私生活

act3


「姿勢悪いぞ」
「煙草くさいですよ」
「その椅子も金で買ったのか」
「人徳です」
 三蔵は、顔もあげない八戒を後ろから原稿袋で仰いだ。
「その人徳はいくらで買った?」

 普段は人が殺気だって走り回っている編集部も、今日は校了が済んだばかりののんびりムードだ。
 月に何度もない機会なので、いつもなら荷物を受け取るとすぐさまUターンする三蔵は、珍しくデスクで暇そうに新聞を捲っていた八戒に声をかけた。
 八戒と三蔵の肩書きは編集長と営業部長で、仕事上のパートナーでもあり修羅場の宿敵でもあるわけだが、そうなる前からツーカーだった。お互いに張り巡らした垣根の高さがちょうどよく、越える努力も一切しない。
 八戒は面倒くさそうに首だけ三蔵のほうに向けた。
「…三蔵。えらく暇そうですけど、勤務時間外ならともかく金にならない話に興味ないんです」
「藤堂出版の宣伝部長が左遷。株主総会で大失言」
 八戒はパチンと指を鳴らした。
「そーゆー話ですよ聞きたいのは!強請のネタができました。他には?」
 三蔵は深々と溜息をついた。
 この男は、わざわざ自分を冷血仕事人間に見せたがるところがある。笑顔になるのはいつも駆け引き上の必要にかられて。目の奥はいつも不気味なほど静まりかえっている。正直「仕事ができる」以外の八戒のいい噂を、三蔵はひとつも聞いたことがない。人使いが荒い。慇懃無礼。冷血漢。鬼。口を開けば仕事と金。商品の女に平気で手を出す。唯一の友人と言えなくもない三蔵にすら弱みひとつ見せない。完璧すぎる。
 それでも不思議に、八戒には人が付いてきた。つまり、彼には何か、あるのだ。気持ちは買えない。
「…おまえんとこの加瀬に、デザイナーを紹介した」
「貴方が?人を?紹介?やだな、行ったばかりの夏が帰って来そう」
「藤堂で使ってる星野んとこの悟浄。腕は並だがおまえ好みの現場バカ」
「ふーん」
 八戒は無表情で、拳の中でボールペンをカチカチ鳴らした。
「若いんですか?」
「おまえぐらいじゃねえか?」
「…じゃあ体力あるしツブシもききますね。結構。若さは貴重です」
 金で買えないからだろう、と三蔵は思ったが言わなかった。
「…それが編集長」
 島の端っこから加瀬が、授業中に教師に発言する生徒のような生真面目さでまっすぐ手を挙げた。
「どうぞ加瀬くん」
「先ほど悟浄さんからお電話があって、断られてしまいました」
「どうして」
「…それが、いまひとつ要領を得ないんです。とにかくできないの一点張りで」
「そうですか。ちょっと来なさい」
 八戒はボールペンで首のツボを押しながら、極普通の口調で部下を呼んだ。三蔵はやれやれと一歩下がって場所を空け、周囲の連中は慌てて椅子をひいて通路を譲り、加瀬はぎくしゃくと花道を通って八戒のすぐ傍に立った。
「貴方、直接口説きに行きましたよね。わざわざ地下鉄に乗って手土産持って見本誌持って時間さいて出向いたんですよね」
「…はい」
「会社の経費使っといて断られてしまいましたじゃないでしょうが」
 が、と同時にボールペンでカアンと机の端を叩かれて、加瀬は1センチほど飛び上がった。
 八戒は、編集の技術だの業界の知識だの、黙っていても必要にかられて本人が覚えることをいちいち教えたりしない。手取足取りで叩き込むのは人との交渉術だけ。
 部下が八戒についてくる理由は、それだった。新人だろうがなんだろうが一歩社外に出たら編集部代表で編集長代理だ。自分と同じぐらい部下を重んじる。自分に厳しいから部下に厳しい。
「…貴方まさか舐められたんじゃないでしょうね。貴方が舐められたということはすなわち僕が舐められたことになるんですけどね」
 加瀬は必死でぶんぶんと首を振った。
「そんなことはありません!お会いした時は、ええ、好感触だったんです、本当です。今日になって星野の他のデザイナーでは駄目かと言われて、先方は吾妻さんという方を推してらっしゃいます。腕は確かだと」
「あいつは駄目だ」
 部外者の三蔵が即答した。
「加瀬、俺は誰だ」
「…三蔵さんです」
「三蔵様だ」
「三蔵様です!」
 編集長様と三蔵様に挟まれた加瀬は、ちょっと泣きたく思いながらもきちんと復唱した。
「腕が立とうがナニが立とうが俺には関係ない、一分一秒でも早くあげる奴が、俺にとってはいい奴だ。吾妻にはよそで散々泣かされた。あの野郎を使うなら俺がここの担当下りる」
「え、そんな!三蔵様が下りるなら僕も下りたい」
 八戒は相変わらず無表情でボールペンを鳴らしつつ、窓の外に目をやった。
 ごちゃごちゃとビルが入り組んだ町だが、狭いながらも秋の青空が見える。
 …何度目の。
 何度目の秋。
「綺麗ですね」
「は?」
「空が綺麗」
 この男が空を鑑賞する感性など持ち合わせていたのか、ていうか今の話と空が綺麗とどう繋がる、それとも噴火の前触れか。
 周囲の連中が緊張の面もちで見守る中、八戒は椅子をくるりと回して、窓から加瀬に向き直った。
「…ま、いいでしょう。今日は機嫌がいいんです。番号ください。僕が話します」

 いい天気。
 悟浄は手を延ばしてブラインドを開けた。
「…悟浄、眩しい。閉めろ」
「ちょっと光いれるだけ。駄目ですか?」
 吾妻はやたらと穏やかな声音に驚いて顔を上げ、悟浄と目があうと慌ててパソコンの画面に視線を戻した。
 初対面から良すぎる愛想が気にくわなかったが、最近は気にくわないというより、不気味だ。
 例のトラブルの時、悟浄はまったく吾妻の仕事の遅さに触れず、ひたすら自分が横から仕事をひったくっただけのような言い方をした。おかげで減給をくらったのは悟浄ひとりだ。今まで散々文句たれといて、いざとなると庇うような真似する神経が分からない。恩をうったつもりか。
 自分を嫌ってることが充分分かってる相手に、なんで平気でにっこり笑ってきたりする。
 いったい何を考えてんだと吾妻を悩ませる悟浄は、実はもう既に何も考えていなかった。やめたのだ。
 このままで、流していけば、耐えられる。
 今日も今日とて遅めの昼食をとるべく席についた悟浄は、きちんと手を合わせてから箸を割った。
「いただきます」
「悟浄、峰倉出版から電話」
「ああもう!」
 悟浄は新たにわき上がった食い物への恨みに震えながら唐揚げ弁当の蓋をバンと閉めた。
 この会社はどうしても俺に唐揚げを食わせたくないらしい。せっかく心穏やかでいるべくしていた努力を邪魔するな。
「んだよ、さっき話したばっかだろうが加瀬!!」
 一瞬間があって、電話の向こうの相手がくすりと笑った。
「…あ?」
「はじめまして、悟浄さん」
 悟浄は慌てて居住まいを正し、意味もなく膝をはらった。
「あ、失礼。ええと?」
「編集長を勤めております八戒と申します。お時間、頂いても?」
 …ほんっと、いい天気。
 悟浄は灰皿を引き寄せた。
「どうぞ〜?」
「加瀬から話は聞きました。正直、うちとしては貴方でなければ星野さんのところにお願いする意味がないんですよ。うちのが何か失礼を?ギャラですか?スケジュールの都合が?」
「別にそういう訳じゃねえんだけどさ」
 悟浄はちらりと背後を窺った。社長もチーフもこちらに背を向けて作業中だが、間違いなく全身耳だ。
「三蔵が何言ったか知らないけど、俺、まだデザイナーっていえるほどの」
「デザイナーじゃなきゃ何なんでしょう」
 気のせいでなければ、今のセリフには明らかに棘があった。
 弁当を脇に押しやると、悟浄は受話器を握り直した。
「とにかく俺はできないの。他あたってくれる」
「序列ですか」
 またもやスパンと鋭い打球が返ってきた。
「まあ、そういうことでいいよ。悪いけど切るぜ。俺気ぃ短いんで」
「…これだから個人事務所は困るんですよ。どうせ芸術家気取りの連中が狭いとこで足の引っ張り合いやってんでしょう?こっちは仕事してるんです。いちいちくだらないプライド合戦に付き合ってらんないんです。吾妻さんとかいう方は貴方の先輩ですか?貴方が仕事を受けるとその方が怒るとか?そんなバカばっかの事務所で貴方いったい何やってんです。小学校ですかそこは」
 …声でけーっつんだよおまえは。
 悟浄はボタンを連打して通話の音量を下げた。
「あんたちょっとしつこくね?俺、気ぃ短いって言わなかった?編集長ってのは引き際もわきまえねーで勤まるわけ?加瀬のがよっぽど人間できてるぜ」
「そっちこそ恩を通して得になるボスかどうかぐらい見極めなさいよ。面白いぐらい成長しませんね貴方。昔から人を見る目ってものがまるでないからそうやって変な男にひっかかって」
「いい加減にしろ八戒!!」

 しまった。

 立ち上がった拍子に椅子が倒れ、驚いた誰かが筆立てだか何だかをひっくり返す音がした。
 悟浄はしばらく肩で息をしながら、八戒の笑い声が収まるのを待った。
 …この野郎。
「悟浄。こっちへいらっしゃい」
 八戒が俺を呼んだ。
「そこで返事ができないなら、今すぐこっちにいらっしゃい。九段下りて靖国通りあがって、ドトールの角曲がって西華学園の裏。すぐ傍です」

初めて俺に命令した。


 返事を聞く前に、八戒は受話器をぽんと落とした。
 …ほっといたら最後までシラきりとおすつもりだったか。
「八戒」
 三蔵が声をかけると、八戒はぼんやりと顔を上げた。
「…なんです、まだいたんですか。そろそろ働いたらどうです?」
「自分でどういう顔してるか分かってるか?」
 八戒はきょとんと自分を凝視している三蔵と加瀬を見比べた。
「どういう顔です」
「分からん」
「…分からんって何です」
「今まで見たことないから、分からん」

 来るか。
 来ないか。
 洗面所で念入りに顔を洗い、鏡を覗いた。
 大丈夫。いつもと変わらない。
 八戒は、今朝に限ってアイロンを省いて皺の寄ったシャツの襟を引っ張って延ばした。
 こんなに狭い業界にいて人脈を貼ってれば、何年かかっても、いつか、必ずどこかで繋がった。
 思ったより随分と早かったけど。
 シンクに手をついて目を閉じた。冷たい水滴が前髪を伝ってパタパタと落ちてくる。
「…やっと見つけた」

 来る。
 今、地下鉄に乗った。

 とっくに自分に気付いてたはずなのに、ああも白々しくシラをきったということは、二度と会いたくなかったんだろう。それだけ悟浄を傷つけたんだろう。
 いや、もしかしたら本気で忘れてたのかもしれない。

 ひさしぶりですね。お元気でしたか。
 昔のことなんかもういいじゃないですか。何年経ったと思ってるんです。

 普通に会おう。普通の顔で、普通の声で。悟浄もきっとそうするはず。
 
 もう僕を好きだった時の悟浄じゃない。
 もうキスも、別れすら、黙って貴方に任せてた僕じゃない。


 貴方の心変わりに怯えるような子供じゃない。




NOVELS TOP
act4→