私生活
act1
お呼びですか、編集長。
悟浄が机の前で腕組みしたままふっつり黙り込んでから10分が経過した。向かいで居心地悪そうにそわそわしている、まだ新卒の若い編集者に3杯目のコーヒーを差し出したチーフアシが、そっと椅子を引き寄せて悟浄の隣に腰を下ろした。事務所開設当時からのスタッフ頭である彼は悟浄より3歳年上だが、未だに敬語を崩さない。
「悟浄さん」
火のついていない煙草を銜えたままの悟浄の視線がぼんやりと移ってくる。
「どうします」
「…20万。実費別で」
編集者は目を丸くした。当たり前だ。相場よりはるかに高い。
悟浄は考えなしに金額を口にするような真似は冗談でもしない。この10分間で依頼を持ち込んできた出版社の業績、編集長の実績、編集方針、スタッフの顔ぶれ、入稿手順、制作実費、ここ半年間のスケジュール、考え得る全てのトラブルを総合してはじき出した。
一旦口に出した金額を絶対に撤回しないこと。安めに見積もると依頼した側がかえって不安になって余計な口出しが多くなる。これがスポンサー(前勤め先の社長)に徹底的に叩き込まれた鉄則だ。
「…1冊20万で、契約は毎月更新。どーかな」
悟浄の口調は急にくだけた。隣でチーフが溜息をついた。いつもの手だ。
「金額は…ええと」
「俺の仕事が編集方針に合わなくなったとか、編集長が替わるとか、別にいいデザイナーが出てきたとか、何かあったときに毎号契約のほうがどっちも気楽じゃん?印刷って大●本がやってんだよな?担当三蔵だろ?俺、あいつと仲いいから融通きくよ?印刷所と直通のデザイナー使うと凄ぇ楽よ?安く使うと注文つけにくいからそっちの気苦労増えるって。無理にとは言わねえけど、俺はしたいなー。すっげえ面白そうだもん、この仕事」
「そ、そうですか」
「うん。売れる売れる。話聞いてるだけでも俺が客だったら買うもん。創刊号で瑞穂のグラビアとれねえよ普通。うん」
「そうですか!?」
もう言いなりだ。
「競合誌の表紙やってるデザイナーも元同僚だから手口分かってる。任せろって。絶対勝つ」
今度呑みに行こうね〜などと肩を叩いて玄関まで見送り、扉が閉まった途端、悟浄は吠えた。
「勝てるか馬鹿!編集長の格が違うわ!」
「まあまあ」
コーヒーカップを片づけながら、チーフは微笑を崩さない。
「20万とはふっかけましたね。何が高くついたんですか、担当編集が男だってのは差し引いて」
「ああ、それが一番気にいらねえ。とりあえず小田切!」
「何です?」
「俺に、んなガチガチの敬語使わなくていいって何度言えば分かんだよ。会社みたいで肩が凝る」
「またそれですか。ここは会社で僕がアシスタントだからですよ。そういうところのけじめははっきりしておかないと、個人事務所でそうやって馴れ合って、スタッフに事務所ごとのっとられちゃったなんて話腐るほどあります」
悟浄はようやっとフィルターの湿りきった煙草に火をつけた。
「それと金庫の鍵。ご自分で保管してください。いつ魔がさして持ち逃げするか分かりませんよ」
こいつの物言いは誰かに似てる。
「あの本、きっと半年保たねーよ。今のうちにふんだくっとかないと」
小田切は「ほお」と独り言のように呟いた。
「無敗の競合ライバル誌があるからですか。読んだ感じじゃそんな凄い印象は」
「凄くねえ、悪どいの、あそこは。コーヒーと灰皿と新しいMOと2DDのフロッピーと蛍光ペンの赤と水色くれ。それと藤崎んとこの請求書に判子押して一筆つけたら乙華ちゃんの名刺探して、どっかにあるから」
最後のは何ですかとぶつぶつ言いながら小田切は優先順位にしたがって注文をサクサク片づけた。スタッフはデザイナーとバイトがあと一人ずついるが、まだお使いから帰ってこない。どっちにしても小田切が使えすぎて、いようがいまいが効率は変わらない。
「そうそう、俺、携帯番号変わったから教えとく」
「またですか。ただでさえ携帯ふたつ持ってんでしょ?」
「青い方は使ってない。持ってるだけ」
小田切は首を傾げたが、それ以上は言及しなかった。
「あんた、独立しようと思えばできんだろ」
「ですね」
「なんで俺なんかに使われてんの。給料安いし仕事きついし社長は女狂いだし」
「使われたいからです。お気に召さなければいつでもクビに」
小田切は新宿にあるデザイナーだのスタイリストだの、マスコミのようでマスコミでない、芸術家を目指して挫折した職人が集まるカフェバーのスタッフだった。元々は悟浄と同じく出版社の専属デザイナーで、今でも週末はバーでシェーカーを振っている。趣味だそうだ。
外見は金髪長髪長身の歩くネオンサインのように度派手な男だが、穏やかで人なつっこくて滅多なことでは怒らない。
「俺よりもてる以外はすべからくお気に召してっけど、いつまでもいてもらうのも悪いよな」
「全然。体で返してくだされば」
真顔だ。
「…そっちの人なの?」
「知りませんでした?」
「知りませんでしたよ。マジかよ。ダチが女ばっかだと思ったらありゃマジにダチか。道理でお茶菓子の選択が絶妙だと思った」
「悟浄さんねぇ、新宿のあのバー、そんなんばっかですよ。僕ら似たもの同士でお似合いだって評判でしたのに。知ってたら雇いませんでした?」
「雇った」
悟浄はポンとMOを小田切に投げた。
「体では返せねえけど、中身チェックして出力して。俺はこう見えて純愛派だから」
悟空と三蔵が、ブースで校正をしていた八戒に気がつかないまま、すぐそばで立ち話を始めた。
「…また変わったのか。何番」
八戒は丹念に乳首を塗りつぶして修正を入れていた手を止めた。三蔵が舌打ちして、悟空の差し出した携帯の画面を覗き込んでいる。
「新機種出るたびに買い換えてんのかよ、あのチンピラは。随分羽振りがいいこったな」
「番号だけ変わってるみたい。にしても半年に1回は変えすぎだよねえ」
「借金取りから逃げ回ってんじゃねえのか。それか女か」
「あ、俺もそう思った」
いつもの癖で赤ボールペンをくるくる回しながら、八戒は黙ってふたりがその場を離れるのを待った。三蔵がチンピラと呼ぶ人間はこの世に一人しかいないはず。
最後に別れてから2年とちょっと。短くはない。
既にメモリー満杯に近い携帯に、苦労して彼の番号を残してあったのに。その数字が半年に一回(ということは少なくとも既に3,4回)変わっていて、それを悟空には逐一報告しながら自分に知らせないと言うのは随分人を馬鹿にした話だ。まあ、かける用事もないけど。
用事。あるようでない。言うほどの用事はない。わざわざ言わなくても、一ヶ月後には新聞に載るだろう。いくら貧乏でも新聞くらいとってるだろう。
同じ業界で仕事をしていれば、姿は見えなくても動向は分かる。先週本屋で悟浄が装丁した単行本を見たばかりだ。意外だった。著者は去年、ミステリーなんとか賞(覚えてないくらいだから、たいした賞じゃない)をとった無名同然の新人。ただでさえ受賞後第一作は売れないと相場が決まっている文芸書。そのうえ、更に売れない短編集。
「…こんな仕事してるからいつまでも貧乏なんですよ」
呟いたものの、全面がほとんど黒に近い深い緑色で、真ん中に一筆で描いたような真紅のラインがさっと入った不思議な装丁は、おびただしい数の本の山でえらく目立った。良い悪いより、心臓にひっかかる感じ。見た人が得体の知れない罪悪感を覚えるような。その本は不本意ながら、丁重に書店のカバーをかけられて八戒の鞄に入っている。知り合ったばかりの男ふたりが、ひたすら海を目指す話。枯れない薔薇に恐怖を覚えて花畑を荒らし続ける少女の話。回る洗濯機の水流に魅入られる主婦の話。布団にくるまれる感触に馴染めない不眠症の少年の話。まるで関連がないと思われた短編群を読み終えて、初めて、八戒はこの装丁の意味が分かった。
…ああそうか。悟浄らしい。
公衆電話からかけてみようと思い立ったのは、番号が使われていない場合はともかく、他人の番号になっていた場合のことを考えてだ。悟浄と違って、この世に存在しない番号をいつまでも抱えておくほど酔狂じゃない。あちこちのビルから押し出された人の群れが一直線に駅に向かって流れるいつもの風景をガラス越しに見ながら、軽い気持ちでボタンを押した。繋がるなんて思わなかった。
「お呼びですか、編集長」
即答だった。
こちらがまだ声も出してないのに。向こうに自分の名前が表示されてもいないのに。
何秒、もしかしたら何分呆気にとられて黙っていたのか分からないが、電話の向こうの相手は沈黙に延々付き合って待っていた。微かに背後で事務的なやりとりが聞こえるから多分仕事場にいるんだろうが、地球の裏側にいても同じ事だ。海の底でも空の上でも同じ事だ。
声が聞けた。
もう絶対に俺じゃなきゃどうしようもない時は、俺を呼べ。
そういえば、どうしようもないんだった。悟浄しか、どうしようもない。
「…助けてくれますか」
「勿論」
通話が切れたあとも、八戒は左手に携帯、右手に公衆電話の受話器を握ったまま突っ立っていた。