私生活
act5
いっつもひとり。
八戒に対する印象は、最初から最後までそれだった。
大学時代、悟浄の周囲にはいつも性欲の塊みたいな女が派手なルックスや垂れ流すフェロモン目当てで取り巻いていて、その女目当ての男もうじゃうじゃ寄ってきた。だから悟浄はいつも、人と人の隙間から八戒を見つけた。
教室の隅や窓際で、八戒は文庫本のページを捲り、時々顔をあげて埃でも目で追うように自然に悟浄を探す。人波を縫って何とかお互いの視線があうと、いつも少し躊躇ってからあるかなしかの会釈をした。八戒が話しかけてくるまでの2週間程度、その無言の会釈は続いた。
…なんて言ったっけ。
そうだ。「よく会いますね」だ。
下宿で一人暮らしをしている生徒と自宅通学の生徒では、はっきりと振りまく空気に差がある。バイト料が専学の授業料で片端から消えていた悟浄だが、それでも毎日浴びる養父母の愛情や何不自由ない生活は、贅沢で自堕落な余裕に化けて、無意識に、垢のように、悟浄に張りついた。つるむ連中が下宿組と自宅組に自然に別れる中で、まさか八戒と悟浄が「親友」になるとは誰も、本人たちも思わなかった。
悟浄とそうなることで、八戒はますます浮いた存在になった。来るもの拒まずの悟浄が、八戒といる時には必ず他の連中を追い払う。普段愛想がよく垣根の低い悟浄に決然と拒絶されると、もう誰も近寄れない。怯まなかったのは宮ぐらい。悟浄の独占欲は簡潔明瞭で分かりやすい。八戒は、悟浄より更に、悟浄だけでよかった。器用に見えて不器用な彼は同時にいくつものことに関心がもてない。もう既に悟浄で手一杯で、他の人間と時間をかけて交流する余裕がなかった。学校に行って、バイトして、残りは全部悟浄にあてた。そうしながら、そうしていながら、そのことを悟浄に伝えなかった。だから終わった。
八戒を覚えてる。いつもひとりだった。
自分といる時もひとりだった。
ふたりになりたかったのに。
ひとつにはなれないが、ふたりになりたかったのに。
今はどうかな。
悟浄はさっき、また、人と人の隙間から八戒を見つけた。昔と逆だ。今度は悟浄がひとり。
確か「茶ぐらい出せ」と言ったはずなのに、八戒は悟浄をいきなり屋上まで引っ張り上げた。
東京のど真ん中は日没が早い。地平線の遙か手前でビルの狭間にさっさと沈んでしまう。八戒は薄暗くなってきた屋上をすたすたと端まで歩いていき、何か掴んでないと沈むとでもいうように左手で柵をしっかり掴んでから、悟浄の手を放した。
「地味になりましたね」
地味。悟浄は自分を見下ろした。確かに地味かもしれない。ピアスの穴も塞がった。大げさでもなんでもなく毎日生きるのに必死で、今日自分が何を着てるかなんて言われるまで気付かなかった。
「おまえは派手になったな」
「そうですか?」
「何そのたっかそうな服」
八戒はシャツの襟を何度か引っ張った。
「…昔と逆ですね」
続きは向こうから喋り出すまで待つことにして、悟浄は煙草に火をつけた。
八戒に会いたかったのは本当だ。活字で印刷された名前を見た途端、いつか会うだろう覚悟はしてた。八戒とは昔からよく会うから。どうせいつか会うならさっさと会いたかった。電話で惚けたのは、ただ、仕事を口実に会うのが向こうにとって歓迎すべきことなのかどうか分からなかったからだ。どうやら公私混同を気にしないと分かったから、そういうスタイルだと分かったから、悟浄のままで会いに来た。
会ってしまえば、あの時あんなによく見えた八戒にもう一度だけでも会ってしまえば、いつ会うかいつ会うかとハラハラせずに済む。駅のホームですれ違っても「よく会うな」と笑ってしまえる。
まさか本気で仕事の話しに呼んだんじゃないだろう。だとしたら屋上なんか連れてこないでそのへんのブースで…
「仕事の話なんですが」
「おいおい」
飛び乗ってみたら逆方向、の電車みたいな奴だ昔から。
「屋上なんか連れてくるから、聞かれちゃまずい話でもすんのかと思ったじゃねえか!」
「仕事の話も他部署に聞かれちゃまずいんです。敵ばかりなので」
敵。
周囲に大勢人がいると思ったけど、まだこいつはひとりなのか。
「デザイナーが緊急に必要なのは本当です。三蔵が人を紹介するなんてこと滅多にないんです。担当は加瀬ですから、この仕事を受けてもらっても僕と交渉することはまずありません。つまり貴方が、僕が嫌で受けないっていうなら」
「子供じゃあるまいし」
八戒がこっちを見た。
「仕事は何でもやりてえよ、加瀬のことも気に入ってる。でも電話でおまえが言ったとおり、今の雇い主の意向に逆らう訳にはいかねえよ」
「そんなとこやめちゃえばいいじゃないですか」
「軽く言うなこの不況時に」
「そんな下働きばっかみたいなところにいたって」
「下働きだろうが上働きだろうが俺の仕事。俺が言うならともかく、部外者のおまえに文句言われる筋合いねえ」
八戒はしばらく黙ったあと、夕日に向かって「すみません」と呟いた。
…ああ、やっぱり普通の男だ。
どれだけ出世したのかしらないが、自分がいる場所からしかモノを見ないで人を見下す。
悟浄はあ〜あとノビをして、あくまで軽く明るく手を挙げた。
「用がそれなら帰るわ。ひさしぶりにおまえに会ってなんかすっきりしたし。三蔵と加瀬によろしく。何年か経ってまだ人がいなかったら声かけて」
鞄を肩に担ぎ直して出口に一歩向かったところで、八戒がいきなり肩紐をひっつかんだ。
「悟浄」
「な、何」
「キスして」
「は!?」
してと言いながら、八戒は悟浄に何もさせなかった。気が付いたら背中の真ん中辺りで、押しつけられた柵が軋んでいた。
「……っ」
悟浄は目を見開いたまま、八戒の長い睫を凝視した。
…柔らか…。
舌が、根を下ろしている物としてはあり得ないような動き方で乾いた口の中を這い回り、丁重に歯茎から頬の裏側まで舐って、抜かれたというより、生き物のように出ていった。
「巧くなったでしょう」
八戒の目は潤みもせず静まりかえっていて、喧嘩を売る時と寸分変わらない。後に悟浄はこの八戒を「戦闘モード」と呼ぶことになるが。
「今、貴方、僕に見下されたと思ったでしょう。昔は根拠もなくそうしてましたよ。今は下地があってそうしてるんです。堂々と見下してるんです。一緒にしないでください。貴方と別れてから僕は仕事だけしてきました。それ以外何もしてない。そのために役に立つことは全部覚えたんです。今は貴方より力があって貴方より人脈もあって貴方よりキスも巧い。僕は経験で言ってるんです。貴方のボスはろくでもない、下の下です。我慢してるうちに時間が経って歳とって売値が下がる。いいですか、バカは伝染るんです。バカといたらバカになる」
キスを役立てるような仕事の仕方、というものについて悟浄があれやこれや想像している間に、ずり落ちた悟浄の体を跨いだかっこうの八戒は、悟浄の額に額をつけた。
「…貴方はもう少し体重増やしたほうがいい」
「…そう?」
「どうせ体重計にものってないでしょう。5キロは痩せた。ピアスはどうしたんです、自慢だったでしょう。そのシャツも大学ん時から着てる。ひっかけて飛ばした袖のボタン、僕がつけたんです。そんな物いつまでも未練たらしく着ないでください。食事もまともにできない、服にも気がまわらない、そんな余裕まで取り上げる職場、見下して何が悪いんです。そんなとこでぐだぐだやってる貴方を見下して何が悪いんです。余裕がなくて、どうやって感性養って、どうやっていい仕事するんです」
八戒は何の淀みもなく、一気に喋った。抑揚がないでもない、感情がないでもない、ただ聞かせるための声の調子。
素じゃない。仕事用だ。誰かに似てる。…加瀬。
加瀬を仕込んだのはこいつか。
悟浄はまだ感触が残る唇を拭って、最後にキスしたのは誰といつのことだったかと考えた。思い出せない。セックスも。最後にCD買ったのはいつだっけ?映画は?茶店で茶呑んだのは?時間が無い訳じゃない、そういうことをしようという気持ちがなかった。八戒の言うとおりだ。なんて余裕のなさだ。ちょっと、異常だ。
ああ、今の八戒が「昔いろいろあった友人」じゃなく「取引先の上司」なら、ぼんやりしてる場合じゃない。
「…ブレザープリーツのメガネっ子」
「は?」
八戒は弁舌を遮られて一瞬眉を顰め、あっという間に真っ赤になった。
「…かーわいー」
「あ、れは、あれは、それ用の」
「今急に思い出したから言っただけ」
「…そうです、か」
八戒がやっとリズムを崩してくれたおかげで、悟浄も今までぽかんと聞いていた八戒のセリフの中身をようやく冷静に吟味する時間ができた。
星野。
吾妻。
…味方がいない、あの職場で、今後、風が変わることが、もし、もしないとしたら。
八戒はようやく悟浄の上からどいて体をずらし、少し離れて隣に座った。もう辺りは濃紺一色だ。下から谷間風が吹き上げて、八戒の服の裾が悟浄の腕に触れる。
「そこまで言うってことは、俺にメシ食わせていい服着せてピアスさせてくれるってこと?」
「貴方次第ですけど」
不意をつかれて不抜けたのか八戒の声は僅かに緩んで棘もない。
「うちの4部は売り上げトップなんですけど、なんと2部には専属デザイナーがいて、うちにはいないんです」
「なんで2部にはいるのよ。雑誌多いとか?」
「アルバイトに来てた子がデザイナーの卵だったんで、なし崩しにそういうことに」
悟浄は延ばし放題で肩より遙かに下にある毛先を捻りながら「ああ」と呟いた。
「先の人材を見る目で出遅れて頭にきてる訳だ。どうせ2部の編集長が同期かなんかだろ」
「勘がいいことですね」
八戒は実に嫌そうに言った。
「ちょっと待て、俺に4部の専属になれってか?」
「貴方次第ですけど。貴方が僕の部下になるのが嫌なら」
「んなことどうでもいいんだよ、おまえが公私混同が平気なのも分かった、おまえには人事権があんのか?」
「混同なんかしてませんよ、全部“公”です。社長面接を突破していただければ後は何とかします。貴方が決めてください」
いくらなんでもタイミングが良すぎる。
八戒が、出版社に入社して、編集になって、今、専属デザイナーがいなくて、悟浄が、デザイナー?
「考えとく」
悟浄はあっさり言って、立ち上がった。
八戒も、つられて立った。
「ひとつだけ」
「はい」
「俺を捜したか?」
八戒の表情はまったく変わらなかった。変わらないように見えた。暗すぎるが。
「…何のためにです?」
「例えば、俺に惚れたから。昔と逆で」
「まさか」
「ならいい。ちゃんと考えとく。早めに返事する」
悟浄は八戒と、携帯の番号を交換して別れた。
さて。
帰宅ラッシュに揉まれながら、悟浄は帰社が遅れた言い訳を考えつつポケットの中の携帯を弄り続けた。
覚えがある。誰かに去られると、その途端その誰かに心が移る。例え好きでなくても、いっこ前の奴、いっこ前の奴が心に居座る。
なくなってからしか気づかないことは確かにある。そういう人の気持ちは、ある。
もし八戒にそれがあるとしたら、卒業してから何年も八戒はそれを持ち続けたことになる。
どんなに軽くても、抱える時間が長ければ長いほど、いつかは腕が痺れて、派手に落っことす。
まさか。
笑った気がする。きっと笑った。
ならいい。
後から何言われても本当にしょうがない。
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