私生活


act11


 運転席の三蔵と助手席の悟空は、延々と悟浄と関係のないことを話し続けている。八戒の心情を推し量った末なのか念頭にもないのかは謎だが、どちらにしろ後部座席で心ここにあらずな彼にはまったく影響はなかった。
 逃げたい。
 軽快に道を飛ばす三蔵の車の性能も、平日にしては道路が空いているのも、三蔵の日頃の行いが余程いいのか、さしかかる信号という信号が「さあどうぞ」と言わんばかりに次から次へと青に変わるのも腹立たしい。
「あれ、八戒携帯替えた?白いのじゃなかったっけ」
 突然悟空が振り返った。
「…ああ、これは…悟浄のです。うちに忘れていったんで」
 鞄のポケットから落ちかかっていたブルーチタンの携帯を、何気なく手に取った。古い機種なのに随分綺麗に使ってる。
「へえ?シンプルだから八戒のかと思った。悟浄ってもっとジャラジャラストラップとかつけてそうじゃん」
「可哀相なんですって」
 八戒がポツンと呟いた声に、三蔵まで反応した。
「…なんだそりゃ」
「アクセサリーつけると重くなるでしょう。だから可哀相なんですって」
「何が」
「ですから携帯が」
 三蔵は笑うのと哀れむのとの丁度中間のような顔をした。
「…馬鹿か。あいつ自身がじゃらじゃらごてごてピアスだブレスだくっつけてんじゃねえか」
「自分はいいんですよ。あれは全部女性からの貢ぎ物で、つけてあげないと可哀相だから全部つけてるんですって」
 八戒も、初めて悟浄にこの話を聞いたときは呆れた。だが自分以外のヒトやモノへの思い入れが極端に強くて「俺はいいから」が口癖の、あの人の尋常じゃない苦労性を振り返ると全然笑えなかった。
 きれいさっぱり縁を切ったはずの男に付きまとわれて、ずるずる会社に引っ張り込まれて、襲われるわ撃たれるわ、いきなり追い出されるわ。
「ちょっと見して八戒。女の番号全部消しちゃえ」
 悟空はあっという間の早業で八戒の手から携帯をひったくった。
「…うわ、すげっ何これ」
「ダメですよ悟空、人のプライベート勝手に!」
 続く悟空の言葉で、車が客用駐車場に滑り込んだことにすら八戒の思考から吹っ飛んだ。
「メモリーナンバー1から5まで[八戒]なんだけど。編集4部でしょ、携帯でしょ、自宅、缶詰部屋直通、…あとこれは?03-4733の…」
 馬鹿もここまでくると清々しいですよ悟浄。
 あの時は携帯なんか持ってなかったじゃないですか。
「……昔、悟浄と住んでた部屋の、僕専用の回線です」

 扉をノックして開けるか開けないかのうちに、悟浄の罵声が飛んできた。
「はっかい!!てめえどのツラ下げてのこのこ俺の前に出て来やがった!!!」
 三蔵ひとりが笑いをこらえる中、悟浄は顔面に枕をくらって呆然と突っ立ったままの八戒を真っ直ぐ睨みつけた。
「あやまれ、この成り上がり。冷血漢。隠れサド。セクハラ上司。金で会社に魂を売った日本社会の歯車」
「……あの…」
「あのもクソもねえ、とっとと頭下げねえと撃たれたお返しに俺のブラックマグナムぶち込むぞこら!!」
 持つべきモノは悪友だ。まだまともに病室に足を踏み入れてもいない悟空を廊下に押し出すと、三蔵はクスクス笑いながら八戒の背後で戸を閉めた。「八戒に会ったらどうすればいい」と聞かれたので「思った通りに言え」と言ったのだが、何もそこまでまんま言うか? 八戒ぬきで呑んだ時に悟浄が垂れ流す愚痴、そのまんまだ。
「…三蔵、悟浄、酔ってんの?」
 案の定、まだ肩が震えている三蔵を、悟空は気味悪そうに見上げた。
「帰るぞ悟空」
「帰んの!? 俺何しに来たの!?」
「気ぃきかせろ」
 手に持った海鮮カレーまんの袋を病室のドアノブに引っかけると、悟空はもう数十メートル先の角を曲がろうとしている三蔵の背中を軽く舌打ちして追いかけた。

「……えらく元気そうじゃないですか悟浄」
「おお、残念だったな!! どうせてめえのこったから、何だかんだ言って悟浄は笑って許してくれるんでしょうけど、とか思ってたろ。そーゆー奴だてめえは」
「……」
「僕のせいで悟浄を傷つけてしまったとかなんとか、俺の前で涙のひとつも見せるつもりだったろ。「気にするな八戒。おまえのせいじゃない」「悟浄…v」とかゆー腐った展開を期待したか?残念ながら立派におまえのせいだばーか。てめえが死にやがれ。会社が立派な葬式出してくれるぜ、俺は喪服がねえから参列できねえが香典くらいはくれてやるわ」
 八戒は足下に転がった枕をゆっくりと拾い上げた。
「……言いましたね」
「ああ言いましたよ」
「そんなにあやまってほしけりゃ好きなだけあやまって差し上げますよ! どーもすみませんでした!!」
 容赦なく投げ返された枕を危うく肘で受け止めると、悟浄はようやくニヤリと笑った。
「図星さされて怒るよーな可愛いとこあんだな」
 しばらく形容しがたい複雑な顔をして口の減らない部下を睨みつけていた八戒は、そのままの顔で足音も荒々しく側まで進んできたかと思うと、勢いもそのままに悟浄を抱き締めた。
 この男は自分の何なんだろう。
 根本的な疑問に突き当たって動けなくなった。うっても響かなかった男。一緒に暮らしていながら悟浄の乱れまくった女性関係にも続く外泊にも眉ひとつ動かさず、体をいくら重ねても心を開く様子もなく、あの夜「他に好きな奴ができたんだけど」と言ったら「いつ出ていくんですか?」と静かに聞き返した男。試した自分が悪かったにしても、言葉が欲しい時にもらえないまま、あれ以上そばにいるのは辛すぎた。その男が。
「……会いたかった」
 今、自分を痛いほどの力で抱きしめて臆面もないセリフを吐いているこいつは、自分の何なんだろう。
 本当はそんな逡巡する時期は通り過ぎているのに、わざわざ考え直してしまうほど八戒の腕は熱かった。
「…退社の理由、聞きました。怒ってますよね」
「いや、それほどでも」
 そっと腕を解きながら悟浄は内心苦笑した。結局笑って許す気なのだ、自分は。
「これマジな話、俺のせいだから。社長に聞いたんなら、納得したんだろおまえも。俺もした。もう、この話はなし」
「あやまらなきゃいけない事があって」
「人の話聞けよ」
「退社の事でもなく怪我のことでもなく、あやまらなきゃいけないことがあって」
 八戒は不意に一歩下がった。
 終わらない関係ってあるんだろうか。悟浄が考えたのは、そんなことだった。
 自分が退社して、八戒が指輪を外さなかったとして、これから二度と会わなかったとして、終わるんだろうか。断言できる。これから誰を好きになっても八戒を思い出す。誰と何を食ってもどこに行っても何を見ても、何度も思い出す。それも終わらないってことだろうか。
「僕の仕事の手口が汚いって評判は聞いてますよね」
「…そう聞いてるけど」
 八戒の仕事の末端である「誌面のデザイン」でしか関わらない。悟空も、さらにその先の「印刷」を請け負う三蔵も、八戒の本業である「編集」自体には一切触れない。
「この娘のグラビアが撮れれば売り上げアップ確実って女がいたとしますよね」
「…ああ」
「彼女がどこかの雑誌の専属だった場合、撮影を潰すんです。機材車をパンクさせるとか、フィルム感光させるとか、偽電話かけまくってスタッフをちりぢりにするとか。…まあ部下にやらせるんですが」
 八戒の口は自動的に機関銃になっていった。
「最終的には本人をおとさないとどうにもならないんで。遊び場調べたらそこで張り込んで、捕まえて口説き倒してベッドまで連れ込んで泣くまで犯って」
「ちょっと待て」
「結局稼げるだけ稼がせていただいたら、悪評ばらまいて業界からきれいさっぱり消えてもらうことになるんですが…何せ頭の足りない口の軽い子が多いんで。…こういう時にこういう顔をしてると得ですよ。まさか体で仕事取る人間には見えないでしょう、貴方ならともかく」
「待てって!」
 何を言うべきか具体的な思案がまとまらないまま、とりあえず悟浄は八戒を遮った。八戒のやっていることは犯罪だが、人道的にとか性格的にとか言う前に、根本的な部分が理解できない。
「何でそんなことすんの?好きなの?そういうのが」
「好きなことしかやらない主義の貴方に改まって聞かれると答えに困るんですが。出世が好きなんでしょうね」
「だから何で?」
 八戒の欲しいものがそんなものの訳がない。金や名誉のはずがない。これは何のまねだ、何が言いたいんだ、俺とどう繋がるんだともの凄い勢いで自問自答を繰り返して、その螺旋上に突き当たった推測に、悟浄は思わず姿勢を正した。
「いや、やっぱりいい!」
「よかないですよ」
 会社では聞き慣れた、感情を一切抜きにした一方的なマシンガントーク。三蔵すら「八戒のあれは会話じゃねえ、あいつが壁に向かって朗読してるようなもんだ」とこぼすほどとりつく島もない。まず滅多に悟浄に向けられることはなかったが。
「出世しないと人事権がもらえないでしょう。人事権がもらえないと貴方を会社に引き込めないでしょう。編集部がそれなりの利益あげておかないと人件費も割いてもらえないでしょう。そりゃ会社に入れるだけなら編集長にまでならなくても手はありましたけど、僕は単純に貴方が好きで会いたいからってだけで同じ会社に入れたんじゃない」
 …痛ぇな。
 包帯の上からそおっと傷に触れてみる。痛み止めはこいつが来る前に3時間分たっぷり打ってもらったはずなのに。八戒から意識をそらそうと、脳が体まで総動員して悟浄を引き留めている。
「貴方を部下にしたかったんです」 
 見上げると、八戒は、その不思議な色の目を逸らせたまま微笑んだ。
「貴方を僕より下の人間にしたかった。貴方に命令できる立場になりたかった。今思うと、それだけでしたねぇ」
 気分が良くて。
 呟いた声は実感がこもっていた。とにかく気分が良くて。優しさや好意を飛び越えた「義務」で悟浄が自分の言うとおり動くのが楽しくて。突風のようだと思っていた悟浄が、契約書一枚で簡単におちてくるなんて、ねえ。会社や出世や役職にこだわるなんてと学生時代には思っていたが、例え会社の中だけにしろ人ひとり思い通りになるならしてみるものだ。面白くて、個人で処理できる限界を遙かに超える仕事量を悟浄に投げ続けた。泣き言が聞きたかった。「編集長、悟浄さん過労死しますよ!」先に音を上げたのは悟浄よりも編集部の人間だったけど。

 …そういうのを征服欲って言うんだ八戒。

 そう思ったが、言わなかった。自分より上の人間にもつ感情だ。自信がないからもつ欲望だ。
 八戒はきっと俺に負ける。

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