act.5


「へえ、礼儀正しいな。おまえの教育の成果?」
 捲簾は頭を下げた悟空への笑顔をそのまま流用して、悟浄に向けた。
「後で部屋来い。話がある」
 例によって返事も待たず、捲簾はあっという間に出て行った。四兄弟は誰かの反応を待っていちいち対応を変えるようなまどろっこしい真似はしないのだ。
「…行ったぞ」
 悟浄がしびれをきらして椅子をひいてやるまで悟空は頭を上げず、やっと上げたと思ったら、それまで延々と水の中に沈められていたような急激な息の吐き方と力の抜き方をした。悟浄はナプキンを皿の上に放り投げ、天蓬の時にしたように軽く尋ねた。
「どう?」
「…うん…うーん…」
「言えよ」
 悟空はのろのろと席につき、何度か言い淀んだ後早口で呟いた。
「怖かった」
「そっか」
 悟浄はグラスに、悟空のぶんまで食前酒を注いだ。そうか。
「…おまえにそう見えるなら、そうかもな」

 
 金蝉は本館の書庫で、手が届くか届かないかの微妙な高さにある本に向かって背伸びしているところだった。
 あれを取ってくれ、と頼むのに自分より背丈のない者を呼ぶわけに行かず、もうすぐそこ、ほんの指の関節ひとつぶんの距離のために梯子を持ち出すのも面倒だ。飛びあがってみたが、手は届いても、ぎっちり詰め込んである本1冊は力を込めないと抜き出せそうにない。
「金蝉!」
「……なにか」
「何してんだ」
「いや…あの本をな」
 三蔵はちらりと上を見上げたが「それはそうと」とさっさと用件を切り出した。これだけうじゃうじゃ人がいるのに、使用人もひっくるめて自分より背の高い男が捲簾と悟浄しかいないのはどういう訳だ。もっとも金蝉とて母方の血で、平均よりかなり背丈はあるのだが。
「金蝉、今日の会議のあれは今後我が家にどのような影響を?」
「…さっぱり分からん」
「ええ!?」
「ええ!?じゃねえ、おまえが何言ってるのかさっぱり分からん。ちょっと捲簾呼べ」
「何故こんな話の最中に奴を呼ぶ!?」
「まだ何の話もしてねえだろうが。あの本が取れねえんだよ、さっきその辺うろうろしてたから捲簾…」
「断る!!!」
 金蝉は憤然と腰に手を当てて立ちはだかる弟を呆気にとられて見つめていたが、ようやく本棚に延ばしていた腕を下ろした。
「…聞こうか」
「今日の会議、ありゃ何だ?天蓬の吊し上げだろ。だな」
「…図らずもそんな様相を呈していたな」
「わざわざ小難しく言うな。この時期の本家会議なんか異例中の異例だ。何だって庶子を出席させた。訳が分からん。兄貴はあれか、八戒にでかい面させたいのか。天蓬に嫌がらせしたいのか。どっちだ」
「…おまえはどっちがいいんだ」
「どっちかなのか!?」
「そう怒鳴るな。だからおまえは天蓬になれねえんだ」
 三蔵は怒鳴ろうとして開けた口を、非常な努力によってじりじりと閉めた。
「会議の時期がずれたのは各自の都合をすりあわせた結果で意味はない。八戒を出席させろと言ってきたのは、八戒にでかい面させたく思い、かつ天蓬に嫌がらせしたい捲簾だ。俺は了承した」
「何で了承する!!」
「面白かったからだ」
 ぐるぐる肩をまわしながらのんびり言う金蝉を、三蔵は宇宙人でも見るように眺めた。普段から理解しがたい兄ではあったが、ここまで理解しがたかったことはない。
「…何だと?」
「面白かったからだ」
「2回言うな」
「興味があったからな、天蓬の庶子疑惑。社交界でもこの噂は流行の最先端だ、親族様方もいつまでも聞かないふりもできんだろ?遅かれ早かれふたり並べてお披露目しなきゃならなかった。結果どうだ。天蓬に嫌がらせできたか?大笑いだ、びくともしねえ。いたたまれなくて逃げ出したのは八戒のほうだ。これで嫡子と庶子の器の差がはっきり出た。おまえも兄を誇るといい。あれでこそ我が家の嫡子だ。仮に捲簾の望み通りの結果が出たら、俺は天蓬を見限った」
 金蝉はようやく思い出したように、また本棚に手を伸ばした。
「…結局捲簾に嫌がらせされたも同然の八戒には可哀想だったな。八戒は気性が穏やかだから…別に穏やかでもないが常識人の範疇だから、あの捲簾にはちょっとついていけねえだろうなぁ…」
 独り言のように呟きながら、金蝉はくすりと笑った。
「あいつ気が狂ってるしな」
 コン。
 ノックの音で三蔵が飛び退くと、噂の天蓬が顔を出した。
「金蝉、明日の勅選との会………何やってんです」
 また自分より背の低いのが来た。
「いや…あの本をな」
「どれです」
 天蓬はすたすたと金蝉の傍まで行くと、ひょいと金蝉を抱え上げた。
「届きます?」
「…届いた」
「で」
 金蝉をトンと下ろすと、天蓬は脇に挟んだ書類を広げて手の甲で勢いよく叩いた。
「勅選の先生方との会食!先月も先々月も僕と三蔵が代理で出てますからね。明日は逃げないでくださいよ。貴方に面倒なことは僕にも面倒なんです。三蔵、貴方もあまり金蝉を甘やか…」
 天蓬が振り向くと、三蔵の姿はもうなかった。
 
 だからおまえは天蓬になれねえんだ。


 
「ああ悟空!ちょうどいいところに」
 悟空が南館の廊下に並んだ扉のノブを片っ端から回しているところへ八戒がやってきた。空き部屋でも鍵が開いていたりなかったり、掃除が行き届いていたりいなかったりだ。扉だけでは判別がつかない。
「…いやちょうど良くありませんよ。子供は寝る時間です。早く休まないと、朝食に遅れるとどうなるか」
「どうなるの?」
「こうなる」
 八戒は袖を捲って、ぽんと包帯を弾いた。
「ところで悟浄がどこにいるか知りません?」
「多分、捲簾のとこ。話があるって言ってたから」
「…ああもう…何で今日に限ってあの人がもててるんだ…西館…うーん…」
 悩む八戒をおいて探検を続けようとした悟空の肩を、八戒が掴んだ。
「こら待ちなさいってば。庶子が入っていい場所と駄目な場所があるから、そう無闇に…」
「え?そうなの?」
「悟浄はそういう大事なことを教えずに何を教えたんです。会議がなきゃ僕が迎えに行ったのに。妙なこと教わってないでしょうね、レディーの扱い方とかそういうのはまだ早いですよ。僕もまだなんですから」
「誰が嫡子で誰が庶子とか」
「ああ」
 八戒は得心したように頷いた。
「それはまあ、一番大事です」
「…そんなに?」
 実は悟空には、そこのところがよく分からなかった。悟浄の説明はどこか曖昧で、同じ血をひいた兄弟がここまではっきり二手に分かれる理由が掴めない。八戒には悟空の困惑が分からないようで、逆に首を傾げて返した。
「そりゃ…だって嫡子だ庶子だっていうのは、何も母親が違う兄弟ってだけじゃないですから。でも貴方は大丈夫ですよ、もう9番目だから」
「どういうこと?」
 八戒は少し黙り、その後、困ったように微笑した。さっきまでのやたらと快活な態度が急に裂けて漏れたようなその微笑が、唐突に悟空の心臓を鷲掴んだ。
「八戒、何かあったの?嫌なこと」 
「…貴方は凄いな。勘がいい…というか僕が分かりやすいんですかね…」
「え?嫌なの!?分かりにくいところもあるよ!急にどっか行っちゃうとことか」
「…無理矢理分からないことにしなくていいです。実は花喃と喧嘩して、元気がありません」
「喧嘩するの!?」
「しますよ、姉弟だから。愛故の喧嘩なのです。いつか貴方ともするかも」
 したくないな八戒とは。三蔵と違って怒鳴って終わりじゃ済まない気がする。
 八戒は壁の時計に目をやり、「朝は僕が責任持って起こしますから」と天井を指した。
「気晴らしに付き合ってくれるなら、僕の秘密の場所を教えますよ」

 悟空が手当たり次第開けていた扉のうちのどれかが、もしかしたら誰かの大事な秘密の場所かもしれない。誰でもひとりになれるお気に入りの場所は必要だ。だから、そう簡単に開けるものじゃない。
 厨房をまわって南館に戻って上に上がってから外階段で西館に渡るという恐ろしく複雑な経路を辿りながら、八戒はそんなふうに言って、西館の屋上にある温室に悟空を案内した。
 凝った造りで、煉瓦を積んだ上に張ったガラスと黒鋼の屋根を、燃え上がるような蔦が這い回っている。その一本一本が計算しつくされたように美しい曲線だ。中はほとんど緑一色だが、灯に照らされた睡蓮池には蒼い水と桃色の花のコントラスト。滅多に人の目に触れないだろう場所に、何故こんなに見事な温室が。
「…夢みたいだ…」
「ありがとうございます」
 その返答で、この温室を八戒が作り上げたことが分かった。
「元は奥方のものでした。管理が適当になってるところを、金蝉に頼んで僕がもらいました。僕も大雑把なんで蘭だの薔薇だのはまんまと枯らせちゃって、水やれば勝手に育つ緑ばっかりですけど。…ああ、このへん、ベゴニアがまだ。逞しいことです」
「…奥方」
「そう。奥方」
 歌うように言うと、八戒は悟空を温室の中の小さなベンチに手招いた。
「悟空。先に言いますけど、僕の言うことも悟浄の言うことも、鵜呑みにしちゃいけませんよ。嘘じゃないんです、同じ場所にいて同じ出来事にあっても見えることは違う。本当のことも人の数だけある。貴方には貴方の本当のことがあるんです。それを信じてくださいね。…実は僕も今日あることがあって、それがやっと分かったところなんです」
 厨房からもらった紅茶をカップに注いでくれる八戒の顔が、湯気の向こうに揺れて見える。
 …八戒という人はまた何て綺麗なんだろう。花喃の横にいると目立たなかったが、植物の一本のように無駄なところが何もない。
「この家は男ばかりで、花喃以外の女性がいません。女性は爵位も継げないし、まだまだ男性より身分が下です。だから男は時々、自分が女から生まれたことを忘れます。嫡子の母上のことを考えたことがありますか?」
 なかった。
 奥方、という言葉を聞くまで存在を忘れていた。
「先代の伯爵にこんなに大勢庶子がいるということは、先代が不貞を」
 八戒は「不貞」という言葉が悟空の年齢にふさわしいかどうか吟味してから、諦めた。
「…要するに浮気です浮気。奥方以外の女性を愛した。愛したかどうかはともかく、やることをやった。奥方は態度には出さずとも当然お怒りになっただろうし、それ以上に深く悲しまれたでしょう。我々庶子は、嫡子から見れば、愛する母上を悲しませた酷い女の子供なんです。親は親、子は子という考えは、親子の繋がりで成り立つ伯爵家では通じません。子供の罪は親の責任、親の罪は子供の責任です。僕らの母親は彼らを苦しめた。金蝉や天蓬や三蔵を、事実苦しめた。そういうことを考えたことがありますか?」
 不意に蔦が責めるようにざわついて、飛び上がりそうになった。温室にいるのに手が震える。
「とはいえ奥方は、5番目の三蔵が生まれて間もなく亡くなっています。三蔵より後に子供を生んだ女性は、現役で奥方を苦しめた訳ではない。だから、風当たりがあまり強くないんです。9番目だから大丈夫と言ったのはそういう意味です。さて、この理論で行くと一番恨まれているのは誰でしょう」
「…捲簾?」
「独角です」
 八戒は淡々と紅茶を啜った。
「三蔵より先に庶子を産んだのは、捲簾の母上と、独角の母上。余計に憎まれたのは独角の母上です」
「なんで…」
「彼女が後に悟浄まで生んでるからです」
 悟空はばちんと音をたてて瞬きした。やっぱり悟浄は独角の項目をすっとばしている。
「したがって独角がいない今、一番立場が悪いのは悟浄です。親族の年寄り連中には赤い髪や目を怖がってる人も大勢います。上流階級の保護者総出で騒いで学校に入学を拒否されました。黙らせるために山のような寄付金を出したんです。本当の兄に捨てられるほどだから他にも問題があるんだろう、というのが大方の見解です。公の場は勿論、監視抜きでの外出を禁止されているのは悟浄だけです。下っ端の使用人は懐いても、執事は悟浄に近寄りもしません。独角のことは僕もよく知りません。数えるほどしか会ってないし、何故悟浄ひとりを置いていったのか、ふたりとも言わない。言ったとしても本当かどうか分からない。でもどんな事情があるにしろ、僕は嫡子よりも誰よりも、独角が大嫌いです」
 今度こそはっきりと蔦が揺れた。
 顔も声もまったく変わらない、静かすぎる八戒の代わりに身を捩らせる。

「悟浄が許しても僕は許しません」

 どこかで時計が鳴った。9回。いや10回?八戒が丁寧に砂糖を溶かしてくれた紅茶はとうに冷め切ってしまった。
「部屋に戻ってお休みなさい」
 八戒は優しく微笑んだ。そうするとやっぱり花喃と、花にも似ていた。
「今日の話、秘密ですよ。花喃にも、悟浄にも」
「…ありがとう八戒」
 また見に来ていいかと聞くと、八戒は嬉しそうに頷いた。
 でもひとりで温室に入る勇気はない。奥方とひとりで向かい合うような、そんな真似はまだできない。
 八戒はここで、今はもういない奥方と秘密を共有することで、この家に何とか溶けてきたのだ。
 館内に降りる鉄扉の辺りで振り向くと、温室は植物や光を飲み込んで蹲る動物のように見えた。

 そうか。
 八戒はいつもここに来てたんだ。
 ひとりでどこかに行っちゃう時は、心がいつも。

 


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