秘密を握らせるのは決して相手のことを信用している証しじゃないんだよ。むしろ、脅迫だ。
秘密は重いからね。
道が悪くて文字がぶれる。
捲簾はパタンと茶の革張りの手帳を閉じた。前伯爵が雑記帳にしていた、捲簾への形見。
ちなみに伯爵愛用の鞭は金蝉へ、ナイフは天蓬へ、銃は三蔵へ。
嫡子に武器、俺には手帳。これはまたどういう符号だろう?
伯爵亡き後、手帳は金蝉が先に目をとおし、すぐに捲簾に手渡された。そこには捲簾が生まれた日の感動が、それはもう熱烈に、文才の無駄遣いも甚だしく舞い上がった文章で綴られていた。なるほど、庶子とはいえ私はこんなにおまえを愛していたんだよと、そういうことか。俺の武器は愛ですか。
…艶やかな黒髪、陶器のように白い肌、愛くるしく端正な目鼻立ち。おや俺は随分と美形だったんだな。天蓬のようだ。
それにしても微笑ましいほど手口が見え透いている。同時期に生まれた天蓬の生誕に、子供狂いの伯爵が感動しないはずはない。どうせ子供ごと女ごとに手帳や手紙が選り分けてあるんだろう。浮気者とはマメなものだ。
それが分かっていても捲簾は、自分が必ず鞄に手帳を入れて持ち歩き、事あるごとに開いてみる理由を知っていた。奥方が館内を散歩するたび、親戚が訪ねてくるたび、部屋に監禁したのは父親なのに、後で涙目で謝られるとさっさと許してしまった。許すも許さないも味方はひとりのあの家で、父親がひとこと顎で指図すれば孤児院直行の捲簾に他に選択肢などないのだが、さも捲簾が自ら許したように誘導するのだ。人をたらしこむ手練手管は仕事にも遺憾なく発揮された。伯爵の持っていたものを丸ごと引き継いだ金蝉は、父親の派閥の自称No.2がぞろぞろ出てくるので途方に暮れた。
「どうしたらいいんだ」
弟たちは全員呆気にとられた。
金蝉が真顔で「どうしたらいい」なんて零したのは、あれが最初だ。そして今のところ最後だ。
「我らが父上はどいつにもこいつにも、おまえこそ俺の片腕だとか甘言吐いてたらしいぞ」
そういう男だった。誰よりも罪深かったのに、誰からも憎まれなかった。誰とでも秘密をもち「自分は彼にとって特別だ」と思いこませた。計算だったのかどうかも今となっては微妙だ。まったく悪気がなかったのかもしれない。
捲簾は父親が好きだった。母親の影響で微妙に拗くれた感情を抱いている嫡子よりも、純粋に父親を慕った。だからこそ捲簾は物心ついた時から手当たり次第に周囲の皆を愛そうとした。愛情表現は惜しまなかった。心がついてこなくても、とりあえず言葉で。言霊ということもある、きっと言ってるうちに本当に好きになるだろう。言霊の力を4,5歳にして確信していた捲簾は、しかし聡明でもあったので、親族や嫡子に拒絶されてあっという間に諦めた。愛したからといって愛される訳はないのだ。
だが未だに「とりあえず言葉で」の癖は抜けない。考える前に言ってしまう。墜ちるのは女ばかりだが。
「…停めろ」
「は?」
「停めろ!」
車はちょうど橋の上を通りかかっていて、運転手が急ブレーキを踏んだせいで捲簾は反動で前のめりになり、その途端喉の奥がタイヤと同じに妙な音を立てた。
「捲簾様!?」
「……酔った」
「だから車の中で字を読むなと金蝉様があれほど!」
てめぇが急ブレーキ踏まなきゃ外まで持ちこたえられたんだよ馬鹿野郎が。
ドアを蹴破って外へ出ると、捲簾は橋を回ってザクザクと河原に下り、指を突っ込んで朝食を丸ごと全部吐き戻した。
「捲簾様!」
「…歩いてく!おまえは戻れ」
運転手はしばらく橋の上でぐずぐずしていたが、敬礼して車を発進させた。
俺には色々と弱点があるが、と捲簾は水面に手を突っ込んでじゃぶじゃぶ洗いながら思った。
これは何とかならないもんか。兄弟の中では捲簾と悟浄だけが車に弱い。奴の乱暴極まる運転のせいで三半規管が壊れちまったんじゃねえのか俺ら。ああ、三半規管だけじゃねえか。
ネクタイを緩め、服の埃をぽんぽんと払ったところで、ふと欄干に頬杖ついてじっとこちらを眺めている令嬢に気がついた。一瞬花喃かと思ったが妹とはほんの10分ほど前に逆方向へ別れたばかりだ。あんな女と愛らしい妹とを違えるとは俺としたことが。
「趣味悪ぃぞ」
「何してるの?」
「酔った」
「また?」
「車に」
「また?」
捲簾がこの令嬢と会うのはふた月ぶりだ。大概の女はここまで間をおけばプライドが見切りをつけてくれるのに、彼女だけは随分としつこい。さっさと悟浄に鞍替えしたあのメイドのほうが余程潔い。いい加減見下ろされるのに嫌気がさして土手を上がろうとした捲簾を、令嬢は強引に押し戻し、欄干の下に引っ張り込んだ。
「出勤途中なんだけど?」
「弱ってる時の貴方って好き」
やれやれ。
捲簾は辺りに目を走らせてから、身をかがめて口づけた。
「これでもか」
「話があるの」
令嬢は大げさに声を潜めた。
「来週お見合いするのよ」
「おお、そりゃおめでとう」
爵位持ちが見合いするということは、すなわち結婚するということだ。
「ありがとう。貴方に祝ってもらえるのが一番嬉しいわ」
「祝うとも。よくおまえみたいな淫売に買い手がついたな。世の中捨てたもんじゃねえよ。信仰に目覚めそうだ」
「言うことはそれだけ?」
「…これだけ言やぁ充分だろ。娘ができたらやらせろよ」
「貴方の姪になるけど?」
銜えようとしていた煙草が指から落ちた。
「ふふ。動揺した時の貴方って好き」
3年前、男爵家のひとり娘である彼女はあからさまに「伯爵家次男」の肩書きを狙って捲簾に近づいた。家名を背負った女なら、むしろ正しい心がけだ。今時大人しく見合いを待ってる女はいない。うじゃうじゃいる兄弟の中から、敷居の低そうな捲簾を狙ったのも賢明だ。
捲簾は最初にはっきりと、遊びなら付き合うが結婚はできないと断りをいれた。元々値の張る女が苦手なのと、本人はまったく気付いていなかったのだが捲簾の一途さに因る。
「あら、どうしたの?怒ったの?まさかね。別に貴方が結婚してくれないから当てつけで弟って訳じゃないのよ。夫にするのにわざわざ女癖の悪い男を選ぶことないでしょ?貴方だって男癖の悪い女を選ぶことないしね。私たち、そこだけはそっくり。でも天蓬が兄弟の中で一番貴族らしいって貴方が言ったのよ。そのとおりだったわ。顔も綺麗で教養があって紳士、何よりお父様のお気に召したの。貴方の伯爵様も良い方だけど、こう言うのは失礼だけど金髪は、ね。子供のことを考えたらちょっとね?頭の固い連中も多いし」
ちょうどその頃捲簾は、頭の中にこの辺りの正確な地図を思い浮かべていた。自ら切り売りしているのだから簡単だ。
間違いなく金蝉の土地だ。ここは金蝉の場所。
「で考えたの。貴方の妹になるのはどうかなって。誤解しないでね、いくら私の趣味が悪いからってわざわざ結婚して義兄と不倫がしたい訳じゃないわよ。遊びは終わり。実際、私たち終わりかけよね?でも貴方との関係が形を変えて続くっていうのも素敵じゃない?私には兄弟がいないから余計、一生もののお付き合いに憧れるの。勿論未来の旦那様に貴方のこと話したりしない、貴方も可愛い弟さんにそんなこと言うはずない。だからこれはふたりだけの秘密。ね、どうかしら。兄妹になったら私たち、また仲良くやれ」
残念ながら彼女は、捲簾が、心から自分との日々を懐かしんで愛おしそうに笑った、最初で最後の顔を見逃した。
…顔と体は良かったな。
手の甲に、彼女の肺の中の空気と一緒に噴き出した唾液が飛んだ。
でも中身は一緒。
ハンカチで手を拭い、足下から拾い上げた煙草を握りつぶして風に撒き散らしながら土手を上がった。完全に遅刻だ。この忙しいのに余計な仕事が増えた。
金蝉は何故か自分の素行が悪ければ悪いほどご満悦だが、やるなと言ったことをやるより、やれと言ったことをやらない時のほうが遙かに恐ろしい。夕方までには言われたとおり、きちんと柳井の地主を脅してまわらないと。武器も無しに。
「金蝉様、弟様からお電話です。そちらでお取りください」
上院議場が開く5分前、前伯爵の秘書だった男が顔を出した。天蓬は傍のソファーで仮眠中だ。会議が始まってしまえば出番がない。
「…使えねえな」
「はい?ああ、天蓬様ですか」
「おまえだボケ。何番目だ」
「これは失礼しました。2番目の弟様です。お名前は失念しました」
金蝉は一瞬、男の鼻柱に受話器をめり込ませる想像をした。失念する訳ねえだろうが。おまえの頭はスポンジか。
秘書職を天蓬に譲ったことが不満なのは分かるが、自分の無能を棚に上げて天蓬にこつこつ嫌がらせするような子供じみた太鼓持ちを秘書に据えてやってたオヤジもオヤジだ。
オヤジの遺言は全部通した。庶子も全員引き取った。そろそろオヤジの遺物を綺麗に片付けてもいい頃だ。伯爵家はもう俺のものだ。
正確には「庶子を全員成人させること」が遺言だった。悟空はともかく双子と悟浄はあと数年。捲簾に至ってはいつどうしようが自分の勝手だ。いつでも首を捻ってしまえる。だが金蝉はいつも、捲簾に真正面から見据えられると何となく目を逸らせてしまった。捲簾が今のところ致命的な反逆も起こさず、自分の命令には最低限従っているにも関わらず、不意に刺されるか、もうとっくに刺されている錯覚に陥った。
あの日、自分があんな悪戯さえしなければ。
受話器を取り上げると、金蝉は椅子をくるりと回して天蓬に背を向けた。
「…何だ。3分30秒で済ませろ」
天蓬はうっすらと片眼を開けた。相手によって声音がころころ変わってることに素直な長兄は気付いてるんだろうか。
通話は30秒で終わった。金蝉はほとんど喋らないまま、受話器を置いた。
「…何です?」
声をかけた途端に金蝉は椅子ごとステップする勢いでこちらを向いた。
「やぁ天蓬」
「…何がやぁです」
「夜の会食な。やっぱりおまえ出てくれ」
「なんですって!?」
跳ね起きた拍子に抱いていたクッションと枕がまとめて床に落ちた。
「頼む。三蔵連れてっていいから」
金蝉は半分白紙の書類の束を抱えて、もう部屋を出かかっている。
「あんな無愛想なの連れてったって胸に花つけてくぐらいの効果しかありませんよ、僕が昨日から何回念押ししたと思って」
「埋め合わせするから」
「ああそうですか。それでは見合いの話はなかったことに」
金蝉は捕まれた腕をそのままに、くるりと天蓬に向き直った。
「いいだろう」
…いいわけないだろう?
金蝉が出て行った後、天蓬はしんと黙った電話機を無感動に眺めた。その後、舌打ちひとつしてコードを足で引っこ抜いた。
誰かが、何かした。
がその向こうにいる男のことは、天蓬には見えない。
その頃三蔵は、自分でも意外なことにご機嫌だった。
末弟は勘がいい。言葉は知らないし数字を弄らせると散々だったが、ひとつ法則を覚えるとすぐさま応用してみせる。人に何かを教えるという経験がまるでなかった三蔵には、吸い取り紙が水を吸うような悟空の反応の良さは、煙草を吸うのも長々と忘れるほどの快感だった。何故金蝉が自分を指名したのかにも、ようやく気がついた。指名“してくれた”のだ。
悟空は悟空で三蔵の顔を潰すまいと必死だったので、ノックの音にふたりとも気付かず、茶を運んできた侍従は手の甲ではなく拳で扉を殴り出してからようやく入室許可を得た。
「…少しは休憩を挟みませんと目も疲れますでしょう」
荒い息を吐きながら茶を並べる侍従が金蝉の専属だったので、三蔵は改めて長兄の抜かりの無さに舌を巻いた。監視役か。
「…飛ばしすぎたか?」
「ううん、平気。面白い」
「そうか」
三蔵は自分のぶんの茶菓子も悟空に押しやった。
「俺もひさしぶりに楽しい」
言った途端三蔵が窓の外に視線を飛ばしてしまったので、悟空は相手がこちらを見ていないのを承知で頭を下げ、遠慮無く菓子皿を引き寄せた。
冬枯れの窓の外には鳥もいない。風もない。広大な敷地に囲まれて町の喧噪も響かない。兄弟のほとんどが留守にしていても邸内には人が大勢いるはずなのに、昼も夜もこの家は静かだ。
「なんでこんなに静かなんだろ」
「また妙なことを言うな、おまえは。使用人は用がない時には気配を消すもんだろ。…消すもんなんだ」
「消せるの?かっこいい!どうやるの、どうやって消すの!」
「俺が知るか」
次の瞬間三蔵は「あ、分かった」と手を打った。
「何?気配を消す方法?」
「俺がおまえにべらべら余計なこと喋っちまう理由だ。やっと分かった。おまえが聞くからだ」
「…当たり前だよ」
「当たり前じゃねえよ」
「知りたかったら聞くのは当たり前だよ」
「だから知りたがらねえんだよ誰も。おまえはどう思うだのどう考えるだの誰にも聞かれこたねえ。ここの奴らは皆知りたがられるのに慣れてねえんだよ。礼節を重んじるというやつだ」
「…はあ」
「それが突然不躾にも色々と聞かれたもんだから、吃驚して色々喋っちまうんだな。やっと分かった。あ〜すっきりした」
三蔵がすっきりしたのは嬉しいが、こっちは全然すっきりしない。
八戒は吃驚したから喋ってくれたのか?悟浄の口が重いのは吃驚してないからか?
「皆、誰かに聞いて欲しいんだよ。俺でなくても、きっと喋るよ」
「そうかもな」
三蔵は素直に認めた。
「ま、俺はたいしたこと考えてねえから構わねえが、つつく時には相手をよく見ろ。知らないほうがいいこともある」
「…あるかな」
「ある」
三蔵は自信満々に言い切ったが、そのセリフには、下手に岩をつついたら出てきてしまった虫を退治するのは面倒だろうと言うぐらいの重みしかなかった。
「…でも兄弟のことは俺のことだよ。知ってて当たり前だ」
「おまえがどう思おうと勝手だが、俺は兄弟だからこそ余計知りたくねえんだよ。金蝉やら天蓬やらが、何やら俺には理解不能な得体のしれねえ事考えてたら…考えてるに決まってるが、胸クソ悪ぃだろうが。詮索しねえほうが平和だ。近い相手なら尚更だ。俺はな、相手が自分より強い時限定で平和主義者だ」
「負ける勝負はしないってこと?」
「そうとも言うな」
「なんで負けるって分かるの」
「分かる」
三蔵はまた言い切ったが、悟空にまっすぐ見つめられて、また視線を逸らせた。
「金蝉は伯爵様だから話がしにくいのは分かるけど、天蓬は普通だよ。優しかったし」
「優しかったか?」
「分かんないけど。そう見えた」
少なくとも、抱いて運んでくれた。使用人に任せれば済むものを。
しばらく鉛筆を掌でころころ転がしていた三蔵は、突然意を決したようにそれを放り出した。
「…子供の頃から妙な奴でな」
「天蓬が?」
「部屋の隅とか廊下の端とか、誰もいねえとこ見てんだよ。じーっと」
悟空は小さく緊張した。
「見てるだけじゃなくて喋ってんだ。ひとりで。金蝉やオヤジが何してんだって聞いたら、そこに母さんがいるって。勿論とっくに死んでるんだが。で、まだ傷心中のオヤジが激怒して、二度とくだらない冗談言うなって怒鳴ったもんだから、それっきり言わなくなった」
「……」
「まぁ幽霊云々はおいといて」
「え、おいとくの?」
自分に見えないんだから実際はいてもいなくても同じ、という考え方は実に三蔵らしかった。
「昔から素直だった俺は単純に、天蓬って凄ぇなと思った。俺に見えないものが見えてるんだから、それは一種の能力だと思った。こいつは俺より優れてるんだと。実際問題頭は切れるし何やらせてもこなすしな。早々に、ありとあらゆる面で俺は足下にも及ばない、兄貴には絶対適わないと子供心に悟りました」
「はぁ」
それは確かに能力かもしれないが、何も優れた能力じゃない。凡人の自分にも見えたんだから。
「それだけならただの霊感だ。オカルト系の文献にも、ああいうのは生まれながらの体質だってなことが書いてあるし、俺には到底信じられねえが見える奴ってのは案外多いらしいな。だから俺も、ただの体質に卑屈になったりしねえ。天蓬は違う。なんていうか…あいつは」
三蔵はそこで息を継いだ。
「天蓬は、見えないものを見るだけじゃなく、見えるものを見ないってことができる。こんなもんに霊感なんぞ関係ねえ。意志だ。人は自分の意志で五感を操れる。さっきのノックの音が俺らに聞こえなかったみたいに、見る物や聞く音を選べるんだ。あいつはもの凄い意志の力で、それをしてる。何年もだ。俺だって庶子連が勘にさわることがある。無視しようと思うこともある。だが視界に入ったら消せない。声も聞いちまう。嫌いだからこそ余計気になる。だが天蓬には完全に消せる。俺はそれが怖い。そこまでできる意志がだ。そんな奴に突っ込んだ話ができるほど、俺は命知らずじゃねえんだ」
見えるものを見ない。
「ああ、なんだ。気付かなかったか」
三蔵は戸を開けるために立ち上がった。今度のノックの音は、悟空には聞こえなかった。
「天蓬には、捲簾が見えてねえんだ」
|