私生活


act7


「あ、あれ!?編集長」
「えーと、今日は直帰じゃなかったんですか」
 八戒がフロアの扉をバンと開けると、微妙に浮ついた部下の声がばらばらあがった。
「…すいませんねぇえ。予定が変わったもので」
 低音で答えた八戒の後ろで、悟浄は危うく噴き出しそうになるのをなんとか耐えた。
「なんです悟浄」
「いえ何も」
 俺のせいだった。
 八戒はさっさと帰って欲しい上司ナンバー1のようだ。ボスの不在でくつろいでいたところに急のご帰還、何人かは腰掛けていた机から慌てて飛び降り、加瀬はほおばっていた菓子をなんとか呑み込んで口元をいそいそと拭った。
「悟浄さん!どうしたんですか今日は…あ、編集長と密談だ!仕事どうすんです、受けてくれます?」
「…なんで仕事あがりに仲良く一杯やってたとか、そういうふうに自然な方向にいかないのよ」
 加瀬は不思議の国に迷い込んだアリスのような顔をした。
「…そっちのほうが不自然なんですよ」
 八戒は聞こえないのかそのふりか、壁際にずらっと並んだロッカーを開けて頭を突っ込んでいる。
 もうすぐ日付が変わる。こんな時間にフロアが満員。忙しいのはどこも同じか。
 それにしても何でこんなに注目されているのかと、悟浄がとことこ八戒の傍まで行くと、八戒はようやくすぽんと頭を抜いて振り返った。
「何着かありますから好きなのどうぞ。サイズ合わなかったら、他の連中もスーツの1,2着は会社に置いてますから」
「なんで?」
 背後で何人かが噴き出した。
「…なんでって貴方、いくらスーツ無用の業界ったってパーティーとか接待とか陳情とか通夜とか、当日急に予定が入ったらどうするんです」
「急に予定は入らない」
「版元には入るんです。覚えといてください」
 うちに入社するならとまでは言わなかったのは立派だ。八戒はスーツ一揃えを悟浄に押しつけ、隣の部屋を指で指した。
「そっちが社スタ。更衣室ありますから合わせて。加瀬くん、鍵開けて」
「社スタ!?スタジオあんの!?」
「版元にはあるんです」
「うっそ、え、もしかして有名人来たりすんの?」
「版元には来ます」
「えー!じゃあ社員はサインもらえたり」
「うるさい!」
 ふたりがぎゃあぎゃあ扉の向こうに消えるのを、社員一同は真剣な眼差しで見送った。
「…なんか見かけより可愛いね紅い人」
「俺、あの紅い人にすっげー聞きたいことあんだけど」
「意外と話せんじゃねえの紅い人」
 加瀬が「悟浄さんと言え」と言い渡すまで、連中は紅い人紅い人を連発した。
 インパクトのある見かけでインパクトのある来社の仕方をしたために、その場にいた連中は全員、悟浄をよく覚えていた。守衛に至っては親の敵と脳裏に刻みこまん勢いで記憶に留めていた。鬼の編集長の大学時代の友人。例えどんな友人であっても、それが友人であるというだけで驚きではあったが、悟浄は誰から見ても編集長とは対極だ。振りまく空気からしてまったく違う。仮に友人であったとしても仲がよかったとも思えない。悟浄はよく言えば人懐っこく悪く言えば馴れ馴れしい。加瀬など二度目ましてでさっさと肩を抱かれる有様だ。察するに「友人」というのは悟浄の勝手な主張であって、編集長は勢いに押されたか否定するのが面倒なだけ、というのがおおかたの「自然な」推測だ。
 でも何人かは聞いたのだ、確かに。

 会いたかった。

「…あれ聞いた時、実を言うと寒気した」
 ひとりが意を決して呟いた途端、部下たちは一斉にその場にしゃがんでわらわらと頭を寄せ合った。スタジオに続く扉は勿論完全防音だが、できる限界まで声を潜める。
「俺も俺も。会いたかったて。ヨメにも言ったことねえよ。つか言われたこともねえよ」
「それはてめえのヨメが逞しいんだ。女はわりかしヘーキで言うけど普通男が男に言わねえべ。言うかもしらんけどあの編集長様々だぜ。真顔だぜ。本気だぜ。紅…悟浄さんはさらっと流してたけど」
「それよ!さらっと流したからこっちもさらっといきそうになったけど」
「かばったよな、あれ」
 しばし沈黙が落ちた。
「…編集長の奥さんの自殺原因て知ってる?」
「知らね。女どもに言わせりゃ二枚目で金持ちの旦那に何の不満があるんだっつーとこだろーけど、少なくとも俺だったらあんな腹の底のしれねえのと住んでたら自殺する。だって愛が感じられなーい」
「…まことしやかにホモの偽装結婚」
「うげ!洒落になんねえ!デザイナーってあっちの奴多いじゃん、ほら黒川んとこの小田切も」
「あっちって何?」
 突然上から降ってきた無邪気な声に、一同はばっと散った。それから胸を撫で下ろした。
「…悟空」
 編集2部専属の悟空が正式に社員になってから、正確には2週間も経っていないが、昔から「アンケート集計」のアルバイトですべての部に出入りしていたうえ物怖じしないので顔が広い。飛びずさった連中を見渡して、悟空は不思議そうに首を傾げた。
「どしたの。あっちって?」
「あーおまえじゃない、おまえ関係ない。あ、腹減ってねえか?おやつあるぞ〜」
「またガキ扱いかよ歳かわんねーよ!もう!…もらう!」
 遠慮無くお菓子を頬張る悟空の登場で一気に場が和んだ。悟空の部署は2階だが、何かのついでに上がってきたらしい。
「あれ?八戒てもう帰ったの?」
「あー…今、社スタで」
 言いかけた部下は、ふと言葉を切った。
「…悟空さあ、デザイナー部署作るってあの件どうなった。おまえ早耳だろ、社長になんか聞いてない?」
「ん?生きてるよ。適当なのがいたらスカウトしていいってさ、みんな探してるみたい。八戒とか」
「それだ!!」
 これまた一斉に頷く一同に、悟空は口をとがらせた。
「何だよ。何がそれだよ」
「よし、行け悟空!偵察してこい!おまえなら怪しまれない!」
「はあ?」
「おまえの同僚になるかもしれねえ奴が社スタでスーツの試着中だ!」


 鏡の前で5,6本のネクタイを手に考え込んでいる悟浄を見て、八戒は小さく笑った。
 締め方を忘れてる。
「教えましょうか?」
「あ、いや。多分分かる。きっとその時が来たら手が思い出す」
「座って。立ってられると届かない」
 鏡の前に蹴って滑らせたパイプ椅子に、悟浄がさも嫌そうに腰掛けた。
「なあ、どれもこれも裏地におまえの名前が見事に刺繍されてるんですが」
「しょうがないでしょう、他に金かけるとこないんです。脱がなきゃ見えませんよ」
 悟浄のスーツ姿を見たのは初めてで、八戒は軽く動揺した。一気に大人びて見えて、何を着ようがたいして見栄えが変わらない自分に気後れしそうだ。
 八戒は後ろから屈んで悟浄の首に腕を回した。
「…こう巻いて、右と左の長さをこのへんに合わせてから、ここを押さえてこっちをこう…」
 自分で締めるのと人に締めるのとは随分勝手が違う。八戒は鏡の中を凝視しながら、自分でも気付かないうちに前のめりになった。
「あ、ちょっと待って今のなし。やり直し」
「…おまえ、すげえバクバクしてるんだけど」
 八戒はネクタイの先を宙に浮かせたまま手を止めた。悟浄の背中と八戒の胸がぴったりくっついてる。が、今離れるとネクタイが解ける。
「…緊張してるんですよ」
「なんで?」
「ネクタイを締めると緊張するもんなんです。ちゃんと見ててくださいよ。こう巻いて後ろに通して引っ張って」
「絞め殺すなよ」
 八戒はまた手を止めた。悟浄はにこりともしない。鏡の中の八戒をビー玉みたいな目でまっすぐ見ている。鏡の上の照明だけが点った部屋で真夜中に真顔で殺すだのなんだの、それはホラーか。
「…悟浄」
「おまえは恨んでねえんだ?俺のこと」
「僕に恨まれるようなことしたんですか?」
「恋しましたよ。充分じゃん」
 八戒は、そっと、長く息を吐いた。
「…いいですよ。この際はっきりさせましょう。怒ってるんですね?」
「今日宮に会ってきた」
 …しまった、ばれたか。宮も結局悟浄の味方だ。
「へえ、宮さんね。会ってきただけじゃないんでしょうけど?お元気でした?」
「おまえのほうが知ってんだろ」
 八戒は何度か掌の中で結び目を揺らし、この大きさが一番合う、と思ったところで手を止めた。
「口止めしとかなかったのは迂闊だなぁ八戒。おまえ宮んとこに何度も電話したんだってな、俺から連絡ねえかって。何の真似?」
「僕ならともかく宮さんとも音信不通になるようなら、貴方の覚悟もよっぽどだと思ったんですよ。それだけです」
 思えば宮も、ホモカップルの間で大迷惑だ。
「よっぽどならなんなのよ」
「よっぽどならそれだけ深く反省しようと思っただけです」
 八戒は一歩離れてバランスを確認した。よく似合う。
 もらいものが何本もあるから、この濃紺は悟浄にこのままあげてもいい。この先ネクタイは何本あっても困らない。
 八戒は急に悟浄が今までくれたものを思い出した。下宿に来るときはいつも手土産持参だった。缶詰だとか、パスタだとか、焼酎だとか、いくらあっても困らない消耗品ばかり。悟浄はそういうものを慎重に選んで持ってきた。布団以外。
 …こたつ布団とホットカーペット。冬を越すために悟浄がいきなり送りつけてきた、あれは悟浄なりの意思表示だったのだ。悟浄の覚悟だったのだ。自分の着替えすら持ち込まない悟浄が、灰皿を持ってやってきていちいち持って帰るような悟浄が、八戒の生活を大浸食する大物を初めて持ち込んだ。その意味を考えるべきだった。ちゃんと気付くべきだった。春になったら「場所をとるから」と悟浄がさっさと実家に送ってしまったが、次の冬にはもう届かなかった。布団も悟浄も、もう二度と。
「反省しましたよ何年も。いつかあやまろうと思ってました。貴方と付き合う気もないのに貴方を突き離しもしなかった。全部半端にして、貴方のこと無駄に傷つけ…」
 悟浄は突然立ち上がった。何をするかと思いきや、そのまま鏡のすぐ傍まで行って髪を解いた。
「傷つきゃしねえよ」
「…傷ついたから怒ってるんでしょう」
「傷ついたけど無駄じゃねえ。二度言うな」
「…ごめんなさい」
 初めて悟浄は鏡越しでなく振り返って八戒を見た。…もういつもの悟浄だ。
「似合う?」
「凄く」
「惚れんなよ?」
 悟浄の口調は極軽かったが、悟浄の本気はよく分かった。一度は許してくれる。二度はない。悟浄は自分にも他人にも二度目は許さない。吾妻とかいうチーフと不仲なのも、きっと何度痛い目にあっても同じ失敗を繰り返すタイプだからだ。
「八戒。解き方教えて」
 八戒は苦笑して、悟浄のネクタイをゆっくり解いた。
 …抱きしめたい。
 自分は汚い。いなくなってから好きになるような狡い真似をした。仕事に夢中になってせっかく全部忘れようとした悟浄の前に出ていって、嫌というほど思い出させた。言いたくないことを言わせた。
 でも悟浄が自分を恨んでくれたことが嬉しかった。今まで引きずってくれたことが嬉しかった。
 だけどもうそんな気持ちにはさせない。本気でぶつかって曖昧にかわされるような、そんな想いを悟浄にはさせない。
 するなら、自分だ。今度は自分だ。
 それどころじゃないようにしてあげる。
 今の自分にできる最高のことを教えてあげる。
「もう貴方のことを半端にはしません。僕の部下になってください」

 カーテン越しに聞こえた台詞に、悟空は思わず立ち止まった。
 悟空は八戒のことが、正直、苦手だ。単に言葉がきついから。八戒のすぐ傍で仕事した経験が一度でもあれば、理由もなしにきつくは言わないことも分かるのだが、悟空にとって八戒は今のところ他部署の上司以外の何でもなく、その上司に望む台詞として、これ以上の文句はない。

 僕の部下になってください。

 返事がすぐさま聞こえないことが心底意外で、悟空は耳に全神経を集中した。こんなことを言われたら、俺なら、相手が鬼でも迷わない。
 うっかり身を乗り出して影が映った。途端にザッとカーテンが引かれた。
「悟空!」
「わ!ごめん邪魔し、…てっ!」
 驚いて飛び上がった拍子に後ろに積んであった段ボールに背中がぶつかって、上の箱がぐらりと揺れた。
「おっと!」
 悟空の遙か頭上から腕が伸びて、器用に箱を支えた。
「平気か?猿」
 猿!?
「邪魔じゃありませんよ、ちょうどよかった。悟浄、彼がこないだ話した2部の専属デザイナー」
「コレがぁ?」
「コレって言うな!」
 相手の姿を見極める前に条件反射で怒鳴り返した悟空は、悟浄が「八戒の友人」像とあまりに違う人懐っこい笑顔をみせたのに面食らった。着替えの途中だったのか、前を派手にはだけたシャツを掻き合わせてからにっこり笑った。
「よろしく悟空」
 躊躇なく目の前に差し出された手を、悟空は両手で握り返した。八戒に部下にと望まれる男の手。
「悟空、彼は僕の友人で、三蔵ともちょっとした知り合い。覚えておいてください、もしかしたらもしかするかもしれません」
 是非もしかしろよ。何なんだよ。何で即答しないんだよ。
「…あのさ…悟…」
「悟浄。悟浄さんでも可。なんなら悟浄ちゃんでも悟浄くんでも悟浄様でも」
「悟浄。なんで夜中にこんなとこでスーツの試着してんの?」
 散らばった服を掻き集めていた八戒は、ふと顔をあげた。
「そういえば僕も聞いてませんけど」
「あれ?言ってなかったっけ。接待。えーと、なんつったかな、いわみさんとかいう人の」
 まだ悟浄に手を握られたままぶんぶん振られていた悟空と八戒は同時に「え?」と声をあげた。
「何、知ってる人?偉いさん?」
「…岩見なら、うちの社長です」
 
 
 

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