私生活
act4
キス。
…も、ロマンチックとはいかない。
八戒は、指定席の窓際から廊下側に席を移した。窓から差し込む5月の日差しと突き抜けるような青空が、今日は目に痛すぎる。
「あ、八戒!昨日の写真できてきたんだけど、見る?笑えるわよ〜」
「…すいません、もう少し小さな声で…」
こめかみを揉みながら唸る八戒に、駆け寄ってきたクラスメイトは眉を顰めた。
「二日酔い?貴方が?」
基本的に八戒はザルだ。酔ったふりして毒舌をまき散らし、そのうえ白々しくも忘れたふりをすることはあっても、いくら流し込もうが顔色は変わらないし記憶が飛んだこともない。そもそも昨日の文化学科合同呑み会が終了したのは終電前。しょせん8割方女性のコンパ、酒はせいぜいビールにワインに甘ったるいカクテル。そのまま帰って大人しく寝れば、こんな醜態さらすような酒量じゃなかったのに。
それをあの人が。呑み足りないとか。この時間に家に帰ったら親爺の晩酌に付き合わされるとか。
だったらおまえと朝までいった方が建設的だ、とか。
「…写真なんか撮ってましたっけ?」
「まったまた、覚えてるくせに。悟浄と八戒の濃厚キスシーン〜。焼き増しあげようか」
「いりませんよ」
また頭が痛くなってきた。
「…あー…でもキレイに撮れてるじゃないですか…」
どうでもいいけど何でまたこんなことになったんでしたっけね。
「彼、みんなにキスしまくってたけどこれが一番絵になるわー。やっぱり八戒がきれいだから」
ああ、そうでした。あの人キス魔なんでした。
「悟浄にも見せようと思って探してるんだけど会ってない?さっきの英書購読にも出てなかったし」
八戒はまだ熱っぽい溜息をついた。
「…自主休講。僕んちで寝てます」
「あ、そうなの?置いてきたの?」
「起きないもんですから」
おそらく何度か悟浄と寝ているであろう彼女は、胸の谷間もあらわに八戒の前に頬杖をついた。
「悟浄のことで、聞きたいことがあるんだけどいいかしら?」
「…いい加減出てってくれないと部屋が酒臭くてたまんないんですけど」
2講で切り上げて家に帰ってみたら、悟浄は朝とまったく同じ姿勢でスヤスヤ寝ていた。真夜中にコンビニで遭遇してから1ヶ月、悟浄が八戒の家に泊まるのは3日か4日に一度のペースで日常になっていたから既に見慣れた光景ではあるのだが、今日は八戒の機嫌も体調もすこぶる悪い。
「枕、返してくださいね」
腕の中から愛用の枕を引き抜かれて、ようやく悟浄はノロノロ起きあがった。
「……おー………すっげえ熟睡した……」
「良かったですね。水?コーヒー?お茶?牛乳?トマトジュース?」
「味噌汁」
「甘えないでくださいよ」
「…水」
八戒が知る限り、寝起きと二日酔いがこんなに似合う男もそういない。言う気もないが。
目を擦りながら一服するうちに、だんだん不思議な色の目の焦点があってくる。
「うあー…頭いて。そんな呑んだっけ俺…おまえよく涼しい顔してんな」
「どこが」
悟浄の前に氷水をドンと置くと、八戒はまだ何となくぼーっとしている悟浄を睨みつけた。
「こんなこと言いたかありませんけどね」
「…説教は勘弁して。また今度」
「家に帰りたくない時はいつでも泊めてさしあげますよ。でもねえ、人の家に入り浸るならそれなりの礼儀ってもんがあるでしょう」
「はいはいはい、ごめんなさい。呑みすぎました」
「いい加減に枕持ってきてください」
悟浄はグラスの中身を啜りながら、目だけこちらに向けた。
「…怒鳴りたい気分なの?」
「おかげさまで。せっかく安らかに寝ようと思ったのに、夕べも貴方が呑もう呑もううるさいから」
「おまえが、今日は寝るから帰れっつったら帰ったよ」
言えるか、そんなこと。
好き放題やってるように見えて、悟浄がここへくるのに異様に気を使っているのは分かってる。「またいつでもどうぞ」初めて悟浄を家から送り出した別れ際、八戒は心の底からそう言った。悟浄の「恥ずかしい告白」の御礼。例え畳のおかげだったとしても嬉しかったから。実際は、もうこんな機会はないだろうと思っていただけに、翌朝、悟浄が登校前にふらっとやってきた時には相当仰天した。
「これ、昨日の朝飯の礼」
どっしり重い紙袋を、八戒は動揺と合わせて文字通りふらつきながら受け取った。
「……なんですか?」
「カニ」
「カニ!?」
「カニ缶。うち、母親がカニとエビアレルギーで。お歳暮でもらったやつがゴロゴロ余ってたから」
悟浄が真顔だったので、八戒も真顔で礼を言った。朝の食卓で養父母と顔を合わせる「似非家族の図」に馴染めないものだから、ここ数年朝食抜きだったんだそうだ。たかだかトーストと目玉焼きの朝食に、ねえ。
…和食にしてあげれば良かったですね。
それからだ。
「八戒、今晩忙しい?」
未だに「もし暇なんだったら行ってやってもいいかなーなんて思ったけど、嫌なら俺もどうしてもって訳じゃないし」といつでも逃げられる体勢満々でお伺いを立ててくる。
「いいですよ。今晩家庭教師のバイトあるんで10時頃までいませんけど。ああ、鍵、渡しときましょうか」
この提案は、どうしたのかと思うくらい凄い勢いで辞退された。着替えの一枚もおいておけばいいのにと思うが、彼は頑なに八戒の部屋に私物を持ち込まない。鍵も受け取らない。悟浄の中では、それはまだ自分にはやってはいけないことらしい。
…のわりに。
「人んちのトイレで吐きましたね」
「ごめんなさい。もうしません」
「甘え上手ってのは貴方みたいな人のこと言うんですよねー…。また指輪変わりましたね。どなたに甘えていただいたんですか?」
「…何でさっきからトゲトゲしいかな」
八戒は自分のぶんのコーヒーをいれると、悟浄に向き直った。
「夕べの呑み会で、僕と貴方のキスシーンが激写されておりました」
「それはそれは」
悟浄は動じないどころか、だからどうしたと言わんばかりに怪訝そうに八戒を見た。
「嫌だったの?」
またこれだ。
「…いつもああやって誰彼構わずキスしまくるんですか?」
「何をぬかすか失礼な。誰彼は構うぜ?フツー嫌いな奴にはしねーし、男にはしねーし、第一キスしていいかってちゃんと聞くしよ」
「…今、何を仰いました?」
「男にはしない」
悟浄が煙を輪っかに吐き出すのを、八戒は何とも言えず複雑な表情で追った。
「…僕は男ではないと」
「フツーはって言ったろ。おまえは何となくしたくなったからしていいかって聞いたら、おまえがどーぞっていうから」
「嫌がったら場が白けるでしょ」
よく言う。悟浄は内心悪態をついた。
八戒は八戒で、隣の席の女が10分おきに交代して何やかんやとアプローチしてくるのを軒並み一刀両断し、それはそれで座を引かせていたのだ。顔が整っているだけに愛嬌で済ませられず泣きかける女の子たちや、座を包みかけた「八戒ってこわい」という認識に慌てふためいた悟浄が八戒の所業に気を揉んでの「ご乱行」だったのに。
聡い八戒がそれに気がつかないのが悟浄には不思議だ。余程自分のフォローがナチュラルだったのか、普段あーゆーことしてそうに見えるのか。
…誰が好きこのんで男にやらかすか。
タン。
わざと音を立ててグラスを置くと、悟浄は髪を掻き上げた。
「おまえ何が言いてえの?そんな大問題?たかだか酒の席の余興だろ。なんか意味なきゃダメなわけ?後で怒るくらいならどーぞとか言うなよ。嫌がるこたしねえっつってんじゃん。もしかして、道義的にとかそういう話してんの?」
八戒が勢いに押されてたじろぐと、合わせたように悟浄が身を乗り出した。
「俺はね。よく女にだらしないとか言われっけど、女騙したこともねえし無理強いしたこともねえよ?男なら気持ちいいこと好きじゃん。セックスもキスも気持ちいいじゃん。俺がやりてえと思って相手も了解してやってんのに、その時は喜んどいて後で酷いとか何とか騒がれんのって、ほんと分かんねえのよ。好きとか愛してるとか言やあ騙したことになるけど、言ってねえもん。挙げ句に常識的にとか道義的にとか言われると頭くんのよ。複数とセックスすんのはおかしいとか、好きな奴としかキスするもんじゃねえとか誰の常識、それ。世界の常識?おまえが言うのってそういうこと?」
八戒は、詰めていた息を大きく吐き出した。
筋は通ってる。悟浄の理屈はいっそ潔いくらい筋が通っている。
これは感情の問題だ。
「…悟浄、例えば貴方が僕を好きになったとしますよね」
「他に例えはねえのか?」
「キスもセックスも垂れ流してたら、僕は何をもって貴方の好きを信じればいいんですか」
悟浄はちょっと首を傾げて黙った。
男友達の間で悟浄の評判は意外といい。だいたい同じようなノリの、付き合いが良くて女好きで見た目の派手な輩が多いが、その中でも自然と兄貴ポジションに落ち着く。一度悟浄のバスケの試合を見に行ったら、こっちが恥ずかしいくらい爽やかで感動的な友情ドラマを展開してくれて目のやり場に困ったくらいだ。悟浄の自己評価はとてつもなく低いので「あいつらは俺の周りの女目当てだ」だの「俺を連れて歩くと目立って得なんだろ」とか色々言うのだが、基本的に彼は面倒見がいいし情にも厚い。それが、こと恋愛に関しては一変してドライになるのは何故だろう。
ひょっとして、恋愛が嫌いなんじゃないだろうか。
…したことがないのか。
「…おまえだけは特別だってことを示せばいい訳だろ」
「まあ、そうです」
「おまえんちにしか泊まりにこねえし、おまえにしか話してないことがいっぱいあるってのは?」
「それ、友情の証にはなっても愛情の証じゃないですよ」
妙な沈黙が流れた。
「…だから普通、相手は女だから…」
「男女の間に友情は成立しない派なんですか?」
悟浄はうーむと口の中で呟いた。悟浄にも色気抜きの女友達がいないこともない。
「…おまえにとっても俺が特別であって欲しいと願うこと。…というのはどうだろう」
「だからそれをどうやって信じるかですよ。見えないモノは信じないっていったの貴方でしょう」
「…おまえのためなら主義主張を曲げてもいい」
「例えば?」
「おまえが嫌なら、金輪際女と寝ない」
「なるほどね。それはアリですね」
流石にしつこく絡む自分が自分で不可解になって、八戒は苦笑しつつ立ちあがった。悟浄には何でもないだろうが、自分にはあの写真は結構な衝撃だったのだ。顔から火がでるかと思った。
…気持ちよさそうにしちゃってまあ。
いや実際キスなんかひさしぶりだったし、気持ちよかったからいいんですけど。巧い人って本当に巧いんですねえ。いやあのキスを気前よく撒き散らしてるんだったらそれはそれで悪行でしょうに。
洗い物をしながらそんなことを考えていて、悟浄の頭の中で大爆発が起こっているのにちっとも気がつかなかった。
「あ、悟浄。写真撮ってくれた宮さんに貴方のこと聞かれましたよ。毎週土曜の夜に必ず…」
「もしかして俺、おまえのことすげえ好き!?」
洗剤で滑ったコーヒーカップが流しの上でけたたましい音を立てた。
「…さっきの例え話ですか?」
「いや、俺、おまえが嫌だっつったら絶対女と寝るのやめるね。やめれる」
悟浄に背中を向けたまま、八戒はゆっくりカップを拾い上げた。頬が勝手に緩んでく。
「…別にそんなことやめなくていいですけど、何でも言うこと聞いてくださるんなら、そろそろ顔洗って学校行ってください。掃除したいんで」
「…はい」
悟浄が大人しく洗面所に消えるのを、八戒は必死で笑いをこらえて見送った。どうしよう。嬉しい。
ついでに、またキスしてください、気が向いたら。