私生活
act1
午後11時30分。週刊誌を抱える第4編集部は24時間年中無休の不夜城だ。
「…最悪ですね」
八戒は、編集者の必須アイテム・赤ボールペンでコツコツと机を叩いた。もう32時間寝ていない。いい加減視界が狭まってきたが1度妥協すればそのままずるずる仕事の質が墜ちていくのを、八戒はよく知っている。
「現場の方々、少し気がぬけてるんじゃないですか? 出力見本と全然肌色違うじゃないですか。去年も同じようなことやりませんでした?」
八戒の非難の的は印刷所の営業部長・三蔵だ。
「こんなもの僕の名義で書店に出したら編集者生命終わりです。直してください。大至急」
整った顔立ちで淡々と言い募る八戒の態度は人を萎縮させるに充分だったが、相手もただものではない。
「絶対無理だ」
「絶対無理、ね。プロのセリフですかそれが。今までだって無理無理言いながらやってくれたじゃないですか」
「今回に限ってはもう何が何でも無理だ。発売日延ばすんだな」
売り上げのためなら笑いながら人でも殺すと言われる名物鬼編集長と、彼の機嫌を損ねたらどんな雑誌もたちまち潰れる伝説の凄腕営業マンの対決に、フロア中が息を潜めて成り行きを見守っている。
「どうしても無理ですか」
「無理だな。そもそも入稿自体が死ぬほど遅くて、色校出るような進行じゃなかったのを現場をなだめすかして、こうして俺が自ら運んできたんだ。そもそも、データ自体が荒くて見れたもんじゃなかったぞ。彩度いじりまくってここまでもってきたんだ。これ以上は知らん」
入稿が遅かった、その張本人である部下を八戒は責めなかった。責める前にやることがある。
しばらく考え込んでいた八戒は、ひとつため息をついて立ち上がった。
「分かりました。もうあなたには頼みません」
プライドを傷つけられて、三蔵は眉をしかめた。
「…じゃあ、これで進めていいんだな?」
「いいわけないでしょう」
八戒は「峰倉出版創立25年記念」の文字が眩しい金の置き時計を右手で持ち上げ、
左手でゆっくりと…
眼鏡をはずした。
「……編集長が眼鏡をはずした!」
本格的に戦闘態勢に入る前触れだ。誰かを酷く叱りつける時や、徹夜作業に突入する前、要するに機嫌が悪くなると彼は一旦眼鏡をはずす癖がある。
金時計が三蔵の頭上に振り下ろされるのか、まったく罪のない部下たちに腹いせに投げつけられるのか。とりあえず時間を確かめるためでないことは確実だ。
「俺帰る!」
「あ、私も後は自宅作業でっ」
「お先です!」
殺される前にと泡を食ってフロアを飛び出す無責任な部下たちの頭上を、噂の時計はうなりをあげて飛んでいき「仮眠室」の扉に大音響とともにぶちあたった。
「…………うっ……るせえなーもー……」
少し歪んだ扉が、ゆっくり開く。
舞い上がった炎のような髪と凶悪な人相の持ち主は、明らかに寝起きだ。よれよれのTシャツに埃まみれのGパン、ゴム草履という出で立ちの悟浄は、周囲の視線をもろともせず八戒めがけて最短距離で進んできた。行く手をうっかり遮ってしまった資料や段ボールは容赦なく破壊される。
「おはようございます、悟浄」
「…こんのくされ編集長が!」
天下の八戒に暴言を吐けるのは社内では悟浄と社長くらいだ。大学時代の同級生。一時期一緒に住んでいたこともある。色々あって結局喧嘩別れしたのだが、くされ縁というかなんというか、一方はフリーのデザイナー、一方は編集者として再会し、八戒のたっての希望で社の専属デザイナーになったのが2年前。
根が自由人の悟浄だ。入社して二日後には、タイムカードだ給与査定だ社会保険だと面倒なサラリーマン生活、加えて人を人とも思わぬ八戒の人使いの荒さに嫌気がさした。隙あらば逃げようと思っていたのが、隙のない八戒の「貴方じゃないと駄目なんです」攻撃にズルズルと籍を置き続けてしまい、今に至っているわけだが。
あんな別れ方をした自分を平気でそばに置く八戒の真意が、悟浄にはよく分からない。
「よく眠れました?」
「……こっちはようやっと一段落ついて二日ぶりの仮眠だっつーのに何様だ、ええ!? 労組に訴えるぞこの鬼悪魔……あ?」
言ってる途中で、八戒が眼鏡をかけていないことに気がついた。
「…何かあったのか?」
「貴方は話が早くて助かりますね。どう思います?この色」
「んー?」
悟浄の目がたちまち職人のそれになる。
「…あー…これ、あれだ。単にM版強いだけじゃねえ? あと特色、微妙に違うな。ぱっとみわかんねえだろうけどルーペで見てみ。そんでハレーション起こして変に見えるだけ。たいしたミスじゃねーじゃん、再校とれよ」
「それが、できないんですって。それが最終なんですって。明日朝イチで刷っちゃわないと間に合わないんですって。なのに現場はもう閉めちゃって今夜は動かないんですって」
何故か楽しそうな八戒の口調に、早くも後ずさりする悟浄。
「………俺はやだぞ、八戒」
「本当に貴方は話が早くて助かりますねえ…長いつきあいですもんね」
確かに長い。…長すぎた。
「やだ、絶対嫌だ、俺は今夜こそ終電で帰って風呂はいって寝る!」
「悟浄、どうせもう銭湯閉まってますよ。…ね、もう一晩くらい僕に付き合いましょ?」
「卑怯だぞ八戒!そのウルウルした目はやめろ!」
「悟浄」
壁際まで獲物を追いつめると、八戒は額がくっつくほど顔を寄せ、悟浄の目を覗きこんだ。寝不足の頭と疲れ切った体に八戒のこの甘ったるい攻撃はきつすぎる。いろんな意味で。
「悟浄…助けてくださいよ。もう貴方しかいないんです」
「男にそんな迫られ方しても嬉しくない!」
「僕を見捨てるんですか…また」
悟浄は思わず天井を見上げた。まだ恨んでるのか。
「…そう言えば俺がなんでもするとでも思ってんのか」
「思ってます。だって貴方、僕のこと好きでしょ?」
「…取り込み中悪いんだが」
三蔵がさも嫌そうに口を挟んだ。このまま二人のじゃれ合いに付き合っていたら終電を逃してしまう。
「結局どうするんだ? このまま書店にコレを並べるのか、その頭わるそーな兄ちゃんが何とかするのか」
「んだとコラ!!」
「聞くまでもないでしょ、三蔵。データおいてってください。うちの優秀なデザイナーがおたくの無能な部下をフォローしますから。…できますよね、悟浄?」
三蔵の疑り深そうな視線にあって、悟浄に火がついた。
「ああ、やってやらあ!!」
「じゃ、決まり」
八戒は、ようやく眼鏡をかけ直した。
午前3時。
「悟浄、コーヒー」
「……サンキュ」
「手は止めないでくださいね」
「呑めねえだろ!!」
「じゃ、1分だけ」
八戒はいたずらっぽく笑って、悟浄の傍らにカップを置いた。小さくあくびをかみ殺した八戒の横顔を盗み見て、悟浄は慌てて目をそらした。
綺麗な男。昔より痩せて、凄みがました。
「…おめえ、寝れば? 俺に付き合うことねえよ」
「貴方、昔もよくそう言いましたよね。ほら、レポートの時、いつも僕が」
「…昔の話はいいって」
八戒は微かに笑った。
「すいません」
息苦しい。八戒とふたりきりになるのは、できるだけ避けてきたのに。そもそも俺は社の専属であって八戒の専属じゃないのに。今回のトラブルだって、俺にはなんの落ち度もないのに。
「…………できた」
悟浄がすべての作業を終えたのは、空が白み始めた午前5時。
「……いちお、指定全部入れ替えたから、印象は多少変わるけど、色これ、作家には言い訳が立つ程度には、肌にかぶせたから、ロゴ」
「あーいいです、無理に日本語喋ろうとしなくて。分かりましたから」
悟浄の血と汗と涙の産物をバイク便の箱に放り込むと、八戒はパソコンの前の椅子からまだ立ち上がれずにいる悟浄に近づいて、後ろからぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとうございました」
「……いーえ……」
大人しく抱きつかれていた悟浄が心配になるほど、長い間八戒はそのままの姿勢でいた。
副編集長が飼っている水槽の音。
パソコンの起動音。
微かに聞こえてくる鳥の声。
動き出す前の会社ってのは、どうしてこんなに寂しいんだろう。
「……八戒、どした?」
「貴方に助けられてばかりです」
妙に実感がこもった口調に、一瞬どきりとする。
「…いいって。このために給料もらってんだからよ」
「…僕以外の編集長に頼まれてもこんな無茶やりました?」
「…んー、そりゃなあ。仕事だし?」
気のせいか、八戒の腕の力がほんの少し強くなる。
「…なあ八戒。俺、風呂入ってないし、煙草しみついてっし、だから」
だから離せと言いかけた唇が、ほんの一瞬塞がれた。
「………え!? …な…なに!? なに!!」
思わず逃げかかった腕を、やんわりと掴まれる。
「…悟浄」
「はい!?」
「お互い疲れてるんで…深く考えないでください」
「…はい…」
「とにかく何時間か寝てください。今日は休みとってくれていいですから。本当にお疲れさまでした。助かりました」
ふわっと笑う、その極上の笑顔。
他の連中もあーやってうまく操縦してんだろうか。それとも、他に意味があるのか。
「…あのよ、八戒」
「何ですか?」
「さっきの嘘だ」
「さっきのって?」
「何でもね。おやすみ」
ぱたんと閉まった仮眠室のドアを、八戒はしばらく眺めていた。
「……ちゃんと鍵かけないと襲いますよ」
眠ったのか、聞こえなかったのか。
いつまでたっても鍵のかかる気配のないドアの前で、八戒は、また小さくあくびをした。
もう、戻れませんか、悟浄。
一緒に暮らしてたあの頃に。