私生活
act8
SEX。
…さえもロマンチックとはいかない。
「あいた…」
左肩と首の間に鋭い痛み。
「あ、ごめん。刺さっちゃった?」
冷たい舌が傷を舐める間、長いサラサラの髪が耳をくすぐるのに、悟浄は肩を竦めて耐えた。
「爪切れば?」
「短いとマニュキア映えないもん」
「爪か俺かどっちかにしろ」
言われて、磨き上げられた自分の爪をじっと眺めたあと、宮は真顔で答えた。
「爪よ」
女には最初から最後まで愛想を忘れない悟浄が、宮にはそうじゃないのは、幼稚園からの幼なじみで体の関係は中学から、どうした訳だか大学までもつれ込んだくされ縁だからだ。投げる言葉もいちいち推敲しないで済む楽な相手。
「なあ、今日もうやめね?2回は無理」
宮の返事も待たずに袖に腕を通す。時計は午後10時すぎ、今ここを出れば、ちょうどバイト先から帰宅途中の八戒を駅で拾ってやれる。今の悟浄には具体的物理的に役立つことしか、八戒を喜ばせる方法が思いつかない。あとは何だか異様に気に入ったらしいキスくらい。
一緒にいても口説いてみても酔ってからんでも愚痴っても、八戒はいつも同じだ。何となく笑って「貴方ってひとは」。以上。八戒が自分のことを好きでいてくれるのは分かるし、別に無理矢理どうにかしたい訳でもないが、八戒の態度はあやふやでつかみ所がなさすぎる。
なあ、俺といて楽しい?
楽しいっていうか落ち着きますね。
じゃあいた方がいい?
あなたがいたい間はね。
好きだよ。
僕も好きですよ。
なーんだかな。
結局、悟浄は開き直った。あいつに白黒迫っても仕方がない。曖昧な態度には「一生友達でいたいから」という彼なりの理由があるんだし、それが気に入らなければ俺が離れればいいだけだ。八戒が決して止めないのが分かっているのも哀しいが、俺がそれでいいうちはそれでいいんだ。
八戒が嫌だということは絶対にしない。八戒がして欲しいということなら何でもする。
それ以外の余計なことは一切しない。
あいつに何ひとつ期待しない。
片想いだ、これは。
「悟浄、寒いんだけど」
珍しく玄関まで見送りにきてくれた宮の存在を、声をかけられるまですっかり忘れていた。気心がしれた相手でも最低の礼儀は忘れちゃいけない。悟浄はわざと乱暴に宮の肩を抱き寄せて、額に軽く口づけた。
「また来週試験終わったらくるわ。悪いな、タチ悪くて」
「いーえ全然。八戒によろしくね」
悟浄が何か言う前に外に押し出されて鼻先でドアが閉まった。別におかしなセリフじゃない。宮のクラスは八戒と一緒で、普段はどちらかと言えば自分より八戒との会話が多いぐらいで。
しばらく訝しげに扉を見つめていた悟浄は、時計を見て勢いよく身を翻し非常階段の手摺りを乗り越えた。
ああ、片想いって素晴らしい。「ありがとうございます、助かります」の想像だけで、もう天国だ。
残念ながら教え子の急な発熱でバイトがつぶれた当の八戒は、唖然として玄関に立ちつくしているところだった。宅配のお兄ちゃんが気の毒そうに溜息をつく。
「廊下で荷解きしないと無理だね。ここに置いてって大丈夫?」
八戒は判をついたばかりの伝票に目をおとした。
差出人・悟浄。…悟浄?
品名・寝具。……寝具?
「……寝具」
思わず復唱してみたが、いくら仰天したからといって初対面の兄ちゃんの胸倉を掴んで「これを僕にどうしろと」と問い質す訳にもいかないので、とりあえずご苦労様でしたと帰って頂いた。確かに。確かに悟浄とはもう1年以上も半同棲状態でありながらひとつの枕を共有して寝ている。「実は僕と耳くっつけて寝たいだけなんじゃないですか」と確かに言った。悟浄はそれはそれは嫌な顔をした。それが一昨日。
したがって寝具=枕なら話は分からないでもないが(それでもよく分からないが)いくらなんでも玄関を通らないほどでかい枕がある訳はなく、どう考えても中身は「布団」だ。
鋏を片手にサンダルをひっかけて外に出ると、薄着の八戒に容赦なく寒さが襲いかかる。
「…なんの嫌がらせですかね、これ」
冬の夜にうら寂しいアパートの開放廊下で、何故か唐突に送りつけられた布団の荷解きをする大学生(彼女いない歴2年)。
八戒は自分の想像に動揺して鋏を取り落とした。…布団って。
…お誘いのつもりですか?
何が何でも悟浄には「はまらない」という誓いをたてておいたうえで、何度も何度も何度も唇を貪りあった。こんな気持ちのいいことがこの世にあったのかと思うほど今まで経験したどの瞬間よりも最高によくて。キスでこんなだから、悟浄と寝たりしたら更に上をいく、とんでもなく有頂天外なことが起こるんじゃないか。悟浄は、一度や二度寝たからって人を所有物扱いしたり、セックスが恋愛に直結するなどと信じるような男じゃない。
例え好奇心100%であっても、そういうわけで八戒自身はやる気充分だったのだ。だいたい悟浄が次から次へと女を漁る理由に好奇心以外の何があろうか。単に性欲処理したいだけなら何人も何人も手を変え品を変える必要はないわけで。
が。
まったくその気配がない。向こうが言わないものをこっちから誘うのも妙だ。どう考えても悟浄から言い出すべきだ。この基本線は譲れない。
悟浄には悟浄の思惑があるんだろうけども。
八戒は張本人である悟浄に荷解きを任せることを早々に決定し、腕をさすりながら部屋に戻った。
自分が当事者であるということはさておくと、あの男は優しすぎるし手ぬるすぎる。本当に好きならむしゃぶりつけばいいものを、最近は初めてみるような穏やかで余裕綽々な笑顔を見せる。キスも、頼めばしてくれるが頼まなければいつまでもしない。会った頃のガキ丸出しな可愛げはどこにいったんだ。悟浄のくせに。
最初はあの男は自分の下にいたのだ。どっちかというと寂しそうな野良犬の頭を撫でてやったぐらいの気持ちだった。本気になるほどのこともないと思った。今は、本気になったらこっちが寂しい。
タイミングというのは合わないといつまでも合わない。
「何なんだよ!」
「あなたこそ何ですか!」
駅で待ちぼうけをくらった悟浄と、いきなりの宅配便に文句の準備OKの八戒は、互いの不機嫌に気がついてしばし黙った。
「バイトじゃなかったのか、電話ぐらいひけ貧乏人!俺はハチ公か」
「送り迎えなんて頼んでません。それより玄関のあれを何とかしてください、むちゃくちゃ邪魔です」
悟浄はしばし外付け洗濯機の横にでんとおかれた物体を眺めて、ああ、と呟いた。
「布団な」
「やっぱり布団なんですか」
「こたつ布団とホットカーペット」
悟浄は梱包用のプラスチックテープを慣れた手つきでパチパチ外し、中身を部屋の中へずるずる運び込んだ。
「……こた…」
「灯油は嫌だし、エアコンはつけられねえし、こたつは中が出っ張ってて嫌だし、でも寒いとかぬかしたのはどこのどいつだ。カーペットつけて布団をこう机にかぶせるとこたつ代わりに」
「ちょっと待ってくださいよ」
八戒の気の抜けた口調に、悟浄はセッティングに夢中で気がつかない。
「大丈夫、場所とんないから。春になったら俺が実家で保管しといてだな」
「待ってくださいってば」
「何だよ。まさかこたつ布団は花柄でないと許せないとか言うんじゃねえだろうな」
「悟浄!」
ようやく悟浄は顔をあげた。
「…どした?」
「…どうもしません」
驚いたのと、自分に腹が立つのと、嬉しくないこともないのとで一時思考機能がストップした八戒は、とりあえず目についたものにコメントした。
「凄いキスマークですね」
「…あ?あ」
爪痕は外から見えても平気だと思ったが、その上からキスマークをつけられたらしい。
「……目立つ?」
「まあ…。目立つっていうか、体位が気になりますね」
他のことを気にして欲しい。
八戒のいっそ清々しいほどの自分への無関心ぶりはどうだろう。自分に告った相手がキスマークつけてる由々しき事態に関して、本気で何の感想もないのだろうか。八戒は絆創膏を1枚くれて、いつもの通り熱燗とコーヒー両方の準備を始める。
期待するのはやめたんだった。女遊びに対して「嫌だ」とひと言もらうことも、束縛して欲しいと思うことも、とうの昔にやめたはず。それでも毎日毎日少しずつ、こうして八戒を諦めていくというのは、結構切ない。
とりあえずふたりで「こたつ」に入ってみて、何となく部屋にそれらが馴染んだところで、八戒はお銚子を傾けながら軽やかにコメントした。
「宮さんですか?」
「…何で」
「香水で」
八戒が何かしら嫉妬めいたことを言ってくれるのではないかとこの期に及んで期待した悟浄に向かって、八戒はとんでもないことを口にした。
「一度、したんですけど」
手元が狂って、じりっと悟浄の毛先が燃えた。
「……は?」
「一度、彼女としたんですけど」
不意打ちに遭うと人は不可解な行動にでるものだ。悟浄は八戒を凝視したまま煙草を御猪口に突っ込んだ。
「何、何で、いつ!?」
「いつでしたっけ…貴方の家に電話したじゃないですか、その時に貴方の番号聞いて」
宮さんと、土曜日の貴方の行方について話したので。
確かに、あの日八戒はそう言ってた。忘れる訳がない、八戒のことが好きだといきなり自覚したあの日だ、よりによって。
「…何がどうしてあの女とおまえが寝る訳」
「利害が一致したので」
「おまえは利害で女と寝るのか!?」
「好奇心もあって」
「なるほど!」
何がなるほどだ。14の時から知りつくしてる女と、何だか知らないが好きでしょうがない男がやる図も想像し難いが、八戒と同じ体を共有したという感覚が何というか生々しすぎる。
「………うわ…おまえと…兄弟…」
「何可愛いこと言ってるんです、この百戦錬磨が」
八戒は涼しい顔で手酌で2,3杯流し込んだ。
「僕も彼女も自分の知らない貴方のことが知りたかったので」
「…は?」
「貴方に関する情報交換をしただけです。体含め」
「…は?」
「宮さんは綺麗ですね」
熱くなったのか、八戒はネルシャツの袖をくるくる巻き上げた。
「貴方が何年も抱いてきた体にも興味あったし、普段どういう手順でどういうセックスするのか、いいのか悪いのか普通なのか、どんなタイプの女性が好きでどんな痛い目にあってきたか、この4年で貴方がどう変わったか、今の部屋の直通番号もその時ついでに。ま、僕はほとんど何も教えて差し上げることがなかったんですが、宮さん的には、悟浄が平気で部屋に泊まるような人間がどんな奴なのか分かればよかったみたいで、それが」
「おまえ俺と寝たいの?」
八戒はゆっくり悟浄に目をやった。
「…なんでそうなるんです」
「でなきゃそんな話しない」