私生活


act4


 雨が降っていて、やたらと肌寒かった。
 秋。たったひとりの家族を失った自分を労るどころか、誰も彼もが奇妙なものでも見るように見た。

 …見ろよ八戒。泣きもしねえ。
 つかなんであんな若造に社葬だよ。
 貴方を責める気はありませんけど、もう二度とお会いすることはないと思います。
 八戒さんもまだ若いし、人生これからでしょう。
 おまえのせいだろ。
 君のせいじゃない。

 みんな同じ黒い服で、誰が誰だか分からない。靴に泥が跳ねる。湿気で喪服が重い。髪が額にべったり張り付く。
 八戒は仰々しいイベントのまっただ中にいながら、葬儀の間中、ひたすら左手の指輪を回し続けた。
 読経が不意に、ぐわんと膨らんだ。

 …ああ、気持ち悪い。吐き気がする。

「外の空気吸うか」
 思わず俯いた途端、八戒の腕を掴んで寺の裏手まで連れて行ってくれたのは、社長だった。
「喪主が中座したからってどってこたねえよ」
「…そうでしょうか」
「おまえな、新婚3ヶ月目に奥さんが自殺だぜ。泣いてるとでも思うよ。つか、ちょっと濡れろ。見栄えがいい」
 軒下で、社長はネクタイを緩め、煙草の煙を雨の中に細く長く吐き出した。
 八戒の出世は確かに異常なほどに早かったが、一社員の身内の葬儀を会社が仕切るのは勿論異例だ。
「なんで社がおまえにそこまですると思う」
「…さあ」
「おまえが葬儀代の何百倍何千倍の金をこれから稼ぐから」
 八戒は、これもまだ若い社長の、まったく無表情な横顔を驚いて見詰めた。
 この社長に格別目をかけられていた覚えはない。そもそも彼は週の半分しか出社せず、事務的なことは統括部長に人事以外の全権をまかせ、ここぞと言うときに決済する、如何にもボスらしいボスだった。それだけに社員教育は徹底していて、少しでも社にマイナスになる人間は言い訳の機会すら与えられず首をきられた。いないはずはない「仕事のできない人間」をこの会社で見つけることは難しい。人を見る目にかけては、ある種の天才だ。手が足りないという理由での人員補充を許さないため、常に社員は激務を強いられていて、そのことで不満の声もないではなかったが、八戒にしてみれば激務のストレスより、使えない人間と仕事するストレスのほうが遙かに酷かった。
 尊敬はしていたが、まだ肩書きもない八戒は、そこまで自分が買われているとはまったく思っていなかった。
「社の連中に何言われても気にするな。あいつらを喰わせてやってるのはおまえなんだからな」
「…はぁ」
「さあとかはあとか言うな。人の上に立つ気なら二度と曖昧な返事はするな」
 社長は八戒の背中をバンと叩いた。
「おまえが仕事仕事で家にも帰らず知らない女抱いて人に恨まれる汚い人間だから女房が死んだのか、他に理由が有ったのか、俺は知らん。だがおまえも知らん。誰も知らん。本人も知らんかもしれん。分かったら背筋延ばせ」
「はい」
「まあ、あれだ。今後ともよろしくだな」
「…はい」
 軒下から一歩、石畳の上に踏み出した。バラバラと誰かが投げつけた石つぶてのように、八戒の上に水が降った。

 誰かが自分を責めている。
 彼女か。神様か。あの人か。

 八戒に身寄りはひとりもいなかったので、喪主とはいえ集まった身内はすべて彼女の親族だ。
 その場で縁切りを申し渡された。八戒は黙って頷き、頭を下げた。
「幸せにしてあげられなくて申し訳有りませんでした」

 彼女のことは好きだった。とても好きだった。
 だけど、今から思うと、男が女を愛するようには愛していなかったのだ。
 就職してから知り合った彼女は化粧品メーカーに勤めるOLで、さっぱりとしていて明るかった。だから余計に、仕事に賭けるということと彼女を好きでいるということが、何故天秤にかけられるのか、八戒には理解できなかった。何故仕事に打ち込むことで彼女が悲しむのかが分からなかった。何故仕事の邪魔になるのか分からなかった。仕事で女を抱くことが何故彼女に対する冒涜になるのかが分からなかった。八戒にとって、それはまったく別次元のことだった。
 つまり八戒は彼女のことを、どこかで「同志」だと思っていたのだ。
「不器用だったってことか」
 葬儀の後、こういうことにはとことん不得手と思われる三蔵が、居酒屋でめかぶを掻き回しながら呟いた。こういうときに静かなバーを選ばないところが、三蔵なりの気遣いなのだ。多分。それ以前に、喪服で薄暗いバーに座ってたら絵面的にちょっと怖いが。
「大概の男はどっちも巧くバランスとりながらやるんだろ。おまえはどっちもはできなかったってことだ」
「…そうですね」
「それにもっと早く気付かなかったのは、まさに不幸だ。ご愁傷様だな」
「…ありがとうございます」
「女は好きか?」
 突然顔を上げた三蔵は、真顔のまま、この世でもっとも三蔵に似つかわしくないと思われる質問をした。八戒は冷酒で口の中を潤してから頷いた。
「…好きだと思いますけど。普通に」
「男でもいいじゃねえのか?」
「は!?」
「おまえ、野郎の親友と同じことを女房に要求してたような気がすんぞ」



1階の受付に常駐している警備員が、自動ドアが開ききる前に飛び込んできた人影に気付いた時には、そのやけに派手な容貌の男は受付を突破しエレベーターの前を通り過ぎ、更に奥の階段をもうかなりの高さまで昇っていた。
「ちょっとあんた!部外者は立ち入り禁止だよ!どこの部署に用事?受付通して!」
「ああ!?うっせえな、八戒だ!」
「八戒編集長?なら3階だけど、あんたどこの誰?今内線かけ…待てっつってんだろうがこら!」
 一歩で6段駆け上がった男を追って追いつけるかどうかの判断がつかない警備員ではない。彼は慌てて電話に飛びつき、番号を押した。部外者をそのまま通したなんてことがばれたら、あの鬼社長に即刻クビを切られる。
「はい、四部」
「八戒さんですか。受付です。今、あの、八戒さん宛の来客がみえて」
「そうですか。応接にお通ししてください」
「それがもう」
「もう?」
「…着く頃かと」
 聞き返す前に、ガラスがビリビリ震えるような大声がフロアに響き渡った。

「はっかあああああああああああああああああい!!!!!!!」

 八戒は、フロアの入り口に立ちはだかった男を凝視したまま、受話器を置いた。
「…悟浄」
 八戒の部署は一番奥で、八戒の席はそのまた奥だ。フロアにいた二十数名が一斉に入り口を見て、続いて一斉に八戒の方を見たことによって八戒の位置を確認した悟浄は、フロアの構造も無視してずかずかと最短距離を直進してきた。
「悟浄」
「おう!」
 悟浄は肩にひっかけていたデイパックをガンと八戒の机に放り投げた。
「喧嘩なら買うぞ!!」
 喧嘩を売った覚えはまるでなかったが、それより何より想像していた登場の仕方とまるで違うので、八戒は少々度肝をぬかれて数年ぶりの悟浄を眺めた。元が派手なので目立ちまくってはいたが、なんてことはない黒のシャツにジーンズ。昔はじゃらじゃら鳴らしていたアクセサリーがひとつも見あたらない。コロンの香りもしない。悟浄だけ。それに、痩せた。
「悟浄」
「何!」
 ようやく追いついた警備員が職務に燃えて警棒を抜いた。それでなくても八戒には、仕事の関係上あまり柄のよろしくない来客が多いのだ。
「ちょっとあんた!ナニ関係!」
「…ナニ関係って。こいつのダチだよ」
「ダチ!?」
 復唱はほぼフロアの全員から起こった。トイレから手を拭きながら出てきた加瀬が、慌てて走り寄ってきた。
「ご、悟浄さ、え、ダチって?ダチですか?」
「おお友達の略だ。大学ん時の同級生…」
「友達!?」
 二回目の大合唱に、ようやく悟浄は気味悪そうに周囲を見渡した。
「…なんだよ、おまえこんなに分かりやすく友達いねえの?まさかこうなるんじゃねーだろーなと思ってたとおりの社会人になりやがって、ほんっと期待を裏切らねえな。はいはい雰囲気はつかんだ。で?ナニ?人の仕事に難癖つけて偉そうにここまで呼びつけといて茶も出さねえのか、この王様は」
 もっと、居心地の悪い、気恥ずかしい再会をすると思ってた。
 おひさしぶりですね。
 昔のことなんかいいじゃないですか。
 思ってもいないきれい事を言う準備をしていた八戒は、一気に何を言ったらいいのか分からなくなって、ついそのまま言った。
「悟浄」
「何回も呼ばなくても俺だよ」
「会いたかった」
「そうだろうな」
 悟浄はジーパンの後ろから震えだした携帯を引っ張り出し、すぐさま電源を切ってパチンと閉じた。

「実は俺もだ」

 ふんふんと鼻歌を歌いながら4階のフロアを出てきたところで、社長は三蔵に出くわした。
「よーう、三蔵部長。景気はどうよ」
「おかげさまで。それよりネタが欲しいんだろうが。八戒にちょいちょい入れてんぞ」
 社長は三蔵のタメグチにはまったく頓着せず、眠そうに瞼を擦った。
「はっかいぃ?あいつ苦手なんだよな〜暗いしよ〜怖いしよ〜可愛くねえしよ〜」
「ちょっと失礼!」
 たらたら喋りながら階段を降りてきたふたりのすぐ脇を、下から駆け上がってきた噂の八戒が走り抜けた。
「おいおいおい!」
 続いて八戒に手を引っ張られて上がってきたチンピラが、三蔵を見てにっこり手をあげた。
「よう金髪美人!こないだはどうも…」
「悟浄、話は後で!」
 バタバタと屋上に消えていったふたりを見送ると、社長はこれまた呆気にとられたふうの三蔵に向き直った。
「…なんだ?どっからつっこんでいいのか分からんぞ?」
「走ってることか?おてて繋いでたことか?赤いののことか?最後のしか俺は知らんが」
「…いや、それはどうせナニ関係の奴だろうが」
 社長は何度も上を見上げながら煙草を銜え、三蔵が横から火をつけた。
「えっらく可愛い顔してたな。驚いた」
 ああ。
 三蔵は電話を切った直後の、あの八戒の妙な顔を思い出した。

 可愛い顔というのか、あれは。


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