
 それだけ言うと、天蓬はくるっと踵を返した。
「あ、あの!」
「はい?」
 この兄に二度同じことを言わせてはいけないのだ。悟空は忙しく頭を回転させた。
「それは、俺がこの家の、伯爵家の子供になったからですか」
「そうです」
「じゃあ悟浄もダメなんですか?」
 横で金蝉が、何故かくすりと笑った。しまった、悟浄に連れてってもらったなんて事言っちゃまずかった。
 天蓬は軽く眼鏡を押し上げてから、実に穏やかな声で答えた。
「悟浄はいいんです」
 ふたりの兄が行ってしまった後、悟空は勢いよく階段を駆け下り、廊下の窓から身を乗り出してのんびり煙を吐いている悟浄の傍まで駆け戻った。
「お疲れさん。…どした。変な顔して」
 聞こえてたくせに。
 悟空は必死で正体が分からない涙が出そうになるのを堪えた。
 …悟浄はいいって、何だ。もしかして悟浄は、この家の子供として認めてもらってないんだろうか。俺より先にいるのに。こんなに優しいのに。会えて嬉しいって言ってくれたのに。奥で夜を飼ってるような暗い目はそのせいか。
 悟浄はしばらく、悟空が何か言おうとしては黙るのを面白そうに眺めていた。それから、ちょっと笑った。
「悟空」
「…はい。うん」
「天蓬のことどう見えた」
「…八戒が言うほど怖い人には見えなかったけど」
「おまえにそう見えるならきっとそうなんだろ」
 怖い人じゃなくても、酷い人かもしれないじゃないか。
 悟浄はぷっと噴き出した。人が心配してるのにその態度は何だ。
「天蓬は単に、厨房にちっちゃなガキが近づくと危ないって言ってんだよ」
「…………え?」
 掌が髪をぐしゃっと掻き回した。
「優しいなあ、おまえ」
 あとは…2番目。



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