私生活
act6
「…聞かなかったことにします」
落ち着き払った八戒の声。
悟浄の手をゆっくり肩から外して、八戒は一歩下がった。こういう状況で一歩でも下がられれば、百歩逃げられたも同じコトだ。間抜けにも八戒の形の空間を抱いたかっこうで固まった。少し離れた国道から飛んでくる色とりどりのライトが、八戒の上を走っていき、悟浄の眩暈に拍車をかける。
「ちょっと頭冷やした方がいいんじゃないですか?何かあったんでしょう?混乱するようなことが」
「…混乱なんか…今の今までしてなかった」
「してますよ。貴方、僕にどうして欲しいんです。恋人にでもなりたいんですか?男同士で?友達に紹介できるわけでもなきゃ結婚できるわけでもないのに?友達じゃだめなんですか?恋人だとできて友達だとできないことが何かあります?キスだってセックスだって、貴方なら友達のままできるでしょう。その気になれば友達のまま一生だって一緒にいられるでしょう。他に何がしたいんですか」
一息だった。完全に立ち往生した悟浄は、八戒の異様に平坦な早口に疑問を差し挟む余裕すらなかった。
悟浄が冷静だったら、その流れるような返答がかえって怪しいと気づいたかもしれない。「貴方なら」にカチンときて危うく八戒を殴り倒しそうになる自分を必死で抑えていなければ、八戒が何度も何度も自問自答して自分で自分を諫めるのに使っていたセリフだと気がついたかもしれない。
「…そういう言い方があるかよ」
「…言い方が悪かったんなら、あやまります」
八戒はちょっと言葉を切った。
「…ひさしぶりに会えて嬉しいです。凄く」
悟浄は、ふっと肩から力を抜いた。
「…やっぱ泊まってく」
この4日間、授業にも出てこず顔も見せずに人をハラハラさせておいて。
八戒はことさらにゆっくりコーヒーを煎れた。アルコールを出そうとしたら悟浄が止めたのだ。きちんと話したいからと。
できることなら一服盛ってでもつぶしてしまいたいくらいなのに。
「いつもよりおーそーいー」
「すいませんね。ミルの調子が悪くって」
きちんと話したくなんかないという意思表示だったつもりが、悟浄はインスタントじゃねえかとも突っ込まない。八戒は諦めて悟浄の前にカップを運び、正面に座った。
「…どうぞ」
「どうぞじゃねえ。言ったとおりだ」
「僕も言ったとおりです。何かあったんでしょう」
悟浄は火もついていない煙草を舌の先でぐるぐる弄んでいる。
「…オヤジが、家を出てもいいってよ」
「良かったじゃないですか」
「おまえんちに来る必要がなくなる」
八戒は軽く首を傾げた。先制攻撃で黙らせるに限る。
「必要だからうちに来てたんですか?」
「…と思ってた」
「僕は思ってませんでしたけど。僕と一緒にいるのが好きだから来てくれてるんだと思ってましたけど。だから頼めばキスしてくれるんだと思ってましたけど。違います?」
「…違わない」
頼めばというセリフを否定したかったに違いない。
「じゃあ今まで通り、一人暮らししてからも来たい時にはいつでも来てくれればいいですよ。僕も遊びに…」
「誤魔化すな、頼むから」
いきなり机の下で手を掴まれた。
「知ってんだろ。そういう好きじゃねえんだって分かってんだろ」
凄いな。
八戒は状況を忘れてぼんやり考えた。悟浄の目は普段から赤味がかっていて、その時のテンションがすぐ目の色に出るのだが、今夜は会ったときから物凄い赤だ。
「…だから友達とどう違うんですかって聞いてるじゃないですか。僕にどうして欲しいんです」
掴まれた手の平に汗がじっとり滲んでくる。
「僕も貴方が好きですよ。多分、今、貴方のことが一番好きだと思います。それじゃダメですか」
友達とじゃできなくて、恋人とならできること。
どうせ、悟浄にそんなことを思いつけるはずがない。
「…僕と寝たいんですか」
悟浄がフィルターを噛みしめた。
「いいですよ。やりますか?」
「…そんなことじゃなくて」
あっさりそうだと言えばいいのに。さっさと諦めてくれればいいのに。
自分で傷つけておきながら、何だか泣きたくなった。
信じていない訳じゃない。彼は本気で、自分に「恋」してくれたんだと思う。
…今は。今だけだ。こんな火のついたような目を、いつまでもしていられる訳がない。
悟浄は知らないのだ。まともに恋愛の熱にうかされた経験もなければ、終わらない恋愛がないことも知らない。熱が高ければ高いほど急激に冷めることも知らなければ、八戒のどうしようもなく頑ななプライドにも、半端でない独占欲にも気がついていない。
悟浄が付き合ってきた数多くの女たちと同じポジションに立つのも、悟浄に溺れて女に嫉妬するのも、八戒のプライドが許さない。それよりは、得難い親友のままでいたほうが、どれだけ貴重か。もしキス以上のことをするとして、一番の親友のままそれができたら、それこそ誰にも真似ができない。
「…友達には」
悟浄はようやく口を開いた。
「拘束する権利はねえな」
外からみて分かるんじゃないかと思うほど、悟浄の押し殺した低い声にも言ってる内容そのものにも心臓が跳ねた。なんて声を出すんだろう、この人は。声で人を犯せるんじゃないか。
拘束なんかとっくにされてる。
「…僕に女を作るなっていうなら、作りませんよ。貴方の嫌なことしたくないですから」
悟浄が何かいいかけるのを、八戒は遮った。
「僕は貴方が好きなことしてポリシーに反することはできるだけしないで、誰にも邪魔されないで生きててくれればいいんです。それが見たいんです。貴方に今までやってきたことを止めて欲しいとも思わないし僕でできることがあるなら何でもしたいと思ってます。ほんとに好きですよ貴方のこと。貴方が思ってるよりずっと好きですよ」
「…なあ」
「でも恋愛とか、やめましょうよ。貴方と僕でそんな面倒くさいことする必要ないじゃないですか。下手に期待だの義務だの絡みだすのは貴方とは嫌です。ただでさえ…」
…男同士なのに。
悟浄がポロッと煙草を灰皿の上に落として立ちあがった。
「分かった」
「…悟浄?」
「口でああだこうだ言い合ってても仕方ねえってことが分かった」
綺麗だ綺麗だと思っていたが、綺麗とかそんなものじゃない、悟浄のは。何というか…凄まじい。
「本気出すからな」
「…何の」
視界が真っ赤になった。
…ああ。キスか。
もう何度目かも分からない。唇で唇を撫でるだけのもどかしさ、それが何度も何度も往復するうちに触れたところが熱をもって痺れてくる。頭が霞がかかったようにぼんやりしてそのまま眠り込みそうになるほど気持ちが良くて。
悟浄、一回だけ。そう言うと苦笑しながら何度も何度も口づけてくれる。
それが、今日はそれで済まなかった。そろそろ終わりかと瞼を開けかけた途端、後頭部を抑えられて歯列の奥までずるりと舌が滑り込んだ。声はかろうじて堪えたが、いつもは唇でとどまる痺れが口の中で何がどう動いているのか分からない悟浄のそれのせいで一気に体中を覆い尽くした。
崩れかけた背中が、流し台の棚に突き当たった。一瞬離れた唇から漏らした吐息ごと悟浄に呑み込まれる。
悟浄が自分を欲しがってる。
「……っん」
腰から突き上がってきた快感に思わず声を漏らすと、髪に潜り込んでいた掌が宥めるように頬を包んだ。長い指で耳朶を挟まれると、まったく見当違いの頬の内側に、いきなり甘いものを放り込んだような別の痺れがきた。
耳と口って中で繋がってたんだっけ。だからこうなるんだっけ。今日はコロンの香りがしないと思ったら、家でお風呂に入ったんですねきっと。…なんだ。何もつけない方がいい匂いじゃないですか。なんかの香木みたいな。
…クラクラする。
こんな自分の手足がどこにあるか分からないような状態が続いたら間違いなくどうにかなる。
「八戒」
呼ばれて、ようやく堕ちたがる瞼を押し開けた。
「一緒に住むのは?嫌?」
「…はい?」
八戒の舌が縺れているのに気がついてるのかいないのか、悟浄は睫が睫と触れ合いそうな距離で囁いた。
「広めの部屋借りて同居しよ。嫌なら隣の奴追い出して俺がここに越してくる」
「今でもしょっちゅう泊まってるのに?」
「このままじゃ、おまえんちに来る途中にバイクで事故る。さっきも焦って曲がり角の手前手前でハンドル切って何度もガードレールに接触しかけた」
八戒はようやく解放された唇をそっと指で拭った。脅迫か。