私生活

act9





 言ったものの、そんなこと信じちゃいなかった。八戒が自分とやりたい理由なんかひとつもない。返事が戻ってくるのを、悟浄はゆっくり透明な酒を舐めながら待った。
 良かった。
 八戒と宮のことは、そりゃ驚くには驚いたが、自分のこと棚に上げて妬くような自分じゃなくて良かった。それどころか万が一ふたりがくっついたとしても(しねえだろうが)俺は祝福できる。宮だって俺みたいなろくでなしに構ってる暇あったら本命の男見つけてそいつに一途になった方がいいに決まってる。いい女なんだよ、本当に。八戒を他の奴にとられるくらいなら、あれくらいの女じゃないと俺が諦めつかない。
 悟浄はこたつとなった机の上に肘をついて、熱くなってきた頬を掌で冷やした。
 …ああ、俺、今、なんかすっげえ幸せ。やっぱ八戒のしてくれた燗を八戒と呑むのが一番美味い。やっぱこたつ買ってよかった。どこもかしこもあったかくて気持ちいい。
 悟浄の気分と反比例して八戒の声はいつもより数段低かった。
「…貴方でしょう。僕としたいのは」
「ん?別にしたくない」
 うっかり軽く返して八戒のぎょっとした顔にぎょっとした。
「あ、いや、したくねえ訳じゃないけど、強いてしなくても俺は別に。今だって結構充分いい気持ちだし、おまえが嫌がることして、わざわざ嫌われたくねえよ」
「…そうですか。それはどうも」
 毎度のことだが、八戒の頭の中で何が起こっているのか悟浄には判断がつきかねた。離れようとした唇をつい追いかけた時も、夢中で後ろから肩を掴んで引き寄せる時も、本気で嫌がられてたらどうしよう、これで嫌われたらどうしようと後から身悶えするほど八戒のことしか考えていないのに。
「…失敗したか、こたつ」
「はい?」
「遠い」
 こたつの中で足を絡めた。八戒は黙ったまま、御猪口を手の中でグルグル回している。
 遠い。俺のことを好きじゃない八戒に、これ以上してやれることが思いつかない。告白した時に、仲は最高潮だと思ってた。その告白を流された時点で、悟浄の中ではカウントダウンが始まっていた。これ以上、ふたりの間に何か決定的な事が起こるなんて考えられない。毎日毎日代わり映えのしない日常が続いていくだけ。いつまで悟浄が八戒のそばにいたまま耐えられるか。いつまで片思いしていられるか。要は時間の問題だ。


 俺たちはきっと、近いうちに離れる。

 それはもう、確信だ。八戒といる時の気持ちよさ、この感じは覚えがある。長く続かない時間への愛おしさだ。
 翌日、廊下ですれ違った瞬間、宮が悟浄に手を振った。
 爪が短かった。


 なあ、それだけで良かったのに。俺が欲しかったのは、そんなことで良かったのに。



「さっぶ!」
 悟浄と一緒に雪まで舞い込んでくる。
「…本気で生死に関わるんです、閉めてください、すぐ」
 広げた教科書から目を上げないまま八戒が呟くと、悟浄は玄関でポンポン飛び上がりながらドアを閉め、ブーツを脱ぐのももどかしく八戒の背中に体当たりしてきた。
「触らないでくださいってば。心臓麻痺で死にます。こたつに入ってあったまってからどーぞ」
「この極寒の中を外出すんのがどんだけ勇気ある行動か分かるか!?おまえの春の日差しのように気まぐれな笑顔さえあれば俺の凍り付いたハートも溶かされようと、その希望だけを抱いて嵐の中を進んできたというのに!」
「ああ、嵐が丘」
「…あ〜つまんねえ奴」
 悟浄はこたつに足を突っ込むと、ようやくもぞもぞコートを脱いだ。
「遅かったですねえ」
「バイクなんか寒くて乗れねえ、電車で来た。こればっかは、いくら俺が頑張っても速度が上がるって訳にもよ」
 八戒がちらっと横目で盗み見ると、悟浄は小刻みに震えながら手を擦り合わせていた。寒さで赤くなった頬が痛々しい。「俺は風になる」とか何とか叫んでたバイク馬鹿の悟浄が風になるのを諦めるくらいだから、今夜の寒さは相当だろう。
「……なら、別に無理して来ることないのに」
 嫌味に聞こえたかと思ったが、悟浄は屈託がなかった。
「来たかったんだからいーじゃん。酒持ってきたんだけど先に熱燗欲しいな〜」
「…はいはい」
 悟浄が来てくれるのは嬉しいのだが、そのたびに申し訳なさで気が滅入る。悟浄の気持ちにひとつも応えていないのだから、寒い想いも暑い想いも避けうる限りは避けて欲しい。悟浄はふとこたつの上に目をやって、唐突に立ちあがった。
「あ、おまえレポート?提出いつ?悪い、帰る」
 一瞬、八戒は言葉を失った。何でこんなことが言えるんだ。
「…明日ですけど、もうあらかた出来てますよ」
「でも」
「いいですって、本当にあと30分もあればできますから」
 悟浄はコートを引き寄せたまま八戒を見詰めていたが、やがて「ならいっか」と座り直し、また立ちあがった。
「…なんです」
「いや、おまえ、終わるまで呑めねえんだろ。自分でやる」
 台所からぽんと押し出されて、八戒は元いた場所にゆっくり腰を下ろした。まだろくに暖まっていない両手をガスコンロにかざしながら燗の準備をする悟浄の手際が意外といいのを、八戒は複雑な気持ちで眺めた。自分より、余程慣れてる。
「…手の、ココ、つめたくならねえ?レポートしてると」
 背中を向けたまま、悟浄が言った。
「ココって?」
「手のひらのここ、紙にあたるとこ。俺、この小指の下がよく霜焼けになんだよ。紙が冷たくて」
「…へえ、僕はなったことないですけどね…」
 それきり悟浄は何も言わず黙って隣に座り、八戒は再びレポートに没頭し始めた。
 45分後。
 とにかく最後の「。」までこぎつけて八戒がペンを放りだした途端、悟浄に右手を握られた。
「…ほら、やっぱココが冷たくなってる」
「……」
「熱燗で俺をあっためときました。もう触っていい?」
 あったかい。
 急に泣きたくなった。この人に、本当に何も返せない。

悟浄がバッグから取り出したものを見て、八戒はぽんと手を打った。
「あ!!!」
「何だよ」
「今日クリスマスですね、そういえば」
 悟浄はUFOでも見たかのように目をまん丸にして八戒を振り返った。一気に色々言いたいことが溢れたようだが、結果的に、ひと言に絞ったようだ。
「………おまえ、大丈夫か」
「………テレビ見ないんで」
「いや、テレビ見ないとかそういう問題じゃねえだろ」
「大学も休みで外に出ないし」
「うっわ、さみしー奴だなぁ〜おい。俺が来なかったらおまえは聖夜を知らないまま明日を迎えていたのか。あーこわ。あー来てよかった。はいシャンパン。ケーキは冷蔵庫。それでクリスマス気分の片鱗でも味わえ、今後の人生のために」
 ケーキ。
「……案ずるな。そんな顔しなくてもホールでサンタさんのったりしてないから。ただの駅前のコンビニの2個350円のチーズケーキだから」
「…そうですか」
「ただの気分。シャンパンも今日は安売りだから。美味いもんでもねえけど、酒屋通ったから、ま、シャレで」
 …何でこう。何でこの人は、こう…。
「なーんつって、おまえ熱燗の方がいいっしょ?クリスマスつながりで鳥皮買ってみましたけど。食う?」
 どうしよう。本格的に泣きそうだ。僕が、今日ここで、この人といていい訳がない。もっともっと悟浄に優しくできる人がいるのに。自分じゃ何もできない。これ以上そばに寄られるのも離れられるのも怖くて仕方ない。
「…悟浄」
「ん?」
「…シャンパンください」

 別に、だからって訳じゃない。クリスマスだからとかそんなんじゃ全然ない。
「あーこのまま寝たいけどこたつで寝ると絶対風邪ひくよな〜」
「しばらく僕の布団で寝てあっためてくださいよ」
「アンカじゃねえんだ馬鹿。電気敷布買え。それか湯たんぽ」
「湯たんぽねえ…昔低温火傷したんですよねえ…」
 酔っぱらって、それでも何とか歯を磨いて、布団に入ったはいいけどあんまり冷たくて、何となく熱のかたまりがあるほうへジリジリ寄ってったら、悟浄が。
「…嫌じゃなかったら、こっちくる?」
 そりゃ悟浄は子供体温だから助かりますけど、そしたら貴方が寒いでしょうに。僕、凄い冷え性なんで。
「もう寝るから俺。お休み」
 貴方が無理矢理なんかするなんて思ってないですって。どっちかというと僕の方がヤバイ感じで。分かりやすいですよね。こんな時でさえ、貴方の体温奪うばっかで、何もできないうえにろくでもないことばっか考えて。
「悟浄」
「…何」
 何ていうか成り行きで。できませんかね。そんなんじゃなくていいから。何だったら寒いせいにしていいから。ほっとくと泣きそうなんですよ。貴方ならそんなの簡単じゃないですか。寝れませんよ、もう。考えたくないんです、いろんなこと。


 八戒はひと言も口には出さなかったし、俺も何も聞かなかったし、それどころか最初っから最後まで何も言わなかった。これをしたからって八戒が俺に惚れる訳もなくて、俺も別にそれが望みって訳でもなかった。
 ただ、俺は、ひと言でいいから言葉で欲しかった。分かりやすい態度で欲しかった。あいつは結局ひとつも俺に我が儘らしいこと言ったことがなくて、俺は多分そうであろうと見当をつけて色々やったけど、手探りでやったことが全部違ってたかもしれない。「抱いてくれ」でも「女と別れろ」でも「出ていけ」でも「今すぐ来い」でも何でもいいから言って欲しかった。俺の意志なんか完璧に無視してメチャクチャ言って欲しかった。俺を試して欲しかった。
 一度だけ。まだ会ってすぐの頃に「泊まってけ」と道端で大騒ぎしたことがあったか。変な奴だと思ったけど、嬉しかった。

 あの時と、俺、変わったか?
 おまえを好きになっただけじゃん。



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