私生活
act2
緑の目をした、綺麗な顔の男。
悟浄が聞いたのはそれだけだ。あいつとは限らない。目の色なんかどうとでもなるし、綺麗な顔と言われても基準が分からない。悟浄から見たら女はみんな綺麗だし。
「悟浄さん!?」
いきなり背後から肩を掴まれた時、悟浄は耳なりのような騒音と煙草の煙、10代の子供でぎっしり埋まったクラブのフロアーを、壁伝いに出口に向かってじりじり移動している最中だった。昔は相当入り浸った渋谷のこの店も、今の悟浄には居心地悪いことこのうえない。
もうダメ。もう限界。青リンゴサワーなんか体が受けつけない。帰ってバーボン呑んで風呂入ってα波出して寝たい。
「やっぱ悟浄さんだ、うわあひさしぶり!」
「誰だてめ…」
途中で思い出した。この店の常連で大学時代の顔見知り。確か二つか三つ下のはず。名前は思い出せないが、つるんでた当時だって覚えてたかどうか。あいつの名前以外覚える必要があったかどうか。
「…なんだ、おまえかよ。いい年こいてまだクラブ遊びなんかしてんのか」
「悟浄さんこそ」
今度、渋谷の夜をテーマに子供たちを撮った写真集を作りたいと思ってまして。fishっていうクラブなんですけど、打ち合わせと下見をかねていらっしゃいませんか。
大手出版社の名前とギャラにつられてVIPルームにのこのこ来てみたが、正直言って吐き気がした。どいつもこいつも酒かクスリでぶっとんで、寝不足で目が血走ってる。こいつらで写真集?エロ雑誌のほうがまだマシだ。デザイナーとかカメラマンとか言うと女子高生にもててしまうのがまた困る。
この仕事を蹴ったことで食らうだろう小田切の小言と、受けたことで被る精神的損害を瞬時に比べると、前者の方がまだマシだと思った。
「俺はやむにやまれず大人の事情で来ただけだ。逃亡途中だから黙って見逃せ」
「ええ〜冷たいなぁ〜。素面なんすか?ガンジャありますよ」
大麻。
煙草のほうがまだ毒素が強いくらいの草だから悪いとは言わないが、昔のダチがそんなもんにいまだにハマってるなんて知りたくなかった。だが、こいつから出たのだ。「緑色の目をした綺麗な顔の男」という言葉が。月に一、二度、週末にふらりとやってきてはVIPルームに直行する客。売人でもないのにクスリや葉っぱをばらまいて女を釣る。
勿論あいつじゃない。あいつが、んなことする訳がない。
「…いくつくらい、そいつ」
「俺らと変わんないか、もうちょい上かも。わりと服とかちゃんとしてるから。凄ぇ有名っすよ」
「なんで」
「怖いから」
綺麗とか怖いとか、どうにも形容があやふやだ。
「ヤクザと繋がってるとか暴力ふるうとか、そっち系じゃねえの?」
「じゃないから怖いんですよ。見た目優しそうで普通の会社員みたいなんだけど…なんか怖いんですよ。説明できねーな。悟浄さんも、直接見たら分かります」
永久に鳴らないかと思っていた青い携帯が鳴ったのは、それから二日後だった。
「相変わらず、見た目優しそうで普通の会社員みたいだな」
「普通の会社員ですし、見た目通り優しいですけど」
246号線を見下ろす歩道橋の上。お互いに体があく時間だけを伝えて切ったが、ちゃんと会えた。八戒の自宅と悟浄の個人事務所は、道をまっすぐ10分ほど歩いてこの歩道橋を渡るしかない。偶然にでも今まで会わなかったのが不思議なくらいだ。意識的に避けたんでなければ。
悟浄は黒いジャケットのポケットに手を突っ込んだまま歩いてきて、ちょうど真ん中で待っていた八戒から2メートルほど離れて立ち止まった。
2年。郷里の友人なら何てことのない時間。
何となく目を合わせ辛くて、八戒は悟浄のブーツの爪先を眺めた。声を聞くまで、会う気なんかまるでなかった。いつでも会えると思いながら会わないで終わると思ってた。
「お困りだそうで」
「ええ、まあ、そこそこ」
悟浄は携帯を引っ張り出して目の前で振って見せた。つられて八戒の視線が上がる。
「おまえ用」
「……ああ」
「それが聞きたかったんじゃねえの?」
忙しさに救われて苦しさも少しずつ紛れて、今では極々たまに、眠りに墜ちる瞬間ふと思い出すくらいだった。また巻き戻ってしまうかもしれない。今日から毎晩夢に見るかもしれない。
それがどうした。
黙って三歩前へ進むと、悟浄はぶつかってきた八戒の体を、もう何年も変わらずしているように自然に抱き返した。ようやく肩の力が抜けた。
変わらない。服も時計も靴も指輪もピアスも見たことがないけど、匂いはそのまま。
「ちょい痩せた?」
「貴方こそ。ちゃんと食べてます?女と酒以外のものも」
「最近は栄養士がついてっから。事務所のアシさん。すげえ有能。二枚目。みっつ上。ちょっとおまえに似てる」
悟浄の声は笑っていた。
「ここは昔のよしみで妬いとくのが礼儀だぜ、八戒」
「馬鹿馬鹿しくて妬けませんよ」
「…あら」
返事に一瞬間があったと思った瞬間、下から突き上げられるような快感がきた。歩道橋の下を轟音をたてて通り抜けたダンプのせいじゃ、けしてなく。
「ちょっと似てるくらいで僕に勝てる訳ないでしょうに」
八戒は不思議な奴だ。自信たっぷりで人を好き放題振り回すくせに、あっさり俺を逃がす。何度も。
「ほんとに僕に呼ばれてくれるとは思いませんでしたよ。律儀な人ですね」
馬鹿にしてるのか純粋に驚いてるのか判然としない笑顔と一緒に、コーヒーが差し出された。
…なんでまた俺は性懲りもなく八戒の家にいるんだ。
「…コーヒーの入れ方、小田切の方が巧い」
「牽制なら無駄ですよ。誘いません」
「ああ、そ」
どうだか。
2年ぶりの八戒の部屋は前と変わらず人の匂いがしなかった。モノを動かした跡もない。
「…ろくに帰ってねえんだろ」
「ええ、もう引っ越そうかと思って。広すぎて寒いんです。寝るだけなら6畳あればいいって最近気がつきました」
「6畳ね…」
「最近どうですか」
この会話は、ちゃんと八戒のSOSに繋がるのだろうか。何一つ困ってるように見えないが。
「どうって普通よ。こないだ藤堂出版の創刊誌のデザイン丸投げされたけど」
「先刻承知だとは思いますがやめたほうがいいです。うちの競合誌は何故かよくつぶれますから」
何が何故かだ。
「藤堂、瑞穂のグラビアとったって聞いたけど」
「瑞穂は僕の女です」
「おまえ本当に困ってんのか!?」
「ええ」
「女に飽きて男に飢えてるとかじゃなくて真面目に困ってんだろうな。悟空が使えねえから会社に戻れとかじゃなく本気で困ってんだな!?」
「ええ」
一応、悟空にリサーチはしてあった。最近八戒の周囲に変わったことはないか、出版業界や社内編成に動きがないか。三蔵のほうがその辺りの事情には聡いのだが、根っから仕事人間の彼は酔わせた程度では口を割らない。悟空によると「悟浄がやめてから八戒は前ほどキツくなくなった」そうだ。俺が消えたんで出世のし甲斐がなくなったか。単に歳くって性格が丸くなったんなら結構なことだが。
八戒は手の中でクルクルカップを回しながらしつこく躊躇っていたが、ようやくぼそりと呟いた。
「また出世してしまいそうで」
「帰る」
「悟浄」
「俺だって暇じゃねえんだよ!出世した?ああ良かったな、おめでとう。じゃあな!」
途中でふっと言葉の勢いが途切れた。八戒が真正面から悟浄の目を見詰めている。ただの黒より暗い緑色。
この瞳は非難だ。
「座って」
裾を掴まれて、悟浄はすとんとソファーに引き戻された。
「僕は統括部長だったんです。これ以上出世するってことは現場から離れるってことです。編集長じゃなくなるんです」
悟浄は内心舌打ちした。
あの役立たず。こんなでかい異動話くらいキャッチしてきやがれ猿。
例え雑誌の売れ行きが絶好調でも編集長がいつまでも編集長でいる訳にはいかない。純粋に下から押し上げられるし、八戒のようなカリスマがいつまでも君臨していると部下の覇気も落ちる。組織にいる以上、しょうがないことだ。選んだのは八戒だ。
現場を離れるのが嫌で、愚痴をこぼしに俺を呼ぶような奴じゃないはずだ。
「脱いで」
考えてる途中で聞こえた八戒のセリフは何の脈絡もなくぶっ飛んだ。
「誘わないんじゃねえのかよ」
「見せてください。右肩」
悟浄は無意識にシャツの上から肩を押さえた。
「いや、何もないから!」
「耳ないんですか。見せろって言ってんです。お願いしてるうちに大人しく見せないと引き千切りますよ」
あーあ。分かっちゃった。
やっぱ怖ぇよこいつ。