私生活

act7




「またステキなかっこですねえ…」
 待ち合わせた3号館の渡り廊下に現れた悟浄は、腕まくりしたシャツにもGパンにも髪にも靴にも盛大にペンキの跳ねをとばしていた。
「近寄らないでください、ペンキ臭いんで」
「あのな」
 悟浄は、頬にとんだペンキが乾いて引きつるのを手の甲で乱暴に擦った。
 ふたりの脇をベニヤ板やら大工道具やら雛壇やら書類の束やらを抱えた、殺気だった学生たちが走り抜けていく。
「学祭準備期間中にそんな小綺麗なカッコしてるおまえのほうが変。いくら無所属ったって何かあんだろ、クラスの催しとか。あーあーいるよなこーゆー奴。クラス一丸となって合唱コンクールで優勝しよう!とか打倒B組!とか言ってる時にひとりで冷めてる奴な」
「あーあー、そーゆーの大嫌いなんですよ。貴方こそ学祭は出店って言ってませんでした?イカ焼きだかタコ焼きだか焼きうどんだかの」
「…鮎の塩焼きと竹酒」
「鮎をペンキでどうするんです」
「どうもするか。生徒会に頼まれて正門にかける立て看描いてた。ロゴが入るから」
 聞かなきゃよかった。
 悟浄が頭をふるたびに赤やら黄色やらのペンキの欠片がバラバラ落ちてくる。
 最近知ったが、悟浄はそういうことが得意なのだ。校内応募で選ばれる学祭のロゴは今年は悟浄デザインだと聞いたときは冗談かと思った。応募用紙に色鉛筆でちまちま描いて廊下にある応募箱にぽんと入れたりしたのだ。悟浄が。はは。笑える。
「へー人気者ですね」
「おまえ以外にはねえ。もてるんだけどねえ」
 八戒は、頼まれていたノートのコピーを悟浄に放り投げた。
「じゃ、せいぜい頑張って」
「…何怒ってんだよ」
 振り返らずに早足で角を曲がって、しばらく待ってみたが悟浄は追いかけてこなかった。忙しいんだろう。
 ああ、忙しいでしょうよ。3日もうちに顔出さないくらいだから。
 自分以外はみんな何やら忙しそうだ。こんな穏やかで気持ちいい日に何を好きこのんでドタバタ大騒ぎしなきゃいけないんだ、学生というやつは。楽しいのだろうか。だろうな。楽しくなきゃ単位にも就職にも関係ないことに必死になるわけない。
 かろうじて講義は行われているものの出席率は最悪で、出てみたところで顔見知りに出店のチケットを売りつけられるだけだ。
 八戒は廊下の隅で立ち止まって財布を開けると、7、8枚の色とりどりの食券を千切ってゴミ箱に突っ込んだ。誰が一日で焼きそばとフライドアイスと鯛焼きとチョコバナナと焼きおにぎりとモツ鍋とスコーンなんか食えるか。
 まあ鮎くらいなら何とかなるが。
「あ、ごめん、ちょっと通して〜」
 小脇にパネルを抱えた2年生が、脇をすり抜けていく。
 八戒はふと吹き抜けから空を見上げた。
 何でこんなところにいるんだろう。



「…学校」
「そう」
 学祭準備期間に入る1週間ほど前だったか。相変わらず八戒の部屋でレポートを書きながら、何でもないように「土曜の夜に見たい番組があるんだけど学校があるから録画して」というようなことを悟浄が言った。
「…学校って」
「俺、専門学校行ってるから。デザインの」
「へえ」
 驚きすぎて反応できなかった。
「…八戒さー…いいんだけどさー…俺のことに全然興味ねえの?土曜の夜に僕を置いてどこ行ってるんですか、まさか浮気してるんじゃないでしょうね!? …って聞くぜ、普通」
 恋人じゃないんだから普通でもなんでもないし、言わなかったから気を遣って聞かなかっただけだが、まだ驚き続行中の八戒は悟浄の目には「まったく無反応」としか映らなかった。
「冷たいねぇぇ。聞いてくれるの待ってたのに」
 相変わらず返事がないので、悟浄はレポートを再開した。10分は経とうかという時になって、八戒は唐突に口を開いた。
「それで?」
「うわ。それでって何が」
「それで…つまり…仕事にしたいんですか?」
 まったく色気のない方向にぶっとんだ八戒の言葉に、悟浄は辞書を捲る手を止めないまま頷いた。
「したいんじゃなくて絶対しますよー?バイトしてもしてもおっつかねえバカ高い学費出した元は取らねえと。いわゆるアレよ、先行投資ってやつ。大学は出たいし、卒業してから勉強やり直してたら年くっちまうしで、しょうがなく」
「……」
「土曜日に、ほら、あれのスペシャルあんじゃん。何だっけ。あれ録っといて。11時にはこっち寄るから」
「……」
「なあ、三笠って色の名前?そんな色あったっけ」
「……」
 悟浄はようやく顔を上げた。目の前のコーヒーにも手をつけずぼんやり正面に座っている八戒をしばらく眺めたあと、机の上に肘をついて身を乗りだし、額に音を立ててキスをした。
「…何です?」
「おまえ、ドコ行くの」
「は?」
「時々そーやってトリップするよな。ドコ行ってんの」
「…別に」
「…悩みあんなら言えよー?」
 額からつっと滑って唇に唇でごくごく軽く触れると、悟浄はまたテーブルの向こうにすとんと腰を下ろしてペンを走らせ始めた。

 どこに行こう。

 悟浄との同居話が八戒が断った形で流れた後、そりゃ内心は色々あっただろうが、しばらく経つと悟浄は週の大半は泊まり込む生活に戻ってくれた。好きだとかなんとか自分で言うことはあっても、八戒に気持ちを問い質すことはしなかった。家のことも愚痴らなくなった。
 ただでさえ、悟浄はどんどん遠くなる。
 出会った時は自分よりずっとずっとガキだと思っていたのに、俯いた顔のその顔がはっとするほど大人びて見える。
 土曜日の居場所もずっと気になってた。
 本当は、一緒に住んでも全然よかった。
 じゃあおつき合いしましょうかとなっても全然良かった。
 でもそうしたら、本当に本当に今よりずっと好きになって、もう何をどうやっても満足しなくなる。
「デザインって言っても色々あるじゃないですか」
 八戒がまた唐突にそう呟いたのは、沈黙が続いて更に20分たった頃だった。
「…まだその話続いてたの?」
「就職するんですか?フリー?」
「デザイン会社に入るか、会社のデザイン部に入るか、デザイン事務所に入るか分かんないけど。最初はどっか勤めるかなあ。学生の間に幾つか表に出る仕事しといて。何が向いてるか分かんねえしな、まだ」
「へえ…」
「来月コンペあんの。新しい雑誌のロゴデザインと、チェーン店のコップとか紙ナプキンのデザイン。でもなーんかロゴとかポスターよりADとか実用的なもんのほうが作りやすい」
「へえ…」
「へえ、へえって、興味ねえなら聞かなくていーって」
 悟浄は苦笑した。
「おまえは、どーすんの?」
「どうしましょうかね」
 八戒はにっこり笑って立ちあがった。
「コーヒー煎れ直しますね」


「ほい、見つけた」
 午後の授業を勝手に自主休講にして裏門から外に出ようとした途端、後ろから腕を掴まれた。
「…悟浄」
 さっきよりカラフル度が微妙に増した悟浄が息を切らして立っていた。
「暇なんだろ、どうせ。俺も帰るから、そのへんの教室でペンキ落とすの手伝って」
 何でこの人はこうも自分を甘やかすんだろう。空き教室で悟浄は机の上に腰掛けるとシャツの裾から腕を抜いた。
「ほら、肘んとことか自分で見えねんだよ」
「…何をどーしたら、こんなとこまで飛ぶんです」
 シンナーをタオルに含ませてポンポン叩いて汚れを落とす。塗料の匂いとシンナーの匂いで頭がグラッときた。
「…最初に会ったときに悟浄がいーことしてた教室ってここでしたよね」
 初対面の時は、まさか、あの軽薄な男と自分が近づくなんて思いもしなかった。
 屈んでいて悟浄の右肩の辺りにあった八戒の頭を、悟浄が同じように頭でゴンと小突いた。
「おまえ、性格悪。俺が上脱いでて、おまえが上のってて、シンナーの匂いしてるようなこのいかがわしい状況で、おまえみたいな間抜けがガラッと戸を開けたらヤッてると思うぜ?」
「そんなの貴方だけです」
「うん」
 八戒はゆっくり目を上げた。
「俺、おまえが思ってるほど大人じゃねえから。ほらこんな」
 悟浄は八戒の手首を掴むと、自分の左胸に直に掌を押し当てさせた。
「下も触る?」
「結構です」
「悪いけど好きだから」

 羨ましい。
 人に好きだと言えるその度胸が羨ましい。

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