私生活
act6
やり方を忘れていたらどうしようかと思ったが、流石にそれはなかった。
慎重に体の全部を使い、ひとつひとつ基本をなぞって、馴染んだ肌にゆっくり入った。
「随分余裕ね」
「枯れたんじゃね?」
「痩せたし」
「げ。ココも痩せた?」
宮はうっすら笑って、終わった後もぐずぐずと上に跨っていた悟浄の両肩を掌でとんと突いた。
悟浄は素直に後ろに倒れ、余韻を楽しもうと挿れたままだったものがずるっと抜けた。
「…ほぉら、軽くなった」
宮は大学時代と同じ部屋に住んでいて、悟浄からの突然の電話にも昨日別れたばかりのような愛想の無さで出た。「行っていい?」宮は一瞬間をあけて「来れば」と言った。「いつも勝手に来て勝手に帰ってたじゃない」
改めて文章にされると随分酷い所業だが、そう言えばそのとおりだ。天井を見上げたまま動かない悟浄に一向構わず、宮はさっさと起きあがって服をひっかけ、ぺたぺた歩いて冷蔵庫の扉を開けた。
「水にレモンね」
「…おー…」
「それは変わんないのね」
冷水にレモンと氷を入れたグラスを腹に押し当てられて、ようやく悟浄はのろのろと体を起こした。体液であちこちべたついて、身動ぎするたび湿ったシーツが足に張り付く。そうだ、こんな感じだった。…セックス。
「…レモンてふつーに常備してるもんなの?」
「しないわよ。買ったのよ。わざわざ。わざわざ」
「コンビニだろ?」
「は?文句あんの?」
自分のために誰かが何かしてくれるなんてひさしぶり。
「ありがと」
あの日を境に、悟浄は少しおかしくなった。自分ではいつもと変わらないつもりだったが、あのチーフに「具合でも悪いのか」と口走らせる程度にはおかしくなった。打てば響くようだった反応が、2,3秒遅れる程度に。誰かに促されるまで食事も忘れる程度に。悟浄にあたらず触らずだった会社の連中が、さすがに原因を問いただしたほうがよいだろうかと気を揉みだしたその途端、悟浄は階段から転げ落ちた。
「わ!悟浄!馬鹿!」
「おい起きねえぞ、死んだか!?」
大慌てで階段を駆け下りた社長の目の前で、悟浄は何事もなかったようにむっくりと起きあがり、真正面から社長を見て棒読みした。
「明日休んでいいですか」
「…今から休んでくれ」
手摺りで強打した額に絆創膏を貼り付け、悟浄は何年かぶりに昼間に人混みを出歩いた。買い物をして、外でのんびり珈琲を飲み、声をかけてくる女の気分を害さないよう、きちんとあしらった。ひさしぶりにあの本屋、あの公園、あの店にも顔を出そう。何度も電車に乗ったり降りたりし、立て続けに煙草を灰にし、日が傾いた頃に降り立った駅に、4年間通った大学があった。
「…ふうん」
校舎のシルエットがよく見えるよう、悟浄は夕日に手を翳した。
最終の講義を終えた後輩たちが次々と改札に雪崩れ込んでくる。
ここに来たかったのか。遠回りしながら、途中下車しながらここに向かってたのか。確かに、いいかげん思い出と和解する時期だ、と悟浄は人ごとのように納得し、昔はなかった駅のホームの「喫煙コーナー」で新たに一服してから宮に電話をかけた。
自分のことは自分で決めた。誰にも相談したことはなかった。そうしようと決めていた訳ではなく、そうするもんだと思っていた。実際、悟浄には迷うということが今までなかった。
でも限界だ。今、自分が限界だ。どうしたらいいのか分からない。足を次にどこへ下ろしたらいいのか分からない。ぐちゃぐちゃだ。
「…こーゆー時に女に頼るって、男としてどうよ」
「あんたなんか男と思ってないわよ」
宮はすぱあっと音を立てて煙を吐いた。
「私も暇じゃないの。本命が来る前にシーツ替えて貴方の痕跡消さなきゃいけないの。さっさと用件言ってシャワー浴びて帰って」
「…だから転職しようかどうしようかで迷ってるって言ってんじゃん。え?俺、本命じゃないの〜?」
整った眉が微かに上がった。気付いた悟浄が何か言う前に、顔に枕が飛んできた。
「貴方がそんなことで階段から落ちるほど迷うわけないでしょうが。そんなことなら私のとこなんかに来ないで会社の業績調べて待遇調べて退職者捕まえて話でも聞いてるでしょう。いいかげん認めなさいよ。迷ってるのは仕事のことなんかじゃない、調べても分からないこと、そして私にしか言えないこと」
「…何」
宮はしばらく自分で吐いた煙を目で辿ってから、微笑った。困ったような、拗ねたような女の唇が悟浄にゆっくり近づいて、絆創膏の上で音を立て、離れた。
「…八戒といるかいないかで迷ってるのよ。貴方は」
1時間後、悟浄は宮に、あまり優しくもない見送られ方で見送られて外に出た。もう辺りは真っ暗だ。
悟浄が裏門から構内にすたすた入るのを、守衛はまったく咎めなかった。どうやらまだ大学生で通るようだ。人目を引かない程度にきょろきょろあちこちを見渡しながら懐かしい校舎に入り、大教室の戸をそっと引いた。壁際のスイッチを手探りで押すと夥しい数の蛍光灯が点き終わるまでに10秒もかかった。人がいないと余計に広い。手近の席に腰掛けてみると黒板がとんでもなく遠い。確か講義はいつも後ろのほうで半分寝ながら受けていた記憶があるけど、この距離からちゃんと文字が見えたんだろうか。それともノートは全部、ど近眼のあいつに全部とらせてたんだったか。
机に肘をついて、右目と左目を交互に塞いでみた。就職してから随分と視力が落ちた。
ここまで易々と来られるぐらいに俺は成長していない。…むしろ。
「なめんじゃねえよ」
勝手に口から飛び出た言葉に驚いて、悟浄はパタンと手を下ろした。そのまま、ゴンと机に額をつけた。
子供じゃあるまいし。
仕事ならなんでもしてえよ。
嘘ばっか。かっこつけて嘘ばっか。
なめんじゃねえよ。俺はそんなに大人じゃねえし俺の好きはその程度じゃねえよ。「よお、ひさしぶり」で済む程度じゃない。本気で好きだった。本気だった。気ぃ狂いそうだった。髪の毛一本でも他の奴にやりたくなかった。でもあのクソ野郎は俺に何もくれなかった。たったひとこともくれなかった。僕じゃないほうがいいですよ、他にもっと貴方に優しい人がいますよ、そう言って突き飛ばした。だからお望みどおり消えてやった。必死で忘れて、忘れて、忘れかけた。会うなら会うでしょうがない。生きてりゃそりゃ会うこともある。いつでもその覚悟はしてた。八戒の会社へ向かう地下鉄の中で、必死で吊革に捕まって、おまえはどうして欲しいだろうって、どういうふうに目の前に出てきて欲しいだろうって、どうやったらおまえの気が楽だろうって、見ろ、この期に及んでおまえの心配だ。俺はあいつを憎んでた。本気だったから心底憎んだ。でも、会えば、話せば、蟠りが解けて、楽になると思ったのに。
どの面さげて「会いたかった」だ。どの口で「専属になれ」だ。
何で俺を傍に置けんの。俺が平気だと思ってんの。おまえの顔毎日見ながら、俺が平気で働けるとでも思ってんの。
そんなの、おまえにはどうでもいいの。
大人になったら、平気になるのか。
虫歯の数から体の中まで知り尽くした宮の説教は、悟浄を半端なく揺さぶった。
男としてとか仕事としてとか言い訳したって結局は、転職先に昔の男がいるってだけで尻込みするガキよ。
社内恋愛で破局するたび転職繰り返すバカOLと同じよ。
八戒と別れて私んちに泣きに来た、昔の貴方とおんなじよ。
「はいはいすいませんでした!もう大丈夫です!」
悟浄は右耳に携帯を押し当て左耳に指を突っ込んで、ほとんど怒鳴るように返事した。新宿23時。
唸るような喧噪と騒音がいっしょくたになって蜜蜂の羽音のようにわんわん響く。
「おまえどこにいんだ!?外だろ、外だな、会社休んでいいご身分だな!」
休めっつったの、てめえだろうが。
こちらはともかく会社にいる側が怒鳴る必要はないと思うが、電話の向こうの星野社長は悟浄と同じ音量で怒鳴り返してきた。何も帰る前に寝酒でも仕込むかと新宿に出てきたタイミングを見計らって鳴らしてくるこたないだろう。JRのアナウンスまでばっちり向こうに筒抜けだ。
「明日早出だ!8時!酒の匂いさせてたら殺すぞ!」
「はいはい」
「スーツ着てこい!」
「は?」
「スーツだスーツ!岩見さんとこの接待!」
いわみって誰、と言ってる間に通話が切れた。
「…早く言えよ」
悟浄のワードローブに「スーツ」なんて小洒落たものはない。いくら新宿が不夜城だからって23時にスーツひと揃え購入可能な店など、あるにはあるだろうがすぐさま見当がつかない。悟浄は路地裏に1本入って電柱に凭れ、こそこそと財布の中身を確認した。7000円。
「…うわ」
ばっちり寝酒料金だ。女に奢る金もない。昼間に仕事抜け出して金おろして買いにくるか、それとも今から実家に戻って親に借りるか。いや、それは嫌だ。第一義父の体重は自分より30キロは重い。ただでさえ打ちのめされてる時に、なんだって次から次へと面倒が湧いて出る。
「…なとこにいんだよ!」
「金だろ、金!」
いきなり耳に飛び込んだ罵声に悟浄がおそるおそる振り向くと、路地の奥で素行のよろしくなさそうな連中が輪になっているのが見えた。新宿では珍しくもない、絵に描いたような不穏な空気。柄シャツだの黒スーツだの如何にもな連中が取り巻いたその中心に、これまた分かりやすく書類鞄を抱えた会社員。そいつはチンピラからとんと肩を小突かれて、一歩蹌踉めいた。
どこからどう見ても絡まれている。ぼったくりバーかなんかの被害者だろうか。
こんなことに首をつっこむほど物好きじゃない。触らぬ神になんとやらで速やかにその場を立ち去ろうとした悟浄は、ふと足を止めた。
…セックスもご無沙汰だけど喧嘩もご無沙汰だな。
悟浄の思考はたちまち飛翔した。
ちょっと、やるか。やって勝てばすっきりするし、ボコられて顔が変われば接待がさぼれる。一石二鳥。
よし、今日は社会人忘れた。
「おーい」
悟浄はぐるりと体を反転させた。
「なぁにやってんのあんたら。あんま阿漕なことすっと天誅が」
「あ、悟浄」
突然輪の中心から呑気な声で呼ばれた悟浄は素早く身を翻したが、結果的に360度一回転しただけの襟首を掴まれた。
「悟浄〜ちょうどいいところに〜」
「いや!なんか間違えただけだから!」
八戒は満面の笑みで悟浄の腕に腕を絡ませた。
「紹介しますね悟浄。こちら僕の取引先の事務所のすっごく下っ端の方々。今日はプライベートですって言ってるのにこんな路地裏で契約の話なんか持ち出されちゃって困ってたんですよ〜」
すっごく下っ端の方々が一斉に殺気だち、今度は悟浄ごとわらわら囲まれた。
「あんたにプライベートなんかねえだろうが先生!また勝手にうちの商品に手ぇ出しやがって何企んでやがる、裏でこそこそ小賢しいったらねえ!」
「だからそんなことしてませんて。貴方がたみたいに紳士的じゃない方が多いから、僕も悟浄みたいな人雇わなきゃいけなくなるんですよ。ね?悟浄」
なんのこっちゃ。
「…なんだそのチンピラ。先生のボディーガードか?」
「ま、そうです」
品定めする視線が体を撫で回している間、悟浄は欠伸をひとつして煙草を引っ張り出し、のろのろと火を点けた。ひとりまったく場違いなテンポで動く悟浄を、取り囲んだ5,6人は呆気にとられて眺めている。煙を三連のわっかにして吐いてから、悟浄はさも面倒くさそうに周囲を見渡した。
「やる?」
「…もういい馬鹿馬鹿しい」
柄シャツが呟き、ばらばらと輪が解けた。
「先生、明日うちんとこ来い。きっちり話つけるからな。なんなら弁護士呼んどけ。あー医者もな」
「どっちも連れて伺います。社長さんによろしく」
「ボディーガードはいらねえぞ!」
男どもがぶつぶつと地下への階段を降りていき、完全に姿が見えなくなった途端、八戒は悟浄の腕をぱっと放した。
「だてに喧嘩慣れしてませんね悟浄。あの気勢の削ぎ方はお見事です」
「場が読めてなかっただけだ!何だあの連中!」
「取引先です」
「あれが!?」
八戒はまだ連中が消えていったビルに目をやったままだ。
「貴方には関係ありません」
その冴え冴えとした物言いとキンと張りつめた険しい横顔に、悟浄は思わず後ずさった。
もしかしたら、こいつは。
「…あんなやり方してたらいつか痛い目にあうぞ」
「慣れてます」
ぽんと服を払ってようやく悟浄に向き直った八戒は、別人のように穏やかな顔になってにっこり笑い、頭を下げた。
「ありがとうございました悟浄。助かりました」
「いやまったく何も」
「貴方はどうしてここに?今日は仕事は終わったんですか?」
「…ああ、うん。休み」
「時間があるなら、御礼に一杯奢りましょうか」
言いたいことがたくさんあったはずが言葉にならない。なったところで今の八戒に言うことじゃない。
それに思い当たった途端、はっきりと、悟浄の頬が熱くなった。恥だ。俺。
もしかしたら、こいつは、今、本当に仕事だけなのか。
「八戒」
「はい」
「…スーツ貸して」
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