私生活

act1





 始まりはロマンチック、とはなかなかいかない。

「あ、ワリ…」
「…すいません…」

 最初の会話がこれだった。別に出会い頭にぶつかったとか、道を譲りあって立ち往生したとかじゃない。大学の空き教室でこれ幸いと女とコトに及んでいた悟浄と、忘れ物を取りに来てガラッと戸を開けた八戒の目が真正面から合ってしまっただけだ。
「きゃ…」
 可愛い声をあげたのは悟浄の腕の中で陶然となっていた女の子だけで、彼自身はこれといって動じもせず周囲を見渡し、シャツの前を派手にはだけたまま窓際に置きっぱなしだった八戒のノートを放って寄越した。
「コレ?」
 八戒も別に赤面もせずノートを受け止めると、軽く頭を下げた。
「どうも、お邪魔しました」
「混ざる?」
「またの機会に」
 真顔で応えて後ろ手で戸を閉めると、5秒後には八戒の頭から紅い髪の男のことなど消え失せてしまった。実際、春の大学なんて学校全体がサカってるようなもんだ。受験戦争から解放された途端、溜まりに溜まった性欲が堰をきって溢れ出すのかあっちでもこっちでもイチャイチャベタベタ、いちいち目を伏せていたら前を見て歩けない。
 春ですねえ。
 眼鏡の縁を押し上げながら呑気なことを考えた八戒も、本人に自覚がないだけで決して春の饗宴に無縁ではなかった。
 第一部文学部文化学科哲学専攻というのが彼の肩書きだが、一学年25名という大学一の少人数クラスにもかかわらず、学年主席は必ず哲学専攻者から出るという、大学が誇る優等生集団のそのまたトップ。入学早々大教室で教授相手に議論をふっかけた一回生として生徒からも教授からも興味の的だ。柔らかい笑顔と静かな物言い、おまけにちょっとないくらい整ったルックス。
「彼女いるかな。なんか、遠距離恋愛とかしてそうなタイプじゃない?」
 …しませんよ、そんな暇なこと。
「童貞だったらお姉さんが教えてあげる〜vvv」
 …な訳ないでしょう。貴女こそ1年でもうガバガバじゃないんですか。
 猪八戒18歳。大学1回生の春。意外と毒舌家だった。


「悟浄、今日は帰りは何時?」
 叔母の声が慌てて追いかけてくる。
「7時まで練習やってそっからバイト。1時には帰る」
「…そんなに毎日バイトばかりで体壊すわよ?お小遣いならあげるから…」
 もう半分玄関を出かかっていた悟浄は、ほっとくと不機嫌に歪みそうになる顔の筋肉を総動員してにっこり笑った。
「体動かすの好きなだけ」
「駅まで車で送ろうか?」
「へーき。バイクの方が早いから。行って来ます」
「…行ってらっしゃい」
 パタン。
 扉が閉まると同時に、悟浄は肺の空気が全部入れ換わるよう思い切り息を吐き出した。
 伯父叔母夫婦のことは嫌いじゃない。両親が別々の場所で不倫相手と心中をはかるという大笑いな事件のあと、実の子供でもない、もう高校生になっていた悟浄を引き取って、当初の希望どおり私立に進ませてくれた。いくら裕福とはいえ相当の覚悟が必要だったはず。ふたりとも優しくて、我が子のように心配してくれ、叱ってくれる。なのに。
 息がつまる。
 体を動かすのが好きなのは本当だ。バスケも、GSのバイトも、女抱くのも、体使うことなら全部好き。何も考えなくてすむし…家に帰らなくてすむ。本当はもっと他にやりたいことがあるのだが「それ」をするには金がかかりすぎる。これ以上我が儘は言えない。
 早く卒業してあの家を出たい。早く、誰かの保護下から抜け出して自分を試されたい。高級住宅街のど真ん中にある借り物の「家」にも、自分も両親も望んでいなかった派手な見かけにつられて寄ってくる連中にも馴染めない。
 少し前までうるさいくらい舞い散っていた桜が葉桜になりかけているのに舌打ちして、悟浄は愛車に跨った。
 

2度目の出会いも同じ場所。
「こないだはどーもね」
 授業中にいきなり耳元で囁かれて、慌てて振り向いた八戒は、悟浄をその紅い髪で思い出した。
「…ああ、どうも。…貴方もとってたんですか、哲学概論」
「文学部だから」
 文学部共通の必修科目でなければ、誰も月曜の1講なんか取らない。400人以上入る大教室で悟浄が八戒を易々と見つけたことが、運命と言えば運命だが偶然と言えば偶然だ。
「彼女サンにあやまっといてくださいね。胸の谷間と内腿くらいしか見えませんでしたからって」
 教壇に目をやったまま八戒が呟くと、周囲の人間がチラチラと振り返った。八戒の見かけとセリフが連動しなかったのだ。
「彼女じゃないからどーでもいいけど、もし会ったら言っとく」
「彼女じゃないなら言わなくていいですよ。貴方のも見てませんから」
「それこそどーでもいいけど、あんた友達いる?」
 八戒は初めてまともに振り返った。悟浄の方は、手の中でクルクルペンを回しながら、頬杖をついて黒板を眺めている。
「前向けよ。ばれるぞ」
 言われて向き直ったものの、またすぐ振り返った。
「…どういう意味です」
「僕はあなた方とは違うんです〜ってツラしてんな、って意味だけど?」
 言い返そうとした八戒の肩を、悟浄がペンで押し返した。
「前向けっての。おまえさ、貴方もとってたんですかって、何考えて言った?構内で女押し倒してるよーな見かけも軽そーな男が、ちゃんと授業に朝から出てるんですね、意外ーって思ったろ。彼女にあやまっとけって?構内で服のボタン簡単に外すような恥知らずがたいした体でもねえのにきゃあきゃあ騒ぎやがって、よくいるお似合いのバカップルv …って思わなかった?そういうの、結構顔や声に出てるぜあんた」
「今日はここまで。来週は出欠とるからな」
 教授がパタンとテキストを閉じ、一斉に400人がざわめきだした。八戒がしばらくして振り向くと、もう悟浄の姿はなかった。
 図星。



 不幸というか何というか、同じ学部同じ学科、しかも1回生のうちは授業がよく重なる。悟浄の方は二度と話しかけてこなかったのだが、逆に八戒の方がやたら悟浄を目で追うようになった。
 とにかく目立つ。不思議で仕方ないのだが、あの紅い髪、根元から真っ赤だ。何で染めたらああなるんだろう。しかも毎度毎度別の女にべったりくっつかれているが、よく眺めていると、ただの一度も悟浄は女の顔をまともに見ない。言動すべてが不自然だ。
「1024番・沙悟浄」
「はーい」
「1149番…」
 八戒は何気なくノートの端に走り書きした。
 さ ごじょう。



「よく会いますね」
 2週間ほどそうやってから、遂に八戒から声をかけた。珍しくひとりで窓枠に腰掛け煙草をふかしていた悟浄と八戒のほかに、教室には2,3人がいるだけだったから、声をかけない方が逆におかしい。
「そうだっけ?会うって、お互いに相手の存在を認めることを言うんじゃねえの?」
 口数の減らない男だ。
「この間は、すみませんでした」
「何が?」
「図星でした。今後、気をつけます」
 悟浄はしばらく八戒を眺めてから、不意ににっこり笑った。
「俺、あの朝ちょっと機嫌悪かったんだわ。ま、見かけがこうだから慣れてっし、いつもなら全然気になんねえんだけど…えーっと、八戒」
「何で僕の名前」
「出欠とる時メモった」
 八戒は何となくノートを後ろ手に持ち替えた。
「…目立ちますね、その髪」
 そうそう、髪のことが聞きたかっただけだ。
「何で染めてるんです?」
 悟浄は初めて見るように、肩にかかった自分の髪を見下ろした。
「信じる?」
「は?」
「俺の言うこと信用できると思う?」
 何を言ってるんだ、この男は。
「…さあ。貴方のこと全然知りませんから」
「元からこの色」
 思わず軽く「嘘でしょ」と返しそうになった八戒だが、悟浄の目に一瞬過ぎったものの正体を掴み損なうほど気を緩めていなかった。
「…そうですか。キレイですね」
「あれ、信じる?」
「ええ」
「変な奴」
 悟浄はクスリと笑ったが、八戒は笑わなかった。
「貴方もわりと顔に出ますね。信じてくれなきゃ泣くって顔でしたよ」

最初は友達というより漠然としたものを巡って戦うライバルのようだった。社会に出る前の4年間の休暇を、ふたりともまったく満喫していなかったという点で、似ていた。

 
 
 

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