私生活

act1


 おまえに似た奴をまだ振り返る。

「…いったあ…」
 悟浄は深夜の夜道を腹をさすりながらふらふらと歩いていたが、力つきたといった案配で電信柱に手をつき、そのまま胃の中身を全部ぶちまけた。アルコールのせいではなく、腹にいれられた蹴りのせいで。
 家まで徒歩30分。…辛い。

 悟浄、おまえ、消えろよ。

 会社を出た途端、悟浄より5センチばかり背の低いチーフがまったくの無表情でそう言って、聞き返す間もなくどすんとやられた。不意をつかれて背中が壁に突き当たったところに、拳で2発。
 深呼吸して殴り返さない冷静さを取り戻してから顔を上げたら、もうそいつは影も形もなかった。
 さて駅はどっちだっけと揺れる視界で見渡すと、明らかに「終電」と思われる電車がぎっしりと人を詰め込んで、高架の線路を通過した。
 消えろよ。てか。
「…なーんで俺につっかかるかな、あっちゃんは」
 チーフの本名は吾妻というが、吾妻という響きだけで既に心が尖ってくるので、腹が立った時には冗談めかしてあっちゃんと呼んでいた。そして、ここ半年、延々「あっちゃん」だ。やばい。凄くやばい。もうすぐ反撃してしまうかもしれない。あの30を前にしてたるんできた腹に拳入れて捻って突き上げてしまうかもしれない。
 悟浄は汚れた口を上着の右袖で、生理現象で濡れた目を左の袖で拭い、そのまま上着を脱いで、公園のゴミ箱に突っ込んだ。


 大学を卒業してすぐ、悟浄は「星野デザイン事務所」という有限会社に入った。入ったというより転がり込んだ。なりふりかまっていられなかった。
 不況のまっただ中、同級生の3割以上が就職浪人だ。これ以上恩人夫婦に世話にはなれない。
 事務所の構成員は社長の星野さんという40手前の男と、悟浄と、先輩デザイナー2名にアルバイト、計5名。こんな小さな会社が新卒募集などかけるわけはない。大学と平行して通っていた専学の卒業生に「星野さん」がいて、たまたま「マスコミの求めるデザインとは」とかいう講義に講師として来ていたところをひっつかまえた。本当にひっつかまえた。帰り道を待ち伏せし、拝み倒した。脇目もふらない情熱に押されたのか面倒になったのか、星野さんは悟浄を自分の事務所に見習いとして雇ってくれた。勿論いきなりデザインなどやらせてもらえない。掃除とお茶くみと事務整理に半年、お使いと接客に半年、ラフ組みに半年。技術はその間にこつこつ盗んだ。
 チーフの吾妻は最初からアタリがきつかった。社長談判というやり方が気にくわなかったんだろうし、悟浄もさすがに誉められたもんじゃないという自覚があったから、口答えひとつしなかった。終電がないと分かってる時間のおつかいにも、締め切りを遙かに遅れた入稿物を押しつけられても、キーボードに茶を倒されても、靴磨いとけなどと「おいおい俺は小公女か」と呆れるようなことを命じられても愛想よくこなした。何せ修行中の身なわけだし、単に楽しかった。何せ先日まで事務所の机の上にあった図案が書店に並ぶのだ。同じ職場にいる人間の名前が活字になって印刷されるのだ。
 入社2年目、ようやく先輩方の仕事の癖を気にするほどの余裕ができてきた。チーフはどうも雑誌の細かいページを組むような地味な仕事は嫌いらしい。個人の好き嫌いは構わないが、そういう仕事になると平気で締め切りを破る。破っておきながら態度は横柄だ。そのたび悟浄が出向いて、出版社と印刷所に頭を下げた。
 何もこんなに丁重に毎回毎回きっちり48時間オーバーしてくれなくてもいいものを。
「星野さんとことうち、時差があるみたいだねえ」なんてねちねちねちねち嫌味を言われるのは自分であり、星野さんだ。
「…チーフって、なんでレギュラーだってのに毎回締め切りぶっちぎるんすか?」
 できるだけ穏やかに、と心がけてはいたが、基本的に思ったまんましか口から出ない悟浄は、わりとずばっと酒の席で社長である星野さんに尋ねた。
「…追いつめらんねーとしねーのよ。31日になって夏休みの宿題始めるようなヒト」
 星野さんは、なんだか気の抜けたような笑い方をした。
「参るねえ」
「いや、参るねえって。夏休みの宿題と仕事は違うでしょうが」
 表だって叱ろうとしない雇い主にも、少々不満が溜まっていた。
「痛いとこつくなあ若造は。まあ、ああいう奴もいるのよ。芸術家だからさ彼は」
 チーフは腕がいい。それは認める。
 でも、なんだか、そういうの、違うんじゃねえの。

 この夜のことが社長を通してチーフにばれた。
 で、どすん。

アパートにたどり着いて外階段をガコガコ靴を引きずって這い上がっていると、1階の窓ががらりと開いて大家のおばちゃんが顔を出した。
「何時だと思ってんだよ悟浄さん!毎晩毎晩!」
「…すんません」
「すんませんじゃないよ酔っぱらいが」
「…酔っぱらってな」
「いい加減煙草やめなよ、火事が怖いんだから!あと雀に餌やんのも!ゴミもちゃんと朝!」
「…はあ」
「その髪なんとかなんないの?趣味悪いよ、赤なんて。親御さんが泣いてるよ。ここ下北じゃないんだからね。下町なんだからね。年寄り多いんだからね。あんたみたいにちゃらちゃら派手な男住まわすだけで嫌なんだよあたしは。せめてまともな時間に活動しとくれよ、会社員ていうから安心してたのに詐欺じゃないか。新聞もとってないみたいけど、ちょっとは勉強しなよ。あ、読売以外不可だよ。うちの人アンチ巨人は追い出すからね。それと」
 バタン。
 玄関を背中で閉めた途端、急に全身の力が抜けて、悟浄はそのまま玄関にへたり込んだ。
 自分の下で押しつぶされたブーツやスニーカーの心配をするほどの元気も、すぐそばの万年床までたどり着く気力もない。真っ暗な六畳間は1日12時間労働下手すりゃ泊まりの仕事でなかなか帰れず、掃除も炊事も手を抜きまくって荒れ放題。
 …趣味悪い赤で悪かったな。しょうがねえじゃねえか、ずっとこうなんだから。
 綺麗だって言ってくれた奴もいたんだよ昔は。
 これでもきちんと働いてメシ食ってんだよ。雀だって生きてんだよ。ばーろー。
 卒業して以来、大学時代の友人にも女にも会ってない。会いたくない。楽しいこともあったはずなのに、できることなら大学の4年間を人生から抹消したい。
 電話もかかってこない。何をかくそう電話がないのだ。
 入社してからうるさく言われて携帯を買ったが、仕事関係者にしか番号を教えてない。この頃はまだ携帯料金はバカ高かった。あまり使いたくなかったし、そもそも登録したい番号なんか、この世にひとつもない。
「…なんか、もー…全部やだ」
 と可愛く言ってみても誰も慰めてくれねえし、毎日腹はきちんと減る。
 悟浄は四つん這いになって布団まで這っていき、ぼすんと倒れた。
 あ、靴脱いでねえや。いいか別に。
 朝、また履くんだし。

社長の留守中に、悟浄はあっさり職場でチーフと対決した。
 言い過ぎた、と思った瞬間安全クリップが一握りぶん、顔面めがけて飛んできた。
「ガキに文句つけられる言われはねえんだよ!いいもんあげるのに時間かけたからってなんなんだっつの!だいたい編集の締め切りなんざ一週間はサバよんでんだよ!常識だろジョーシキ!ばあか!」
「…そうですけど」
 悟浄は、靴の先で、床に散らばったクリップを集めた。
「…デザイン凝ってる暇あったら締め切り守れよってのが、あちらさんの本音だと思うんすけどね」
「だからサバよんでんだっつの!発売日にきちんと並んでんだろ!文句あんのか!」
「それは他の人がしなくていい苦労して間に合わせてるからでしょう。早ければ早いほど助かるには違いないんだし、さっさとあげときゃ編集もナカミに時間かけられるじゃないですか。だいたい印刷のほうにも迷惑」
「どの面さげて何様が俺に説教だチンピラ!」
「じゃあ一度でもてめえの足で現場行って床に手ぇついてきやがれ!!!!」
 椅子を蹴って立ち上がった悟浄は、突然反撃にあって愕然としている吾妻の胸ぐらを掴んで椅子ごと壁に押しつけた。
「あんたひとりで仕事してる気か。あ?ひとりでお仕事なさってると思ってんですか?働いてんのは人間なんだよ。機械じゃねんだよ。あー現場に一度も出向かねえから知んねえか。奴らの負担減らしてやろうなんてちっとも思わねえか。名前が載らねえ仕事に手ぇ抜いてんのは見え見えなんだよ。さばよんでるからなんなんだ?22日にくれと言われたら22日に渡せ!それをジョーシキっつんだ!てめえの辞書に墨ひいて書き直せ!こんなADぐれえ俺なら3時間であげるわ!」
「それは頼もしい」
 社長のお戻りか!!
 とその場にいた4人が飛び上がって振り返ると、事務所の入り口に金髪痩身の男が大荷物を抱えて立っていた。
「お取り込み中申し訳ねえが、吾妻に急用だ。どれだ」
 何故そんなに偉そうなのか、と全員が思った。
「…俺です、が」
 まだ胸ぐらを掴まれていたチーフが絞め殺される鶏のような声で呻き、悟浄は慌てて手を放した。
「藤堂出版の遣いでAD引き取りに来た。編集まわしてると間に合わねえ、輪転かけるからとっとと寄越せ。そこの赤いの、続きは俺が出てってからにしろ。ご覧のとおり急いでる」
 言いながら部屋の中までずかずかやって来たその男は、やって来ながら各々めがけて手裏剣のように名刺を投げた。
 三蔵。
 印刷業界最大手の鬼営業。
 編集すっとばして印刷所が直接乗り込んでくるなど、しかも部長クラスの大物のご来訪など初めてだ。つまり事態がそれほどに切迫している証拠なのだが、悟浄は状況を何秒かすっぱり忘れて、三蔵をかなり不躾に眺めた。そもそも出版がらみのデザイナーなんてものは人前に出る職業ではないので、身なりに果てしなく構わないタイプが多い。そんな小汚い連中の中に現れた、一部の隙もない身支度のスーパーサラリーマン。
「…眩しいっ」
 悟浄は真剣に呟いた。
 泣かせの鬼にしちゃ、えらく美形だ。眉間に皺が寄ってるのが余計イイ。何その髪。キラキラだ。これが趣味のいい色ってやつか。ブラッシングだけであんなになんのか。染めようかな金に。つか美容院行ったの何時だって話だよ俺。うわ、すげえ時計。げーのーじんみてぇ。目の保養。むしろ目の毒。
 悟浄は度を超した面食いだった。眺められ慣れている三蔵のほうは、実にスマートに視線を無視した。
 チーフは名刺に目をやり、三蔵に目をやり、おどおどと悟浄に目をやった。
 悟浄は小さく舌打ちして、三蔵に向き直った。
「…まだできてません」
「まだできてません」
 三蔵は、笑ったように見えないこともない顔で復唱し、そのままの顔で「殺すぞ」と言った。
 いきなり鳥肌がたった。夢に出そうだ。
「申し訳ありません!1時間以内に用意してそちらにお届けします!」
「なんでおまえが言う。担当は吾妻だろうが」
「俺が窓口です。1時間以内に必ず」
「ああそう。必ずの意味分かって使ってんだろうな。3時きっかりに人力で届けろ。名前は」
「悟浄」
「名刺寄越せ」
「チーフ、名刺」
「おまえのだチンピラ!伝言ゲームやってんじゃねえ」
 …チンピラ。
 三蔵のゴミでも見るような剣呑な眼差しにちょっと傷つきながら、悟浄は一歩下がって応答した。
「…まだ、俺のはないんだけど」
 三蔵は一瞬眉を顰めたが、黙って吾妻から1枚ひったくった。
 来たときと同じ勢いで三蔵が消えると急に空気が緩み、同時に吾妻がぎゃあと叫んだ。
「おい!1時間て!人のことだと思って!適当に言うな!」
「…俺がほとんど組んである」
 またもやぎゃあとかわあとか喚くチーフを後目に、悟浄はデータを引き出した。かくいう自分も手が震えてる。まだ自分名義で仕事したことはない。たまたまADの素材がファックスで届いていたので、練習のつもりで組んでいた。今は社長が不在で許可がとれない。無断で入れてもしものことがあったら。
 悟浄は吾妻を振り向いた。
「チェックしろ」
「おまえ勝手に何してやがんだ、誰がんなことしていいっつった!最初からそのつもりか!人のミス狙ってやがったのか!おまえ、ほんと汚ねえよ!」
「ああうっせー狙ってたよ!狙ってたけどちょっといきなりでビビってんだよ!早く見ろ時間ねえ!修正ならすぐ指示出せ!」
 吾妻は肩をいからせながらよろよろと傍に来て悟浄の肩越しに画面を覗いた。
「…特に問題はない」
「じゃあ入れるぞ」
「責任持てねえぞ!」
「俺が持つ!」
 悟浄は目の前のコードを握って電話機をずるずる引き寄せた。
「星野さん?俺です。藤堂のAD俺が作りました。チーフにチェックもらいました。刷っていいですか」
 社長はしばし沈黙したあと「刷っていいですかって言われても見てないから分からん」と真っ当なことを言った。
「俺が帰るまで待てないのか?」
「待てたら待ってます」
 壁にかけた時計の秒針の音がはっきり聞こえる。
「…9時に戻る。それなりの覚悟で待ってろ」
 
 悟浄はバクバクいう心臓を服の上から押さえながら、データを抱えて事務所を出た。
 不可抗力とは言えなんて大胆なことを。
 今晩9時に、クビかもしれない。社長が許しても、きっとチーフが許さない。
 このご時世この程度のスキルで伝手もなく、再就職なんかできない。
 でも。
 これが最初で、最後になるかもしれない、初仕事。
「…やった」
 悟浄は地下鉄の改札を走り抜けながら、小さくガッツポーズを決めた。
 やった。やった。やっったっっっっ!
 少なくとも、9時までの8時間は、俺はデザイナーだ。
 デザイナーになりたいなんて如何にもで、恥ずかしくて誰にも言ったことがなかった。あいつ以外誰にも言ったことがなかった。でも今日なった。ざまあみろ。
悟浄は自分の中で禁句になっていた言葉を、卒業以来初めて呟いた。

 八戒。

今日だけだ。今日だけ、自分に許す。
 もうどこにいて何をしてるのかも、生きてるかどうかも知らない男。

 おまえ、もの凄く普通の奴だったよ。
 顔はよかったけど、それだけだった。
 ちょっとは優しかったけど、凄く優しくもなかった。
 ちょっとは俺を好きだったけど、凄く好きでもなかった。
 指が綺麗だったけど、冷たかった。
 声が綺麗だったけど、冷たかった。
 どこがよかったのか全然思い出せねえわ。
 今、やたらと忙しくてさ。思い出す暇ねえんだよ。

 でも振り返る。
 会うんじゃないかって。
 突然、不意に、信号待ちで、ホームの向いで、歩道橋の上で、飲み屋で、夢で。
 昔会ったように、深夜のコンビニで会ったように、朝の大教室で会ったように、会うと思ってなかった、忘れてた、その瞬間を狙って、俺の一番嫌がる態度で、俺のことなんか忘れてたって態度で、思い出す暇もなかったって顔で、ぱったりと。
 


NOVELS TOP
act2→