私生活
act2
「峰倉出版第四編集部の加瀬と申します」
「はあ」
悟浄はちょうどコンビニのからあげ弁当を机に広げて七味をかけ終えたところで、強烈な唐揚げ臭に気をとられながら電話に応対した。何せ朝から何を食べる暇もなく、夕方の4時になってようやくありついた食事だ。冷めたら食えたもんじゃない。
「悟浄さんはいらっしゃいますか」
「俺ですけどー」
視線はまだ唐揚げに釘付けで、待ちきれずに首に受話器を挟み、両手で箸を割った。付き合いも何もない出版社だから急ぎの用でもないだろうが。唐揚げの後にしろ。
自分を名指しで電話が入るという事態の不自然さに、悟浄はまったく気付かなかった。
「うちのギガトーイという雑誌を御存知でしょうか。隔週の青年誌です」
「あーはいはいエロ雑誌ね。お世話になってますよ〜」
「それはよかった。話が早い。毎号のADと1色を悟浄さんにお願いしたいんです」
「は?」
「明日にでもご挨拶かねて打ち合わせのお時間頂戴できますでしょうか」
悟浄がようやく話の内容を理解した時には首に挟んだ受話器は白米の上に落下していて、向こうには「べしょ!」という訳の分からない返事が届いた。
「そうですか」
慌てて飯粒だらけの受話器を拾い上げると、何故か白米と加瀬の間で話がついていた。
「では午前11時ということで」
先日のドタバタ入稿ではただでさえ少ない給料が更に減給されたが、幸い首は繋がって、初仕事として、きちんと流通にのった。胸ぐらを掴まれてびびったのか何なのか、チーフは不気味なほどに大人しい。今のところは。
悟浄は記念すべきその雑誌を保存用と合わせて3冊も買い、家に帰って何度も眺め、しまいには枕の下に敷いて寝たりとバカみたいなこともしたのだが、悟浄がした仕事らしい仕事はそれだけだ。個人名も入らない、名刺を配り歩いているわけでもない、社長すら関わりのない会社が悟浄の名前を知っていること自体おかしい。
とにかく来ると言ってんだから、迎える準備はしなくては。
仕事が終わる時間には書店はとっくに閉まってる。悟浄は勢いよくアパートの階段を駆け上がり、大家の罵声と同時に部屋に飛び込んで、見当をつけた雑誌の山を突き崩した。ギガトーイ。ギガトーイ。数ヶ月前に確かに買った覚えがある。黄色のビキニが表紙の。結構ヌける袋とじの。ピンナップがバスガイドコスプレの。
悟浄はしばし考えて、ようやく思い当たった。トイレだ。
別にエロ雑誌に限らずトイレの中で本を読む癖がある悟浄は、雑誌を繰りながらトイレに入り、そのまま置きっぱなしにする。案の定トイレの棚に、トイレットペーパーと並んで雑誌が山と積み上げてあった。
特にトイレに用事はなかったがいつもの癖で便器に座り、雑誌の束を膝に乗せて次々ひっくりかえしていくと、ちょうど真ん中辺りにその本があった。随分と前の号だが予備知識としては、まあ充分だ。
悟浄はパラパラページを捲り、編集後記に目をやった。
八戒。
「ん?」
悟浄は、しばらくその漢字2文字を眺めてから本を閉じ、意味もなく天井を見上げ、また開いた。
さっきと変わらず、その文字はきちんとそこにあった。
八戒。八戒。八戒。八戒。八戒。
立ち上がった拍子に、膝の上のものがばっさばっさと床に落ちた。
「ビックリしたあ!!!」
八戒なんて変わった名前の奴がこの世にふたりもいるなんて!
★この号が出る頃には夏も終わり。キミの太陽は見つかったかな!?
ギガトーイは寂しいキミたちの欲望を丸ごとぜ〜んぶ受け止めてあげるよ♪ by八戒
思わず「あの八戒」の口調で読んでしまい、悟浄はひとりでオオウケして壁をばんばん叩いた。
八戒にも色々だなあ。編集後記だからペンネームって可能性もあるか。上から2番目ってこた副編かなんかかな。
そうかそうか、俺の欲望を丸ごとぜ〜んぶ受け止めてくれるか、この八戒さんは。
なんだか笑いすぎて涙が出てきた。俺、ヌいちゃったよこの本で。
今日電話を寄越した加瀬の名前は一番下だ。
★みなさん、お元気ですか?ボクは相変わらず修羅場続きで日焼けもできず、遊ぶ暇も金もなし。
自分で作った本のお世話になるのはムナしいですね。 by加瀬
明日会う予定の相手は「八戒」よりは随分まともそうだ。
悟浄は何ヶ月もトイレに放置していたギガトーイの埃を丁寧にはらい、折り目を直して鞄に入れた。
俺の仕事。
翌日やってきた加瀬は思ったとおり悟浄より年下で、実に愛想のいい男だった。
簡単に自己紹介したあと、あっさり悟浄の疑問を解いた。
「三蔵さんが貴方を薦めてくださったんです」
「三蔵!?あの金髪美人?」
「今まで使ってたデザイナーがどうにもこうにもとろくって。進行分かってて手の早い人いないかって何気に相談したら、悟浄さんを是非にと。なんだ、てっきりお知り合いなのかと思ってましたよ」
知り合ったのはものの2分で、悟浄には「チンピラ」と「そこの赤いの」しか記憶にない。そんな短時間で是非にと人に仕事を紹介するタイプには全然見えない。何が気に入られたんだろう。それとも哀れまれたか?
「ほんとにあの三蔵?偽もんじゃなくて?」
「三蔵さんの偽物なら偽物でも十分ですよ〜。かっこいいですよねあの人〜」
人気者らしい。
「なあ。おたくの編集部って、みんなそんなのほほんとしてんの?」
「でないとやってられませんよ〜こんなきっつい仕事」
加瀬は終始笑顔で、口上はすらすらと淀みない。
「欲しいものは買え、が編集長の口癖です。ギャラのほうは言い値で構いません。ただし締め切りは絶対厳守。技術は勿論時間も込みの値段です。金出して買ったものが不良品だった時のボスのキレようは、ちょっと凄いですよ。もし遅れたら」
加瀬はふっと言葉を切り、真顔になった。つられて悟浄は身を乗り出した。
「…遅れたら?」
「税関抜けられない程度には人相が変わります」
「げ」
「僕のね」
「げ!」
またすぐに笑顔になった加瀬は「頑張って僕を守ってくださいね」と言った。
…巧い男。悟浄は素直に感心した。押して引いて掬う語り口は完璧で、懐っこいのに隙がない。新米でこれじゃ、上の奴は相当できそうだ。
「…うん、守りたいね。俺、あんたのことかなり好き」
不意打ちをくらった加瀬はいきなりリズムを崩した。
「はあ!?」
「はあって?」
「いえ、や、あの、吃驚して!そういうこと言われ慣れてないんで」
「そうなの?可愛いな」
悟浄がぱらぱらと最新号のページを捲るのを、加瀬は内心の汗を拭いながら眺めた。しまった。絶対に舐められるなと交渉の仕方はさんざん叩き込まれたのに、うっかり動揺してしまった。これがこの人の手か?
「…悟浄さんって、いつもそうなんですか?」
「何が〜?…なあ、紙の厚さ前のとビミョーに違う気すんだけど」
…素か?
「すいません、言い忘れました。編集長が替わったの、先月なんです。中もだいぶ感じ違うと思いますよ」
「あ、そうなんだ。それでか」
トップが交代すると、とりあえずなんか新しくなりましたよ〜という社内的対外的アピールのために分かりやすく仕様を変更する。次に待ってましたとばかりにスタッフの入れ替えだ。恩義はあるがいい加減縁を切りたいスタッフや業者に「編集方針が変わったのでさようなら」という口実ができるからだ。ただでさえ人員整理で現場がばたばたしている時に、時間を食うデザイナーなんかに付き合っていられないんだろう。
★食べ物が美味しい季節ですね!でも僕的に一番美味しいのはブレザープリーツのメガネっ子♪ by八戒
コメントが一番上に移動していた。
「…加瀬くん」
「はい?」
「このいかしたコメントの八戒っていうのはどなた様?」
「ああ、編集長様です。猪八戒」
「ああそう」
悟浄はパタンと本を閉じた。
すごいな、世の中は。
同姓同名か。
「悟浄、ちょっと」
加瀬を下まで見送って、エレベーターのない古ビルの階段を上っていたら、途中の踊り場に社長がいた。
悟浄はその場で立ち止まり、逆光に手を翳した。眩しいからじゃなく、単に一拍おくために。
「なんすか、星野さん」
「さっきの加瀬くんの話、断って」
悟浄が黙って見上げていると、社長はふいっと目を逸らせた。
「吾妻がさぁ」
気のせいか遠く聞こえる社長の声は、妙に優しくて、粘っこい。
「ほら、三蔵さんの紹介ってこた、おまえ吾妻の仕事とっちゃって、また今回の仕事もとっちゃうってことだろ?会社ってもんはさあ、上下関係大事なのよ。新米にいきなりレギュラー任せるのは、いくら先方の希望っつっても、俺も不安あるしさ。おまえもあるだろ?」
…誰のせいで俺はいつまでも新米なんだよ。
「今回は他の奴に譲ってくんないかな。俺がやってもいいし勿論おまえにも手伝ってもらうし。そんで、もうひとりでも充分まわせるってことになったら、でっかいの渡すから。吾妻はチーフでおまえの先輩だからさ、顔立ててやってほしいんだわ。つか、それが普通?常識?分かるよな〜悟浄」
社長は言いながら階段をトントン降りてきて、すれ違いざま、軽く悟浄の肩を小突いた。
「おまえ、ちょっと調子のってんじゃねえの?」
そうか。
悟浄はそのまま階段を上がって、3階の事務所に戻った。全員が一斉に目を逸らせた。
ここには味方がいないのか。
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