私生活

act5


「抱き癖つけるとダメなんじゃなかったっけ?子供とか猫とか」
 唇を離した途端はぁっと息を吐き出した八戒は、悟浄の言葉に微かに眉を顰めた。
「それは成長途中だから。抱かれるのが当たり前だと思い込んじゃうからでしょう?」
「そうかね」
「僕は思いませんから」
「そうかねえ」

 キス癖。

「どうもありがとうございました。じゃあ行ってらっしゃい」
 玄関がバタンと閉まった途端、痛いほど冴えた空気が責めるように肺に刺さる。
「…ヤバイんじゃねえの」
 悟浄にだって自覚はある。受け入れる受け入れないはおいといて、世間の常識も知識としてはある。どう考えてもこれは変だ。友達の家に入り浸るのはまあいいとして「行ってらっしゃい」が普通になるのはどうだろう。それもまあいいとして、キスが普通になるのはどうだろう。…男と。
 それがヤバイ事態だと分かっているから、毎度毎度八戒は言うのだ。ありがとうございました、と。普通に、自然に、どちらからともなくする恋人同士がするようなキスじゃないことを確認するために。
 酔ったはずみで。冗談で。暇つぶしに。眠れなくて。ついでに。どんどん回数が増えていくうち言い訳のネタも切れた。今のはさしずめ「朝だから」…。
 たかだか触れただけのキスに、しかも苦し紛れのキスにあいつがとち狂って「巧いですね」なんて言うから。じゃあ本気出そうかなんて俺が言うから。
 アホか俺は。
 悟浄はさっきのキスの余韻を振り払うように地面を蹴った。最近はあいつとふたりでいると、お互い何かしら構えてることがあって、お互い何か言いたいことがあって、そのタイミングをはかっているような。それが息苦しくてつい、キスを。
 …今日は土曜日。
「宮さんが、悟浄が土曜日の夜にどこにいるのか知らないかって聞いてきましたよ。そういや僕んちに土曜に来たことないですし、ご自宅にもバイト先にもいないそうじゃないですか。本命の彼女が訳ありで、土曜日にしか会えないんじゃないかって。そうなんですか?」
「言わせとけ」
 悟浄が返すと八戒は別に気にしたふうもなく頷いて、それ以上追及もしてこなかった。当たり前だ。何故俺の土曜日の居場所を八戒が気にする。俺とあいつは気が合う前に空気が合う気楽な友達で…いや、気楽でもないな、今は。
 もう八戒んちに行くの止めよう。
 ほとんど毎日会ってれば、会わないと落ち着かなくなる。相手が八戒でなくてもそうなる。なるはずだ。
「…八戒断ち」
 呟いてみて、その響きの滑稽さに笑いたくなった。
 本当に、どうかしてる。


「最近、ちゃんと帰ってるんだな」
 深夜バイトを終えて玄関で足をぶんぶん振ってブーツを落とそうとしていた悟浄に、養父が、驚きを隠しもせず声をかけてきた。
「んーまあね。たまにはね」
「ちょうど良かった。話があるから一杯どうだ」
「…いーよ」
 呑み友達としては彼のことは嫌いじゃない。人としても嫌いじゃない。「父親と息子」という図式に気恥ずかしさが先にたって、素直に話せないだけだ。居間のソファーに向かい合って座ると、養父は惜しげもなく高いブランデーの封を切った。
「母さんとも話したんだけどな…おい、おまえハイライトなんか吸ってたのか?」
 未成年の悟浄にコポコポ注ぎながら、養父は傍らの煙草に目をやった。
「そーだけど?」
「俺も最初はそれだったなぁ」
「話って何」
 俺も昔はこうだった、なんて父親みたいな話題は止めてくれ。
「おまえ、家を出るか?」
 悟浄は思わず含みかけた琥珀の液体を噴きかけた。
「え…え!?」
「一人暮らししたいんじゃないのか?いや、おまえがこのうちをどうこうじゃなくて、大学生になりゃ憧れるもんだろ。俺も昔はそうだった」
「オヤジの昔はどうでもいいけど何でいきなり!ずっと嫌がってたじゃねえか」
「まあ大事な息子を預かった責任があるから、社会に出るまでは手元に置いとこうと決めてたんだけどな…」
 養父は珍しく、悟浄の顔を正面から見詰めた。
「おまえが土曜日にどこに行ってるか、俺たちが気がつかないとでも思ったか?」
 責める口調ではなかったが、悟浄は思わず俯いた。
「普段どこに泊まろうが何をしようが、人様に迷惑かけずにきちんと学校に通ってくれていれば構わない。おまえの自由だ。だけどな、おまえは親が息子にしてやるべきことを自分で勝手に決めて勝手にやってる。…そうだな?」
「………それは」
「俺たちに迷惑かけたくなかった、なんてセリフは聞きたくないぞ。子供は親に迷惑をかけるためにいるようなもんだ。おまえは迷惑すらかけちゃくれないんだな」
「…………」
「これは俺たちからのお願いだ。おまえのために何かしてやりたい。家を出たいなら言いなさい」
「…充分してもらってるって。大学だって行かせてもらって」
「違うだろ。本当は他にしたいことがあるんだろ。信じなくてもいいが、俺もあいつも…母さんも、おまえのことが好きなんだ。お互い気をつかいあって辛くなるこたない」
悟浄はグラスをそっとテーブルに戻した。
「…考えさせて」
 

 凄えな。俺、八戒んちの電話番号知らねえわ。
 悟浄は自分の部屋にひいた、使いようのない電話機を眺めた。
 …つか、あいつの家、電話あったか?覚えがねえけど、まさか呼び出しか?今時。
 まあ、風呂もない家に電話がないくらいで驚くことはないのだが、今すぐ話したいときに話せないという状況を目の当たりにすると、結構な衝撃だ。
 今の大混乱を話せる相手を、八戒しか思いつかない。今日で4日、顔も見てない。
 一人暮らしは勿論したい。しかも養父は不動産会社の経営者だ。きっと学校に近くて急行停車駅で徒歩5分圏内の素晴らしい物件を手に入れてくるに違いない。しかしだ、すると俺は八戒の家にいく理由は何も無くなるわけで。
「ヤバい感じだな〜…」
 会いたい。もうどうしても会いたくなってきた。
 枕元の時計は午前2時半を指している。バイク飛ばして到着が3時。何をどう言い訳しても怒られるに決まってる。朝、自分がいないとなったら、また両親を悲しませる。
 途端に電話が鳴り出した。悟浄はそれが電話であることすら忘れて何も考えずに受話器を取った。
「うるせえな、何時だと思ってんだ!!」
「あ、すいません…」
 悟浄は思わず口を開けたまま停止した。
「夜分に申し訳在りません。…悟浄?僕です」
「………ああ?え?…おまえ、どっからかけてる?」
「うちの近所の公衆電話ですけど?コンビニの前の」
「…ああ、そう…」
「別にこれといって用事はないんですけど、いきなりご無沙汰だから何かあったんじゃないかと思って。…起こしました?」
「…いや…大丈夫」
「それならいいんです。いきなりごめんなさい」
 あやまってばかりの八戒の声は、まったく普段どおりだった。動揺しているのは俺だけだ。
「…おまえ、なんで俺んちの番号知ってんの?教えたっけ?」
 教えたはずはない。教えたんだったら、当然俺も八戒に聞いたはずだ。
「…学生名簿があるでしょう」
「あれは自宅の番号だろ。これは俺の部屋の直通だ」
 少し間があって、八戒は、またすみませんとあやまった。
「宮さんにお聞きしました。今日、貴方の土曜日の行方について話したんで」
「会いたいんだけど」
 考えるより前に口をついた。
「えーと…今からですか?」
「泊まれねえけど、10分だけ。会える?」
「そりゃ…でも今何時」
「行く」
 八戒が返事する前に受話器を投げた。
 もういい。考えるのは止めだ。
 上着に右腕を通しながら、左腕でバイクを引き出す。
 俺は何を悩んでたんだ。何がヤバイんだ。オヤジの言うとおり、気遣いあって辛い思いすることはない。おれは両親が好きだ。両親は俺を好きだと言ってくれてる。それが分かってれば充分じゃねえか。
 あとは。

 あとは。

「悟浄!」
 バイクを停めるか停めないかのうちにアパートの2階の扉が開いて、八戒が外階段を慌てて駆け下りてきた。
「やっぱり何かあったんですか?。変でしたよさっきの電話」
 息を整えるのに必死な悟浄の耳に、八戒のセリフはほとんど入っていなかった。
「…八戒」
「はい」
「…なんか、もう、俺、アレだわ」
「アレってどれですか」
 訝しげな八戒の真っ当な切り返しに苛々して、メットが転がり落ちるのも構わず悟浄は八戒を力まかせに引き寄せた。
「もう…アレ…何て言うか…簡単にしよ、もう」
「訳分かんないですよ!」
 痛いほど抱き締められて、知らず知らず八戒の声が上擦った。抱き締めるでは飽きたらず、髪の中に指が滑り込んでくる。
「悟浄、ちょっと…ここ、外…」
「ごめん」
 八戒の抵抗が止んだ。息も。
「無茶苦茶好きになっちゃった、おまえのこと」


 なんて可愛い恋だっただろう。
 あの時の俺は、何でも言うことを聞いてやれば、あいつが満足だと思ってた。
 あいつのことだけ考えていれば、あいつが喜ぶと思ってた。
 
 おまけに終わらないとさえ思ってた。



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