私生活
act3
なんでしょうね、こういうの。
好きっていうのとは違う気がしますけど。
人んちが嫌いとか言いながら「まあまあ一杯」と八戒が注いだ吟醸を2,3杯ひっかけると、悟浄は早々に畳に寝っ転がった。
「おまえの部屋、何もねえのな」
見事に何もない。家具らしい家具と言えば、ひっくり返し甲斐もない小さなちゃぶ台ひとつ。壁際に本の山。
「狭いですからねー。本棚は買っても買っても足りないし」
「落ち着く」
「はい?」
「畳、ねえから。うち」
まさか畳がないから帰りたくない訳でもないだろうが、聞かないと言った手前、家の事情は聞けない。会話が続かないのを悟浄が気にもしていないようなので、八戒も勝手に手酌でやりながらゴロゴロ転がる悟浄を眺めていた。「友達を下宿に泊め」てみたかったというのも嘘だ。物心ついた時から養護施設にいた八戒は常に他人との共同生活を強いられていたから。
だから、これは朝までの暇つぶし。
「…あ、MOMAのパンフ。俺も持ってる」
悟浄が本の山の中腹からだるま落としのように器用に1冊引き抜いた。
「絵なんか見るんですか、貴方」
悟浄はさも嫌そうに顔をしかめた。
「俺の専攻は芸術学なんだけど」
「あれ、そうでしたっけ。…全然似合いませんね」
「みんな同じこと言うな」
悟浄の口調は特に責めるふうでもなかったが、八戒の方は自分の勝手とは言え主義を曲げて部屋に入れた悟浄に「みんな」で括られるのは面白くなかった。
「自分のこと何も話さないくせに勝手に傷つくの卑怯ですよ」
「傷ついてねーもん」
「そうですか?誰も自分のこと分かってくれないなんつって拗ねてても、言わなきゃなーんにも分かってもらえないですよ」
パタンと勢いよく本を閉じて、悟浄は腹這いのまま八戒を振り返った。
「おまえは自分以外の人間全部バカに見えて仕方ねえんだろーが、4年間たっぷり遊ぶつもりの奴らが集まったこんな狭い場所でそういう偉そうな物言い覚えたら、社会に出て組織に揉まれてあっという間にプライドずたずたになってドロップアウトするに決まってんだよ。多少頭が切れたって、ちょっと抜けてて人好きのする奴が結局人生うまく渡ってくんだから、その時になって泣いてもおせーぞ」
ひと息だ。あまりに筋の通った道理に、八戒は呆気にとられた。
「俺は理論武装する奴も嫌いなら、言葉遊びが得意なだけで人をやりこめて悦にいってるガキも嫌いなら、てめえみたいに綺麗な顔の男も大嫌いなの!」
「キレイ?」
悟浄は一瞬、たじろいだように口を噤み、その後赤くなった。
…面白い。
「…貴方みたいに人付き合いうまくやってるようでストレス溜め込む小心者のガキだって、すぐさまアウトですよ。自分に自信がないから寄ってくる女に誰彼構わず優しくしちゃって、結局みんな傷つけるんですよ。それに比べたら僕みたいにダメなものははなから切り捨てた方が傷が少なくてすむんです」
「よくもまあ俺のこと知りもしねえくせにそーゆーことがズケズケ言えるな!」
「あれ、間違ってました?だいたい好き嫌いで人を決めるとこが子供だっていうんですよ。嫌い嫌い言う人に限って自分が言われるとへこむくせに」
「てめえもちょっとはへこめ!ムカつく!」
…なんでしょうね。不愉快じゃないんだけど、これ、やっぱりケンカですかね。
言えば言うほど、こんな浅い付き合いなのに、なんてこの人は自分のことをよく分かってるんだろうと驚きながらの応酬だったけど。この人もそうだってことが何となく分かるんだけど。もう一歩、近づければ親友にだってなれる気がするんだけど。
もう一歩。
「…5時半ですよ、5時半。一週間かけてする会話の分量、喋りきりました僕。諦めて寝ます」
押入からずるずる布団を引き出す八戒に、これも流石に怒鳴り疲れたらしい悟浄がぼんやり返した。
「…諦める?」
「友達になれるかと思ったんですけどね」
結局この時間まで互いに痛いところを突きまくりながら喚きあってただけだ。嫌いとかムカつくとか言われるばかりで僕もいい加減しょんぼりですよ、と背中を向けたままシーツの皺をぽんぽん直す八戒の後ろで、悟浄が律儀にその言葉について考えている。単純かと思えば、ここまで挑発したのに家のことも女のことも学部のことも何ひとつ漏らさない。どうやら悟浄の言うとおり、自分は余程甘えがたく高慢に見えるのだ。頭では分かっていても、早々人は変わらない。
「枕、なくても寝れますか?」
「……え?」
「…え、じゃなくて枕。一個しかないんで」
悟浄が無言で髪を解くのを見てほっとした。寝ずに帰ると言い出したら、もう引き留められない。
「あ!」
「…んだよ、うるせえ」
「目覚ましの電池がほんとに切れてる」
ごそごそ布団に潜り込むと、悟浄は吐息のような溜息をついた。
「いい。もう今日ガッコ休む。おまえも休め」
「…ふたりで休んでどうするんです」
「知るか。大学生っぽいじゃねえか」
悟浄はしっかり枕を抱えて目を瞑ってしまった。…もしかして、これはいわゆる悟浄なりの「友達」扱いなんだろうか。ほんの数センチ先でさっさと寝息をたて出した悟浄の寝顔を、八戒はしばらく上から眺めていた。ひとのうちに泊まったことがないということは、いつもとっかえひっかえ連れて歩いてる女の誰一人、彼の寝顔を見たことがないということか。
勿体ない。可愛いのに。
可愛い?
「悟浄!」
自分の考えにぎょっとして、八戒は思わず悟浄を叩き起こした。
「……何なんだよ!」
「僕、枕ないと寝れないんでした」
「……も……ほんとにおまえ…」
半分目を閉じたまま、悟浄はずるずる体を動かして、枕の片側半分をあけた。
「…あの…悟浄?」
もう返事がない。…これをどうしろと。寝惚けて女と勘違いしてるんだろうか。
八戒は、そろそろと悟浄の隣に頭を下ろしてみた。ぎりぎり体はくっつかないが、高い体温とハイライトの匂いと子供のように素直な寝息が、微かに香るアクアマリン(多分)が、ダイレクトに伝わってくる。おまけにさっき不覚にも可愛いなどと思ってしまった寝顔が、すぐ、そこ。
「…うわ」
寝られない。存在感ありすぎで寝られない。しょうもない嫌がらせするんじゃなかった。慌てて腹這いになって枕がわりに座布団を引き寄せようとした時、悟浄が不意に寝返りをうった。
ドン。
「…ありがとな」
八戒の左肩に、じわりと熱風のような吐息が染みこむ。
「…何がです」
「助かった」
悟浄は枕をぼんと八戒に押しつけ、ぐるりと180度体を反転させて背中をむけた。
「…眠いの装ってでないと御礼も言えないんですか?」
「やな男だな!!!」
「ほら起きてんじゃないですか」
元に戻ってしまった。どうしてこう、ついついからかいたくなるんだろう、この男は。
好きというのとは、違うんだけどな。
「おまえ、絶対バカにすっからなー」
「さあ、聞いてみないと」
結局ひとつの枕に体は90度離れた体勢で落ち着いた。とっくに朝日が差し込む時間だが、学校・バイト・したくもないバスケの練習・居心地の悪い家を往復するしかなかった悟浄にとって、八戒は溺れる者が掴む藁みたいなものだった。バカにされればかえって気が楽だ。何を言っても鼻で笑って聞き流すだろう、こいつなら。
「目に見えないものは、どうも信じらんなくて」
「若者にありがちな主張ですね」
辛辣なわりに口調が柔らかかったのと、聞き慣れたのとで、悟浄は八戒の合いの手は無視した。
「絵でも彫刻でも陶芸でもデザインでも絵付けでも何でもいーから、残ればいいと思ってる。理屈じゃねえじゃん?絵とかの良さって説明できないじゃん。人によって思うことが違うだろ?それを無理矢理系統だてて説明すんのが哲学なんだけどよ」
「…まあ、そうですね」
八戒はビールの空き缶を悟浄の枕元に置いてやった。折角悟浄が語る気になっているのに寝煙草するなとは言いたくない。
「俺さあ、昔ゴッホの絵見て動けなくなってさあ。そこにひとつひとつ筆を置いてった絵描きの根性というか情熱というか狂気というかそういうのが、どわっと伝わってくんのよ。俺が見たのは当然複写なんだけど原画みて、触れる訳ないんだけど触ったらもっと体温とか筆圧とか息づかいとか…分かるんだろうなって。腹立つこともあって、泣きたいこともあって、そういう気持ちがさ…触ればわかるよーな気がして」
悟浄は天井に向かって掌を広げた。
「触りたい」
そこに、それがあるみたいに。
「芸術学じゃなくて実技が良かったんだけど芸大行ったら金かかるし親にやきもきさせんのも悪ぃし。今は舞台美術専攻で立体やってっけど、そういう場が限られた人間の脇役じゃなくて、もっと大勢の奴の日常に入り込むようなもんが残せたらいいと思って。本当は目の見えない奴でも耳が聞こえない奴でもどんな奴にでも平等に残ればいいんだけど思いつかねえな。ちゃんときちんとそこにあって、残って、そいつがずっと誰かに意識され続けるようなもんが作りたい。どうせ俺は会社勤めはできねえから、将来はそういう…」
悟浄は、ふと言葉をきって、すぐそばで頬杖をついて自分を眺めている八戒に目をやった。
「…いいぜ、笑って。どうせガキの寝言だと思ってんだろ。笑え笑え」
「別におかしかないですよ。ありがちな夢でも、ないよりマシです」
いちいちいちいち棘のある奴だ。
「…言うなよ?」
「誰にですか」
「誰にもだよ」
「何で」
真顔で言い募る八戒に、悟浄は急に早口になった。
「恥ずかしいからに決まってんだろーが。俺みたいなキャラは将来の夢なんか語らず快楽に身を委ねて刹那的に生きねえと、てめえみたいなひねくれ者に似合いませんねとか言われちゃうわけよ。人の期待に思わず応えてしまう小心者つったのおまえだろ」
「…貴方の美学はよく分かりませんが、とりあえずひとつだけ確認しときます」
八戒は身を乗り出して悟浄の目を真上から覗き込んだ。
「僕に、初めて、話したんですか?」
穏やかだった。近くで見てもやっぱり綺麗な顔だ。こんな綺麗な顔、女でも見たこと無い。
…触りたい。
「…そーだけど?」
「じゃあいいです。お休みなさい」
宙に泳いだ悟浄の腕が空ぶった。
近づきたい。
どうすればいいのか、手段が分からない。
そこにいて、同じ場所にいて、昼も夜も触れられれば満足できるなら簡単だ。なんとしてもそばに行く。
でも、触れて触れて、それでも足りなかったら?
まだ近づきたかったら?
自分の名前をそこに刻みたくなるだろうか。
例え他人のものでも。
その中に入ってみたくなるだろうか。
大嫌いな言葉の力を使っても。
午後になってから起き出した悟浄は、4年ぶりに手作りの「朝食」を他人と食べた。