act.6


 庶子がひとり増えたことについて金蝉がどう思っているかは、四六時中行動を共にする天蓬でも判断がつきかねた。
 何とも思っていないように見える。まぁ何とも思っていないのだろう。
 彼にはあまりにも考えることが多すぎた。上院議員としての仕事は座ってれば済むとしても、名義が自分になっている土地の上に建っている建物の持ち主や、名義が自分になっている会社の経営者や、名義が自分になっている家名に縋る親族や、名義上自分の兄弟になっている連中の指揮を、一斉に、素早く、適確にとらなければならなかった。
 金蝉はつまらなそうに淡々とそれらをこなし、皆、粛々と彼に従った。先代の女癖の悪さは微塵も引き継がず、先代以上に判断力に長けていた。捲簾でさえ、金蝉には敬意を払った。
 悟空は金蝉に何か思わせるにはあまりにも幼く、双子と違ってひとりでやってきて、悟浄と違って見た目もまともだ。金蝉を煩わせるようなことはないだろう。庶子の面倒は庶子がみることで最初から話がついていた。
 …まさか悟浄が連れ歩いてるとは思わなかったが。
 天蓬は成り行きで金蝉の書庫漁りに付き合いながら、左手で右腕を軽く揉んだ。
 どっちにしろ悟空と自分とは滅多に口をきくこともない。きく気がないのではない。きくと危険なのだ。
「どうした。腕」
 さっきから延々と背を向けていたはずの金蝉が突然言った。
「どうしたもこうしたも痛めましたよ。鞭振る練習なんかしてないんです」
「悪かったな。押しつけて」
 奥付を確かめながらの謝罪はまるで上っすべりだ。
「練習しとけ。俺に何かあったら懲罰もおまえの役目だ」
 まさか練習台に八戒を寄越した訳じゃないだろう。捲簾だ。捲簾がわざわざ自分に八戒を引っぱたかせた。それを金蝉が了承した。
 金蝉は自分を試しているんだろうか?自分が、どこまで平気か。勿論どこまでも平気だ。それが、わざわざ試さないと分からないことか?それとも秘書になりたがっている三蔵を納得させるためだろうか。
「金蝉、ひとつ疑問があるんですが」
「何を隠そう見合いの話が来てる」
 話題の急転換以前に“何を隠そう”を枕にするには結構大きな議題だ。
「誰にです」
「おまえにだ」
「貴方じゃなく?」
「おまえが俺じゃなきゃそうだ。何度も言わせるな」
 金蝉は手にした本を勢いよく天蓬の腕に積んだ。そろそろ10冊を越える。専門書ばかり。いつ読む気だ。
「第一に、何も兄弟を上から順に片付ける必要はない。第二に、先方は爵位持ちでどこに出しても恥ずかしくない美貌の令嬢だ。第三に、この件で先方のお父上とダーツして俺が負けた」
「疑問があるんですが?」
「後にしろ。第四に先方がおまえに一目惚れだ」
 名を聞くと、確かにパーティーで面識があった。文学談義で自分についてこられる、しかも女性がいたので驚いた。ような記憶がなくもない。
 天蓬が何とか彼女の胸から上を思い出そうとしている間にも、金蝉はさっさと話を続けた。
「俺個人の意見としては是非話を進めたい。おまえと釣り合う女がそうころころ転がってるとも思えんのに、転がるどころか熨斗つけて差し出されてる。どこから見ても申し分のない話だ。ところがだ、おまえに愛する妻ができるとどうなるか。当然手籠めだ。娘でもできてみろ、そっちも手籠めだ。いやもうこの際息子でも手籠めだ。そうなる前に、いい加減何をやっても無駄だとあの狂犬に分からせるべく俺は色々とやってみてる訳だ。おまえには申し訳ないが」
 11冊目。
 金蝉が表現に気を使っているのでなかったら、実に楽観的な観測といえる。手籠めるより生まれた途端捻り殺すほうが簡単だ。
「…狂犬を犬にする実験だったとは」
「何を言う。人にするんだ人に。まともな人間に。そもそもあれはおまえが絡まなきゃまともなんだ。俺には奴の監督責任がある。同時に優先順位というものもある。おまえの成婚までに治らなければ処分する。以上。質問は」
 天蓬はしばらく兄を見つめたあと、「質問はないが問題が」と返事した。
「僕には妻帯の意志がまるでありませんが」
「それは問題か?」
「言ってみただけです」
 金蝉は12冊目をぽんと天蓬の腕に足すと、そのまま書庫を出て行った。
 僕が読むのか。やっぱり。
 本を抱え直すと天蓬は肩で扉を押し、自室に戻って鍵をかけ、ベッドの上に自分と荷物を一緒に放り出した。
 伯爵の秘書を勤めることは、誇らしくはあるが、それだけだ。三蔵は信頼されることと愛されることが別だと分かっていない。とんでもなく別の物だ。別の種類のことだ。
 天蓬は寝っ転がったまま煙草を引き寄せ、結構苦労しながら片手で火をつけた。伝手の伝手を辿って苦労して手に入れるこの煙草、むせ返るような甘い匂いが髪に染みついてなかなか取れない。
 真上に何かの皮膜を引き剥がしたような煙が丸く浮き上がる。
 天蓬は目を瞑り、思いきり濁った空気を吸い込んだ。

 強い、強い、花の匂い。

 
 
 西館。四兄弟の個室と最高級の客室がある。
 南館の庶子とは食事会を別として、生活は一切交わらない。西と南の間を立場が半端な捲簾だけが、何の頓着もなく行き来する。
 双六盤の上を移動しているような気分だ。悟浄は足下に視線を落としたまま、本館をとことこと突っ切った。進めるところ。進めないところ。1回休み。戻れ。ご丁寧に色分けまでされている。何故だか知らないが、本館と西館の境界で絨毯の色が赤から生成に変わる。
「よいしょっと」
 悟浄は弾みをつけて境界を乗り越えた。段差もないのに弾みをつける必要などどこにもないが、悟空につられて晩飯を食い過ぎた。体が運動したがってる。といって廊下走る訳にもいかないし。
 行き会ったメイドがすっと壁に身を引き、頭を下げた。
 …女抱きてぇな。八戒に付き合ってもらって外出るか。でも花喃がうるせぇしな。…邪魔なんだよな、あの女。
 正確には花喃がうるさいのではなく、八戒が勝手に姉の機嫌を気にするのだ。変な男。親だろうが姉だろうがそろそろ鬱陶しがって当然の年なのに、まったくその気配がない。双子ってのはそういうものなのか?それともあいつらだけがそうなのか?一生?
 そんな気分でいたから階段は自然と4段跳びになり、捲簾の部屋の扉を軽くノックしたはずが勢いが止まらず、轟音が響いた。
「…ぶち抜く気かい、おまえさん」
「…すいません」
 捲簾は顎で部屋の中をしゃくった。
「どーぞ」
 怖い?捲簾が?そうだな、特に今日はまた素晴らしくご機嫌斜めだからな。
 それでも優しくて親切な兄貴には違いないんだぜ悟空。上辺だろうが本気だろうが関係ない、騙されたら同じだ。
「つか窓開けていいかな!?」
「ん?何か匂うか?」
 悟浄は返事もせずに窓を全開にした。生臭い。晩飯に誰食いやがった。
 ソファーが湿っていないか慎重に確認する弟を尻目に、捲簾は酒棚を開けた。
「どれがいい」
 どれも何も銘柄は全部同じだ。ずらっと並んだ目玉が飛び出るような高級洋酒。輸入業者が親族で、試飲名目で金蝉にどっと送ってくる酒を、嫡子から好きな順に抜いていき、結果、捲簾の番になるとこうなる。それでも残った女好みの甘い酒は、捲簾が抱えて花喃に持って行く。そこで花喃は思う訳だ。優しい捲簾。
「右から2本目」
「見る目あるな。さっすが俺の可愛い可愛い悟浄」
 こっわ。
 セリフも棒読みなら顔も無表情な捲簾は、グラスをぽんと放って寄越した。
「悟空に構うな。八戒に任せろ」
「なんで」
「おまえが今機嫌取らなきゃなんねえのは弟じゃねえだろ。兄だ。つか俺だ」
「ふーん?」
 目の前、髪を掠めそうなほど近くで、捲簾愛用のナイフの切っ先が勢いよく真横に滑り、ボトルの封を切った。
「…変わんねぇよなぁおまえは…いっつものらくらのらくら…」
 すぐ脇に片膝突かれたせいで、ぐんと沈んだソファーに重力で体が押しつけられた。悟浄は気分を落ち着かせるために、あまり好きでもない琥珀の液体をちびりと舐めた。
 捲簾の声音は不意に途方もなく優しく溶けた。
「なぁ悟浄。ここに来た時の事覚えてるか?」
「忘れた」
「俺は覚えてる。俺が迎えに行った。いけすかねえ運転手と喧嘩しながらよ。頭撫でると顔だけ嫌そ〜にするのが可愛くて面白くってよ。あ、途中でおやつ食わせたな。例のラムケーキ。これから嫌ってほど食うのに。そこで序列の説明して、こっそり煙草も吸わせてやって、屋敷の中じゃ真っ先に厨房に連れてった。なんだかんだ言ってあそこの連中が庶子に一番優しいからよ。その日の晩は本家ががたがたしてたから、おまえと俺でここでふたりでメシ食った。忘れたか?」

 初めまして、おまえの兄貴だ。

 それを第一声に捲簾が現れた時、悟浄は「ふざけんじゃねえ」と答えた。俺には兄貴はひとりしかいねえよ。
 捲簾は「そうか」と言った。
 そうか。そうだよな。まあ来いよ、俺を助けると思って。
 その頃とっくに独角は金蝉に頭を下げて悟浄を預け、書類に判まで突いていた。悟浄を頼む。悟浄だけでいい。
「悟空に会えて嬉しいか」
 額がくっつくほど近くで覗き込まれて思わず目を瞑ったが、息吐くような声は防げない。なんで耳には瞼がないんだ。
「おまえが部屋に入れるほどだもんなぁ。俺も入れねえのに。分かるよ俺は。可愛いだろ。こいつは俺の救いだと思ったろ。俺がこいつを守ろう、他の奴からもこの家からも、こいつとだったら普通の兄弟みたいにちゃんと愛して愛される、なんて期待したろ。続きを教えてやろうか。残念ながらおまえが悟空を愛したほどには愛されねえよ。どんなに可愛がっても突き放される。俺がおまえに今そうされてるみてぇによ」
「…それはあんたが」
 嘘ばかりつくからだ。
「おまえが来た時、俺はそう思った。やっと愛せる弟ができると思った。待ってたんだ俺は。おまえを。ずっとだ。双子はしょせん侯爵出のお坊ちゃんとお嬢ちゃん、しかも生まれた時から傍に最強の味方がいる。一度もひとりで立ったこともなきゃ足蹴にされたこともねえ。そんな奴らに俺らが必要か?俺らの気持ちが分かるか?おまえはちっちゃい頃から勘が良かった。あいつらがおまえに上から同情してんのも分かっただろ。可哀想だと思ってるのが分かっただろ。分かるからあいつらに腹割れねえんだろ。分かってんだよ俺は。おまえのこと全部。おまえのことを分かってやれるのも、必要なのも、待ってたのも、俺だけだ」
 誰にでもこう言うんだこいつは。俺だけは味方だ、俺らだけはわかり合える、なあそうだろ?
 気持ちも込めずに気持ちいいセリフで誘って浮ついたところを懐に引っ張り込む。優しいも怖いもない。これはこういう生き物なんだ。おまけに、悪魔は天使よりもてると相場が決まってる。
 悟浄が反応しないとみると、捲簾はうっすら笑っただけで上からどいた。
「疑り深すぎるぜ悟浄。誰に似たんだ」
「あんただろ」
「ま、誰にも味方しねえってならそれでいいが、最後までそうしてろよ。何もすんな。誰にもつくな。俺の邪魔したら殺すぞ」
「やれるもんなら」
 もの凄い目で睨まれて、悟浄は出口まですっ飛んで逃げた。
 馬鹿馬鹿しい。捲簾が俺なんかに殺すほど執着するか。ただひとりに精も根も捧げた捲簾が。
「…あのさ」
「悟空囲うなら囲うできちんと教育しとけよ、あれ俺のこと怖がってんぞ。嫌われたらやりにくいじゃねえか。俺が何するって言うのよ可愛い可愛い庶子に」
「ひとつ聞いていいか」
「どうぞ」
「俺のこと好き?」
「うわ」
 捲簾は正直に眉を顰めた。
「そんなこと言って欲しけりゃ八戒んとこ行けよ。勿論ですよ〜何聞くんですか悟浄、大好きですよ?花喃の次に」
「あんたに聞いてんだ」
「髪はな」
 想定外の返事に悟浄は一瞬言葉に詰まった。
「昔、部屋に敷いてあった絨毯と同じ色なんだよ」
「じゅ、絨毯?」
「俺その絨毯が嫌いでよ。引っぺがして捨てたんだけど後から惜しいことしたなーと思ったよ。初心を忘れねえようにとっときゃ良かった。だからおまえが来て丁度良かったな。目の前でちらちらするたび嫌なことばっかり思い出して」
 捲簾は目だけで笑った。
「元気が出るよ」
「…そりゃ良かった」
 これは嘘じゃねえな。



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