私生活

act3



「小田切!」
 23時半。悟浄が我が事務所のドアを文字通り蹴破ると、呼ばれたチーフアシはのんびりと部屋の中央の作業台でコーヒーを啜っているところだった。
「お帰りなさい、先生」
「ただいま!」
 怒り心頭でもきっちり挨拶を返す悟浄に思わず零した微笑が、更に悟浄を怒らせた。
「おまえ何でこっちの携帯番号知ってる!?」
 目の前に突き出されたブルーチタンの携帯を通り越して、小田切の視線は悟浄に直進した。
「何でって、F0押したら番号出るでしょう」
「誰が取り説の話してる!人のプライベート携帯を勝手にいじる不作法は助手としていかがなものかと、そう問いたいんだ俺は!今!」
「すいませんでした」
 小田切は素直に頭を下げた。
「でも、いつもの携帯にかけたら出てくださらないかと思って」
 そうかもしれないが、そうかもしれないとは言えない。
「出ないわけねえだろ!電波が届けば!」
「八戒と一緒だったんでしょう」
 何故この男が八戒を呼び捨てにする。
「持ってるだけの携帯が突然鳴ってーその後も悟浄さんそわそわそわそわしてるしーちょこっと携帯拝見したら[八戒]の番号しか登録されてなくてーで、昔の友人に会ってくる、でしょ?明日早朝渡しの締め切りみっつあるのに。そんな状況で事務所の電話番号が表示されたら出ないんじゃないかなーって。じゃ、青い方にかけたらびっくりして出てくれるかなーって」
 びっくりしすぎて泣きかけたわ。
 おまえ用っつったそばから八戒の目の前で鳴らすか。
 ああ、あの時の八戒の顔は、何と言うんですかアレは。俺は世界で一番の人でなしになった気分ですよ。
 悟浄は肩から鞄をどさっと落とすと、上着を着たままソファーにばったり倒れた。
「…で、何よ。緊急のトラブルってのは…」
「もう対処しました」
「ああ!?」
「川崎さんからお電話あって、出力見本には入ってるタイトル文字のメタルシャドウがデータにないから至急直してくれってことだったんで、バイク便で届けました。30分ほど前に」
「喧嘩売ってんのか!?」
「そんなに怒ることですか?」
 悟浄が一瞬返答につまった隙を、小田切は容赦なく衝いてくる。
「昔のご友人にお会いしてたところをお邪魔したのは申し訳ありませんでしたけどね。終電ギリギリまでアシスタントを事務所に残したまま後の指示も出さずに出かけて、1本の連絡も寄越さないのはどういう了見です。悟浄さんがいつもそういうルーズな方だったらまだしも、今までそんな真似したことないじゃないですか」
 正論だ。
 悟浄はそっと壁の時計を見上げた。ここから銀座線の終電に乗ろうと思ったら、今すぐ走りだしても間に合うかどうか。新たに悟浄の分と思われるコーヒーをセットしている小田切は、問答無用に今夜もお泊まりだ。
「……悪かった」
「それじゃあ、ここからはプライベートトークですが」
 ようやくソファーからよろよろ起きあがり、履き忘れたスリッパを取りに玄関に戻る途中だった悟浄は、小田切の次のひとことでワックスの効いたフローリングを危うく滑りかけた。
「あのクソ生意気な男、大嫌いなんですよ」
「…は?」
「あいつがまだ新入社員の頃に作家のパーティーか授賞式かで会って、それからも何度か顔合わせましたよ。間接的にですが仕事もしました。ほんっと、やな男でね。まだ22やそこらで屁の役にも立たないガキのくせして最初っから人を使えるか使えないかでしか見なくてね。如才なくて可愛げなくて実績ないくせに口だけ上手くてね。僕が同性愛者だと分かった途端態度豹変しましたから、ああ、やっぱりこいつ最低…」
「…待て待て」
 ここまできて、やっとそれが八戒のことだと確信した。小田切の口調はいつもより穏やかなくらいだが、それがかえって真実味溢れている。だいたいこいつが人を悪く言うのを聞くのは初めてだ。しかもその対象は八戒だ。どう受け取ったらいいのか分からない。22やそこらの八戒を、悟浄は知らない。
 同性愛者だと分かったら豹変ってのは、つまり、何。近親憎悪?つか、俺?俺が悪い?
「…いやまあ確かに、奴は性格は悪いけどよ…」
「仕事ができるのは知ってます。部下にも優しいでしょうね、自分の手足ですから。でも汚い手口を使えば仕事がとれることを知らない編集者はいないんですよ。若い女の子の未来をつぶしたり、真っ当に働いてる薄給のスタッフに無実の罪を押しつけて失脚させることを良心が良しとしないから、あえて皆、しないんです。八戒には独創性溢れる仕事の才能なんか何もない、ただ恥知らずで度胸が据わってるだけの出版界の汚点です。近々編集長代わるらしいですが、あれだけヤバい仕事の仕方してきたら、現役降りた途端、はっきり言って生命の危機でしょうね。自業自得です。昔の友人だかなんだか知りませんが、貴方が骨折ることなんかひとつもない。あいつのために仕事や貴方自身を疎かにするような真似したら、僕は貴方を軽蔑します」
 小田切はそこまで一気に喋ると、呆然と突っ立ったままの悟浄の足下にスリッパを揃えて置いた。
「コーヒー、どうぞ。美味しいですよ」
 
 
 小田切が容赦なくコールしてくれたその時、八戒はただでさえ別のことで不機嫌だったのだ。襟と袖の飾りボタンがお気に入りの、まだ新しいシャツを破られるよりはマシだったので、悟浄はあっさりボタンを2,3個外して右肩から落とした。八戒が多少の下心ありで悟浄を呼びだしたんだとしたら、つい、ほぼ、間違いなくやってしまいそうな気がして、それならそれで早いとこ見せといた方が後が楽だと思ったのだが。
 数秒の間があって、八戒はびっくりするほど低音で唸った。
「…なんですかこれ」
「…なんですかって」
「傷はどうしたんです。銃創は」
 どう聞いても「傷が残っている方が望ましい」としかとれない。
「あるっつの、ほら、ここ!あんな極道な傷そのままつけて銭湯通いできねえだろ!ああ、おまえ見てないか。こう映画で見るような、如何にも銃で撃たれましたっていうような、それはそれは見事な傷が」
「刺青してても銭湯入れないでしょうが!」
「刺青じゃねえ!」
 単に傷を消すだけなら形成外科の部類だ。医者にも紹介状を書こうかと薦められた。だが女じゃあるまいし、服着てれば隠れるところに何もそこまでとぐだぐだ考えていた時に、例の新宿バーで顔見知りの彫り師が傷に馴染むように上から彫ってくれたのだ(ゲイにはタトゥフェチが多い)。深い緑色の花を。最初にいっとくが緑色に意味はない。赤にも黒にも肌の色にも合って、一番褪せにくく傷が浮きにくい色を選んでもらっただけ。
「…綺麗じゃねえ?」
「…綺麗ですよ、凄く」
「何が不満よ」
「…なんでしょう…綺麗だからですかね…」
 八戒はしばらく悟浄の右肩を凝視したあと、ふうっと長い溜息をついた。その溜息がそのまま花に落ちてきた。八戒の、吐く息は熱いのに冷たい唇が皮膚に押し当てられた途端、充分身構えていたはずなのに声が上擦った。
「は、八戒、ちょっと待」
「…なんか…キスマーク残してたのに消えちゃったみたいな感じですね」
「あの、八戒」
 ソコ、敏感なんだけど。
 ていうか、もう抱き締めないと変なぐらいの体勢なんだけど。
 …じゃなくて。
「続きはどうなったよ!」
「…続きって?」
「編集長じゃなくなるの続き!」
「ああ」
 八戒はあっさり悟浄の上から降りると、ソファーに座り直した。あっさりすぎる。
 …俺はまたこの人の術中にはまっているのでしょうか。
「僕は編集長という肩書きを使って相当汚い真似をやってきた訳ですが」
「…そうね」
「女の子調達するのに極道な方たちに色々お世話になりまして」
「そーね」
「ていうか脅したりすかしたりしまして」
 ヤクザをかよ。
「クスリちょろまかしたりしまして」
 やっぱアレはおまえかよ。
「ちょっとヤバイんですよ」
 ちょっと東京湾に沈んでこい。
「助けてくれません?」
 ああ、助けるよ。畜生。
「俺にどうしろって!?」
 八戒が、あのですね。と言ったところで携帯がなった。
 最悪。

 小田切の言うことは、多分正しい。自業自得だ。そのくらいの覚悟はあって、色んなものを捨てて、今までやってきたんだろう。
 悟浄は早朝締め切りの仕事を半分しっかり小田切に投げて、煙草を立て続けにふかしながら悟空の言葉を思い出した。「悟浄がやめてから八戒は前ほどキツくなくなった」…。
 八戒のことは、正直信用していない。病院で自己申告したとおり、俺を顎で使いたいだけで、俺を部下にしたいだけで、それだけであそこまで出世し続けたかどうかは分からない。だから、あいつの暴走が俺のせいだとは思わない。俺のせいだったとしても、俺の責任じゃない。ただ俺はやっぱり。
「小田切くーん」
「なんですかー?」
 流石に眠そうだ。
「…やっぱり軽蔑する?」
 しばらくカタカタと、キーボードとプリンターの音が響いた。
「好きなんですか?」

 好きなんでしょうね。

 

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