私生活


act8


 星野という男は。

 星野さん、もしくは社長と礼儀正しく呼んでいた雇い主を、悟浄は初めて呼び捨てた。
 呼び名を変換してみるというのは、意外といい。
 憎たらしい吾妻を「あっちゃん」と呼べばその一瞬は怒りが和らぐのと同じで、なんだか突然別の見方ができたりして。
 星野は、こうして集団の中でみると案外小者だ。見劣りがする。神様に見えた時期もあったんだが、実際神様ではあったんだが、昨日部下になれと言い放った同い年よりも、まだ小さく見える。
 接待というから料亭かなんかで堅苦しく、と思いきや、どうも星野の見栄だった。こんな小さなデザイン事務所が、版元の代表取締役とサシで向かいあえる訳がない。その見栄が、悟浄の気に入らない。ホテルのパーティールームを貸し切ったその夜の催しはそのものズバリの立食パーティーで、他の事務所の連中やら版元の上役なんかが何社も集っていた。数にして50数名。言い出しっぺは岩見さん。
 軽く驚いたことには、喫煙スペースで三蔵に会った。
 仕事仲間でもないし歳も変わらないしでスタンスに迷ったので「よう」と言ったら「おう」と返った。それで悟浄の中では三蔵はさっさと「友人」ということにされた。中身はともかくこのスーパーエリートは、相も変わらず目に眩しい。
「どっちがシャンデリアだ」
「誉めてんのか」
「誉めてるよ。はい」
 三蔵は悟浄の名刺を指二本で受け取って、子供のように目をキラキラさせて金髪に触りたがる悟浄の手を叩き落とした。
「うぜえ!」
「いいじゃねえかケチ!」
「…おまえ、八戒の昔のダチってのは本当か」
「今やそうとしか言いようがない」
 摩訶不思議な悟浄の応答を、三蔵はさらっと聞き流した。
「奴の今現在のダチとして言わせてもらうが、おまえの登場はあまりぞっとしねえな悟浄」
「どうせどこに登場しても歓迎されないんですよ俺は」
「おまえは八戒を変にする」
「……ふーん?」
 悟浄は深く考えるのをやめた。
 それでなくても最近考えることが多いのだ。
 憂鬱を絵に描いたような顔で出社したはずの悟浄は、今や生まれ変わったようにイキイキと女性にターゲットをしぼって皿とグラスと会話を振る舞い、あっという間に輪の中心にいた。接待は苦手でもパーティーは大得意だ。会場のあちこちで輪はできていて、その輪がばっちり階級別に分かれてはいるが、学生同士のコンパだって悲しいかな偏差値別容姿別に序列があって、同じレベルの連中が輪を作る。同じだ。
 したがって悟浄を取り巻くのは社会人ランクも年齢も一番低い連中だが、肩書きがないぶんフランクで情報が早い。女ばかりで口も軽い。
「あそこらへんの輪が、お偉いさん?」
 悟浄が無邪気に尋ねると、それはもう知識を競うように次から次へと返事が降ってくる。女は悟浄に親切だ。
「そうそう、あの趣味の悪い緑のスーツが取次の最大手ね。隣のが藤堂の社長…違った副社長」
「壁際の集団はも少し下で課長部長クラス。その下に個人事務所の社長ね。ほら、ひとつ上の輪に移るタイミング窺ってるからすぐ分かる」
 星野は三蔵のまだ下か。悟浄は御礼を言い、11杯目のシャンパンを受け取った。ただ酒は飲み溜めだ。
「な、岩見さんはどれ」
「えーと…あそこ。今こっち向いた。窓際の」
 なるほど、遠目にはちょっと可愛い愛嬌のあるおっさんだが、何だか目に凄みがある。
 そう思ってから悟浄はいやいやと自分を戒めた。あいつのボスだってだけで買いかぶるのはよくない。悪い癖だ。
 ところで目立たないよう心がけていたつもりの悟浄だが、背はあるわ髪は赤いわ女にたかられてるわ見る奴が見れば分かる高級スーツだわで、実はもうメチャクチャに目立っていた。しかも先刻から吾妻が忌々しそうに睨むのに悟浄はまったく気が付かず、気付いた時には吾妻がずかずか傍までやってきて、わざとらしく肩をぶつけた後だった。吾妻の持っていた赤ワインの飛沫が、スーツの右肩に飛んだ。
「……」
「おー悪いな」
 いつもならすぐ言い返すか笑い返すか、とにかく爽やかに切り返す悟浄が、途端にくるっと踵を返して驚く女性陣を後目に会場をすたすた出ていったので、吾妻はなんとなく追いかけた。せっかく「会社辞めてホストかなんかしてたほうがいいんじゃねえの」とかなんとか言おうと思ったのに。
 悟浄はロビーをせかせか歩きながら上着を脱ぎ、洗面所に直行してハンカチをシンクに放り投げ、蛇口を勢いよく捻った。
 捻ろうとして、2回ほど失敗した。
 吾妻はちょっと首を傾げた。悟浄が慌ててる。
 何もグラス丸々ひっくり返した訳でもあるまいし、何もそんなにいきなり顔色白くしなくても。
「…悟浄よお。わざとじゃねーんだって。それっくれえクリーニング出せば落ちんじゃんよ」
「……」
 完全に上の空だ。
「何、借り物?レンタル?あ、ネーム入りじゃん。八戒て誰」
 言ってから、吾妻はぽんと手を打った。
「あ、八戒ね八戒。エロ雑誌のあいつだ。あーあーそっか。知り合いか。編集長とお知り合いですか。ふーん凄いねぇ。だから三蔵さんに口きいてもらったんだ。だから名指しでお仕事依頼ね。いや〜おまえのことバカにしてたわ。腕じゃ敵わねえから人脈から攻めたわけだ。まあそれもひとつのやり方だわな。俺、職人だから、そういう姑息な手段は流石に思いつかねーな」
 悟浄がまだ何も言わないので、吾妻は眉を顰めて横から悟浄を覗き込んだ。悟浄は照明にシミを翳しながら「クリーニングに出せば落ちるか」などと先刻自分が言ったことを呟いている。おいおい聞いてねえよ。無視か。無視なのか。
「八戒てのもそもそもどーなの。お知り合いにページ任せちゃうよーなトップてどーなの。公私混同じゃねえの。げー甘ぇなあ。大甘だなあ。鬼編集長とか鬼営業とか若造がどの面下げてって話だわ。お仲間で同人誌でも作ってるつもりかよ。苦労っつーもんがたんねぇよそいつ」
 はたと吾妻は言葉を切った。それから一歩下がった。
 自分のことをボロクソ言われて聞き流した奴が、何故そこで怒る。
 悟浄は後ずさる吾妻を何だか不思議そうに眺めた。別に睨んだ覚えはない。見ただけだ。 
「…的が俺ひとりじゃ足んねえのか、あんた」
 吾妻はしばらく黙っていたが、くるっと背中を向けてつんのめるように出ていった。というか逃げた。
 悟浄はまたシミ落としに戻った。
 何もこんな汚れで拳を飛ばすような持ち主ではないのだから癇性に擦らなくてもいいようなものだが、吾妻にこれを汚されたのが、必要以上に腹立たしい。唾でも吐きかけられたような気がする。自分が何言われようと構わないが、自分にかこつけてあいつをどうのこうの言われるのはたまらない。八戒自身がどうこういうより、今までのたいして長くもない人生を振り返ると、目立ったものが「八戒」ぐらいしか見あたらないので、自分の過去を丸ごと足蹴にされた気になるのだ。
 悟浄は鏡の中の自分をしみじみと眺め、なんとなく謝る練習をした。
「わり、汚しちゃった」
「何を」
「ぎゃ」
 振り向いたところに岩見社長がいた。驚いた。あいつに声音が似てる。そういうもんなのか?
「…いえ、こちらの話」
「ああそう」
 岩見はスタスタと脇を通り過ぎ、悠々と用を足した。
 …ここは挨拶のひとつもしておくべきだろうか。何のだ。
 場所が場所だし、話の継ぎ目に八戒の名を出すのも利用するみたいで卑怯な気がする。とりあえず会釈だけしておいて、悟浄は速やかに逃げかけ、捕まった。
「一度会ったよなぁ、悟浄」
「…見間違いじゃないですか?」
「あれが見間違いなら俺は明日眼鏡を新調するよ」
「してください」
「4階でうちの稼ぎ頭と手ぇ繋いでたじゃねえか」
 悟浄はくるくると記憶を巻き戻したが、そういや三蔵の隣に誰かいたっけな、程度の覚えしかなかった。あの状況で覚えがあっただけでも立派なことだ。だいたい三蔵からして、例え後ろにライオンがいたって「背景」にしてしまうような男だ。
「…あれ、会ったって言うんですかね」
「言うね。言い張る。おいおいナンパの基本じゃねえか色男。見かけ倒しか?」
 どう考えてもほぼ初対面の岩見社長は、近所の顔なじみのおっさんのようにけらけらと笑った。
「…なんか変なのに捕まったな」
「どーも近々おまえの面接することになるらしいな。今日会うたぁ思わなかったがちょうどいい。いつにする」
「今済ませてくれると助かるんですけど」
「トイレでか」
「おたくの会社は定期外なんで。伺うと往復420円かかる」
 悟浄は真顔だ。
「度胸は気に入った」
 岩見も真顔で返した。
「しかし今のはプラスマイナスゼロだな悟浄、往復370円だ。うちには金に執着せん奴はいらん。さ、15分以内に60点稼げ。おまえさんの親友は面接開始30秒で満点を出したぞ」
 悟浄がきょとんとしたのはものの数秒で、すぐ微笑った。
 帰りはキセルしろと言っているのだ。


 八戒が会議室から解放されたのは午後10時過ぎだった。
 各部の編集長会議の後に八戒が荒れるのは毎度のことなので、というより八戒自身が「夜から荒れますよ」と親切に宣言してから会議に向かうので、出てきた時には部下は全員避難した後だ。
 がらんとしたフロアを突っ切って席に戻り、机の周囲にずらっと貼られた伝言メモをひとつひとつ眺めては剥がしてゴミ箱に放り込み、それが終わってから深々と溜息をついた。勿論部下がいればそんな真似は絶対にしない。
 売り上げトップを誇る部署の部長である八戒は、控えめに言っても嫌われている。何せ自分が売ろうとして作ったものが思ったとおりに売れているので、売れていない部署の連中のやってる事が分からない。「何故売れる方法をとらないんだ」などと普通に発言してしまう。しかも年が若い。ただ会議の場にいるだけでも先輩方の神経を逆撫でする。
「…その方法が分かりゃ苦労しないよ」
 苦虫を噛みつぶしたように言った2部の編集長にも、八戒は首を傾げた。
「競合誌ってどこの本でしたっけ」
「トップは藤堂だな」
「じゃあパクればいい」
「…あんたとは話になんねえよ」
「じゃあつぶせばいい」
 八戒は大真面目だ。極普通の感性を持った編集たちには「この鬼悪魔」で済まされてしまう。連中は別に八戒をバカにしている訳ではない。そんな人道に反したことを真剣に発言して、しかも実際にやってしまう八戒が不気味なのだ。それに、見ていて不安になる。汚い仕事をして人に恨まれるのは普通は怖い。いつか自分にツケが回ってくるのは怖い。今はよくてもいつか転落した時に、窮地に陥った時に、そんなやり方をしていたら誰にも助けてもらえない。一生現役で仕事ができるとでも思ってるのか。いったい何を楽しみに生きてるんだ。
 いつもの癖で、八戒は眼鏡を磨き始めた。仕事あがりの日課だ。磨かないと会社を出られない。
 誰にどれだけ嫌われても構わない。今、売れればいい。八戒は現状に充分満足していたが、それでもガンガンやっかみや憎悪をぶつけられた後は多少は疲れるし不愉快になるし部下を追い払って壁に拳ぐらい入れたいし手の中の物を握りつぶしたくもなるのだ。悪いか。
「レンズ割る気か」
「それくらいの加減はし…」
 八戒はちらっと目をあげ、斜め前の席で机に足を載せ背もたれをギーギー言わせている男を見て、また手元に視線を戻した。
 単に吃驚したのだ。
「…おかえりなさい」
 言ってからおかしいと思ったが、悟浄は普通に「ただいま」と言った。
「業界パーティーでしょう。うちの社長には会いました?」
「…会ったも何も」
 悟浄は途中で言葉を切った。
「…悪い。肩にワインが飛んだ」
「赤じゃないでしょうね」
「赤」
 八戒はようやく眼鏡をかけた。
「なんだかシャツに口紅もついてますから今更いいんですけど。何か用があったんじゃないんですか」
「なんにも」
 悟浄はその四文字を柔らかく平仮名で言った。なんにも。
 あ、虫が鳴いてるな。
 八戒はぼんやりと思った。
 悟浄といるとそうだ。空の色だの虫の音だの気温だの天気だの季節だの、普段はどうでもいいようなことが酷く気になる。
「編集長」
 悟浄は突然、役職で八戒を呼んだ。
「編集長。メシ食いにいこうか」
「メシ?」
「メシ。サンマとかサバとか牡蠣とかナスとか里芋とか炊き込みご飯とか茶碗蒸しとか、そういうの」

 あ。

 夜8時を過ぎると会社の表玄関は施錠されて、暗証番号を打たないと入れない。
 悟浄がここにいるということは、暗証番号を知っている上役の誰かと、一緒に入って来たということだ。
「…いいですね。秋だしね」
「秋だし」
 さっきからこっちが言ったことの復唱が多いのは酔ってる証拠だ。
 これ以上酔われると面倒くさそうだなとちらっと思ったが、八戒は鞄と上着を掴んで立ち上がった。慣れている。
 不機嫌は綺麗さっぱり消えていた。
 
 

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