目の前が真っ赤になった。
その赤は固くささくれだっていて、倒れた途端チクチクと頬や掌に刺さった。
「部屋から出るなと言っただろうが!」
轟音を立てて扉が閉まる。
どうやら俺は、また窓から抜け出したところをとっつかまったらしい。部屋から許可無く出てはいけないのだ、俺を見ると不愉快になる奴が大勢いるから。だったら不愉快にさせ続けてやる。
捲簾は床に転がったまま、ごろんと仰向けにひっくり返った。赤茶色に艶のない真鍮の扉と、深紅の絨毯。薄暗い部屋。
…この絨毯は替えよう。
右手の小指で毛足を撫でていたら急に思いついた。いい考えだ。扉も塗り替えよう。いっそこんな日当たりの悪い家、丸ごと壊してしまえばどうだろう。半端に洋館なんか建てるから光も風も通らない。
しばらくこの考えに夢中になった後、捲簾はふと不思議に思った。
何故こんなに簡単に突き飛ばされたりしたんだ、この自分が。何故、軽々と。まるで子供みたいに。自分より力の強い奴なんか、もう誰もいないはずなのに。
…ああ、そうだ。もういない。今は。
「捲簾様!」
どぷん。
目が覚めた途端耳の奥で、泥に石を投げ込んだような音がした。覗き込んでるメイドに見覚えがない。いつ替えたんだ俺は。
「うたた寝はお体を冷やしますよ!だからほら、そうやって魘されて」
差し出されたタオルで額を拭うと、冷えた汗でぐっしょり濡れた。
「…何時」
「はい?ええと…5時と、もうすぐ半です。夕食は何時にお運びしますか?」
捲簾は慌ててソファーから飛び降りた。
「着替え」
「あ、はい。夕食は何時に」
「何時でもいい。おまえの好きにしろ」
「好きにってそういう訳には…あの、どちらへ」
急いでるのが分からねえのか。三蔵あたりならとっくに殴ってる。捲簾は苛々を押さえ込んで、穏やかに答えた。
「弟のとこ」
本館を突っ切って南館に入り、そのついでに廊下の鏡で全身をチェックした。大丈夫、顔色は悪くない。可愛い弟を見舞うのに、自分の心配をさせる訳にいかない。俺は誰よりも優しくて信頼できる、ただひとりの兄でいなければ。よりにもよって天蓬に罰を受けた可哀想な弟を、誰よりも強く深く心配しなければ。
それにしても情けない。ベッド以外の場所で眠ると必ずガキの頃の夢を見る。
もう俺は絨毯だって好きに替えられる。家具と同じにメイドも交換できる。喧嘩じゃ誰にも負けないし、どこにでも自由に行ける。
あの夢は俺の力になる。
「あーあ、痛そ〜」
「痛いんですってば!」
「可哀想に」
八戒の袖を引き上げてしみじみ眺めていた捲簾は、いきなり鞭で派手に裂けた腕の傷を、舐めた。弟が特に抗議もしないので、花喃は渋々意見した。
「…捲簾。変な真似よして」
「はは、姫が妬いてるぜ。ほら薬塗ってもらえ」
この手の戯言が大好きな捲簾にそう返されるのが嫌だから、文句を言うのは嫌なのだ。
…優しい捲簾。
花喃はカーテンを引きながら小さく、口に出してみた。優しい捲簾。
この家の嫡子は滅多に自室に人をいれない。親兄弟でも、メイドですら、部屋付きでないと一歩も入れない。彼らにとって自室は国だ。爪先でも入れようものなら領海侵犯で砲撃される。旧華族は特にそうだ。自分の部屋がこの世で唯一、素に戻って寛げる空間なのだ。不思議なのは体面にも気位にも縁の無い悟浄が、庶子でただひとり、頑なに自分の国を守っていることだが。
それに引き替え捲簾の部屋は、心配になるほど出入り自由だ。彼の部屋に入ったことがないメイドはいないだろうし、双子も初対面で部屋に招かれた。さすがに花喃には遠慮するが、彼は同じ気楽さで、悟能の部屋にもノックもそこそこに踏み込んでくる。大概そこには自分もいて、さっきのようにからかわれる。でも。
目が合うと捲簾は子供のようににっこり笑い、花喃は慌てて目を逸らせた。
…捲簾の嫌なところといえば、それぐらいしかない。
兄弟でなかったら自分は捲簾を好きになるだろう、女癖の悪さを差し引いても。何をするにも勢いがあって引きつけられる。もっとも金蝉も偏屈だが大人だし、三蔵は感情的だが可愛らしいところがある。天蓬は御免だ。他人に対しては非の打ち所のない人格者だが、できすぎて芝居じみている。常に観察されているようで落ち着かない。悟浄も駄目。器用で優しくて我慢強い。こんな場所にいて愚痴のひとつも零さない。友人としては最高だ。が笑っていても不意に目の奥がすうっと冷える。うっかり凭れると身を躱される。悟空は…いくら何でも子供すぎるか。悟能…。
そこまで考えて、花喃は自分に心底呆れて溜息をついた。くだらない。
こんなことを考えるのは自分が女だからだ。どこかで傍観者の立場に甘えているのだ。花喃はいつも自分の「女らしい」感情や行動を恥に思う。女だからこんな屋敷で自由に放任されて、責任を負うこともなく、捲簾にからかわれる。
「天蓬にやられたって?」
捲簾は椅子をずるずると引き寄せ、薬を塗り込まれる八戒の傷を覗き込んだ。
八戒の返事は、一拍遅れた。
「…ええ」
「きっとあれだ。今日の会合でおまえさんに恥かかされたから頭きて殴れる口実探してたんだ。ひっでえよな」
八戒は捲簾のほうに顔だけは向けたが、視線は目の前の兄を遙かに通り越した。
「…おい花喃。こいつ大丈夫か?ぼーっとしてんぞ」
「何か気になることでもあるの?」
一旦考え事を始めると度を超した集中力で目も耳も塞いでしまう八戒に慣れっこの花喃は、捲簾に向かって首を振ると、ガーゼにシャキンと刃を入れた。
「こうなるとしばらく戻って来ない」
「こいつ時々あるよな。人ほっといて勝手にどっか行っちゃう」
「自由なのよ」
「嫌じゃねえ?」
「好きよ」
口に出した途端、何故か動揺して刃先がぶれた。捲簾はふーんと低く呟いた。
花喃は急に不安になった。捲簾は悟能の、この癖が嫌いなんだろうか。だったら止めさせなければ。庶子の最年長である捲簾の気を悪くする要素は減らしておかなければ。私たちのために。
「俺も嫌いじゃねえよ」
花喃が顔を上げると、捲簾は困ったように首を傾げた。
「変な奴と思っただけで。…なぁ、おい、頼むぜ花喃。兄妹だろ?俺ら仲良くやれてるだろ?俺だけでも普通の兄貴と思って付き合ってくれてもいいんじゃねえの」
「…思ってるわ」
「ならいいけど」
捲簾は花喃の肩を軽く叩いて立ち上がった。
「…捲簾。本家会議なんだけど」
「ん?」
「悟能が逃げ帰ってきたけど、天蓬はそんなに怒ってたの?」
「…あぁ」
捲簾は部屋をぶらぶら一周し、隅に押しやられていた灰皿を持ち上げ、悟浄が山のように残した吸い殻を勢いよく屑籠に空けた。
「どうだかね」
「どうだかね?」
「あいつが怒ったとこなんか見たことあるか?」
花喃は即座に天蓬に引っぱたかれた時のことを思い出した。人を殴っておきながら、本人は冷静そのものだった。あの天蓬の顔は、決して歪んだりしないのだ。
「見ても分かんねえだろ、腹の中はともかく。…何しても平然としやがってあの野郎、ほんっと可愛くねぇ」
急に八戒が立ち上がった。
「何しても?」
勢いで椅子が音を立てて倒れ、捲簾は火をつけ損なった煙草を銜えたまま振り返った。
「吃驚したぁ!何だよ急に」
「何したんです」
「何が?」
「天蓬に何かしたんですか?」
捲簾は煙草を口から離した。
「だから、何が?」
目を逸らせたのは八戒が先だった。もうすぐ焦点が合う。ずっと煙のように漂ってた違和感に。
何か…自分は何か重大な思い違いをしていた。いつから?昼間から?違う、この屋敷に来て、その日から、今まで、ずっと。何故ただの一度も疑わなかった。
何故ただの一度も、捲簾を疑わなかったんだ。
目の端に訝しげな姉の顔が映る。
言うか?姉に?それとも他の誰かに?誰に?でも待て、まだ早い。落ち着け。落ち着いてまとめろ。
八戒は窓際まで歩いて行き、カーテンを勢いよく跳ね上げて窓から身を乗り出した。頭を冷やそうと思ったのだ。
「…おい花喃。さすがにこええよ。飛び降りたりしねえだろうな」
「しても2階よ。死なないわ」
「ちょっと自由すぎるぞ」
まだ分からないことがある。懲罰室で天蓬とふたりになった時。天蓬は先に部屋に入って、窓の前でこっちを振り向いて、一歩こっちへ。あの時、悟浄を思い出して…。
「捲簾、悟空にはもう会った?」
花喃の声で、八戒はたちまち腕の鈍痛と一緒に現実に引き戻された。
「まだ。そういやそっちにも挨拶しようと思ってたんだ」
「夕食の前に会って来たら?可愛い子よ」
姉が、普段は可愛らしく甘えさえするのに、一旦人を動かすと決めたら急にオセロの駒をひっくり返したように堂々とした方向転換を見せるのが、八戒は好きだった。自分を問いただすために捲簾を部屋から出そうとしている。彼女が男だったらきっと指導者に向いている。自分は嬉々として従うだろう。今も従ってるが。
その断固とした口調をそのままに、花喃は慎重に付け足した。
「跳び蹴りされるかもしれないけど」
「…なんで?」
「悟浄様が部屋に人を入れるなんて珍しいですね」
部屋に悟空と二人分の食事を運んできたメイドは、わざわざ悟空に向かって言い放ち、言われた悟空は悟浄をじっと見た。
「…おまえ、ほんと黙れ」
「あら別にさっきの仕返しとかじゃないですよ?余程弟さんが可愛いんだろうなって言ってるだけですよ?弟さんだけが」
「八戒にあたれと言ったぞ」
「生憎美形は好みじゃないんです」
「何だと?」
「部屋に人をいれないの?」
悟空は突如始まった口論に一切構わずはきはきと意見し、悟浄は諦めて潔く椅子の背に凭れた。
「…そう」
「八戒もいれないの?花喃も?」
「そう。平等に」
「でもさっきお茶飲んだの八戒の部屋だよね」
「そう」
「自分はいれないけど人の部屋には入る?」
「そう」
「狡いよ」
「そう。俺は狡いの」
面白そうにふたりを眺めていたメイドは悟浄に睨まれてワゴンを引いて出て行き、扉を閉めた。かと思ったらまた開けた。
「…捲簾様がお見えですが。悟空様はどちらかと」
「1時間たったら悟空の部屋に行けって言っ…いや俺が言う。おまえは下がれ」
兄を追い返す為に立ち上がりかけた悟浄は、悟空に非難の目でじっと見つめられて、諦めて腰を下ろした。
「…どーぞ、お兄様」
「お、ひさしぶり。元気か?」
悟浄にではなくメイドへの挨拶だ。捨てた女に思いっきり睨まれると、捲簾は肩をすくめて扉を閉めた。
「悟浄から入室許可が出るとは驚いたな。宗派替えしたのか?」
「女虐めんなよ」
「挨拶しただけじゃねえか」
「そうだけどもっと…こう…あれだ…気まずそうにしろよ」
「なんで」
「…もういい」
「気まずそうにするとおまえが喜ぶんなら練習するけど」
「喜ばない」
気まずいなんて感情とは無縁の捲簾はずかずか部屋の真ん中までやって来て、その勢いのまま悟浄の耳にふっと顔を寄せた。
「な、何」
「部屋かと思ったらおまえからしてんのか?何の匂い、これ。花?」
聞いておきながら返事も待たず、捲簾はテーブルの悟浄の皿からひょいと筍をつまんで口に放り込んだ。そして言った。
「よお、9番目」
悟空は右手にナイフ、左手にフォークを握ったまま、椅子の上で凍り付いたように身動ぎもしない。
「…悟空、どうした。2番目の捲簾。説明したろ」
悟浄が促すと、悟空はようやく握りしめていたものをそっと置き、椅子から降りて頭を下げた。
兄の誰にしたよりも深く、丁寧に。
「初めまして、悟空といいます。本日よりお世話になります」
|