私生活
act4
「夕べのお話の続きなんですが」
八戒は受話器に向かって事務的に話しながら、右手で人事部から回ってきた査定表を蓋を閉めたボールペンで辿り、上から3番目と7番目の部下の名前の左脇にチェックを入れた。春の異動で編集部放出を申し渡される可哀相な部下たち。これがあるから、今日は朝から憂鬱だった。
「続き?」
「ええ、途中だったでしょう。今晩お時間いただけませんか、ちょっと付き合って欲しいところがあるんです。会社の帰りにそっちに寄りますよ。21時から21時半の間。どうです?」
電話の向こうの相手が絶句している間に八戒は更に書類に判子を4つ付き、悟空が広げたデザインのラフに目でダメ出しを出し、ついでに眼鏡を外してレンズを丁重に磨いた。両方とも磨き終わってもまだ相手が沈黙しているので、八戒は軽く机を指先で叩いた。苛ついた時の八戒の癖なので、そばの部下が驚いて振り返る。
「…聞いてるんですか貴方。こっちは年度末で忙しいんです。都合がいいのか悪いのかさっさと」
「…怒ってねーの?」
悟浄の呆けた口調に自然と頬が緩んだが、部下の凝視にあって慌てて姿勢を正した。
「怒ってますよ。返事が遅いから」
「ああ。うん、いや…別にいーけど」
「それじゃ後ほど」
電話を切って初めて、ダメ出しに納得のいかないらしい悟空がまだそばにいるのに気が付いた。
「…なんです悟空。背景がうるさいからトーン落としてください。言わなくても分かるでしょう、それくらい。ほら、ここのキャプション消えてるし」
「今の悟浄?」
通話中、電話機に表示されていたのは、悟浄の相方だった悟空には暗記するほど馴染んだ番号だ。
「…めざといですね」
「会ってるの?」
「最近ですけど」
昨日だ。
「…何か?」
悟空は一瞬躊躇ったが、すぐに笑った。
「良かったね」
悟空が考えていることはよく分かる。口には出さないが、三蔵も悟空も、悟浄がそばにいることで八戒が崩れやしないかと心配している。
正直自分でも、あんな離れ方をした男と再会したら、取り乱してどうにかなるかと思った。
でも、案外平気だった。悟浄にも、そう見えたはずだ。
もしかしたら夕べいいところで邪魔してくださったマネージャーとやらのおかげかもしれない。悟浄が普段、誰とどんな仕事をしているか知らない。知らないから自分が気遣う必要はない。同じ会社にいた頃とも、同じ学校にいた頃とも違う。一緒に眠るのが当然の仲でもないし、部下でも上司でもない。近づこうが近づくまいが、仕事にも周囲の人間関係にも何の関係もない。
まっさらだ。
何のしがらみもない大人の人間同士。
今後悟浄が自分とどう関わろうと、悟浄の勝手だ。悟浄が選べばいい。
「編集長、面談始めますから応接室にお願いできますか」
人事部長に呼ばれて、八戒は立ちあがった。
個別面談で、今日の今まで手足となって働いてくれた部下たちを手放さなければならない。落ち込まれても喜ばれても後味が悪い最悪の仕事。そしてその次は、自分の番。社長の口から直に辞令が降りてくる。
こんな日には、後の楽しみがなければ、やってられない。
「えー…八戒が今晩事務所に来ますが」
天気の具合を見にきたついで、といった風情で、悟浄は窓際の小田切の机の横で呟いた。
「それ、何時頃片づく?」
「…八戒さんは何時頃お見えになるんですか?」
小田切はパソコンの画面から目も離さず手も止めない。「さん」付けなのは後ろに他のスタッフがいるからだ。
「9時から9時半の間」
「それまでに仕上げるのは、ちょっと難しいですね」
「仕上げなくていいから9時には帰れ。…じゃなくて帰ってくれ。…くれないでしょうか」
だんだんとフェードアウトしていく悟浄の台詞は語尾が消えた。
初めて悟浄にちらりと視線を寄越し、小田切は軽く溜息をついた。
「…悟浄さん。確かに僕は個人的には彼のような人間は嫌いですが、子供じゃあるまいし雇い主のご友人に仕事場で喧嘩売ったりしませんよ。それともあちらが昨日の携帯の件で僕に文句でも言いたがってるんですか?」
「いや別に」
「じゃあ僕がいても構わないじゃないですか。お茶くらいいれますよ」
言外に仕事の邪魔するなという態度アリアリなので、悟浄は大人しく引きさがった。
…八戒も小田切もえらく冷静だ。何で俺がわたわたしなきゃなんねーんだ。
八戒。
悟浄には想像するしかなかったが、あれだけ打ち込んでいた仕事から遠ざかるのは、あいつにとっては相当な衝撃だろう。さっきの電話の声はいつものように落ち着いていて、意味もなく偉そうだったが、全部終わったあとも、あの訳の分からない自信に満ちあふれた声が聞けるだろうか。いわゆる燃え尽き症候群になったりしないんだろうか。
腕時計を外して文字盤をこちらに向けて机の上のそっと置くと、悟浄はシャツの袖を捲り上げた。ブラインドの隙間から手元に落ちてくる光が次第に弱々しくなっていく。
5時半。あと3時間半。
悟浄は昔から、耳元で時計の秒針の音がするのが好きだった。バスケの試合。レポート。仕事も。何か、確実に揺るがないタイムリミットがあって、その間に何かを仕上げるという作業がゲームのようで面白い。9時までに仕事。9時半に八戒が来たとして、そこからはまた…ゲーム。
ふっと、蛍光ペンを持つ手が止まった。
ゲーム。
えらく長いゲームだ。
昨日は今ひとつ確信がもてなかったが、八戒は俺にまた迫ってくるだろうか。まだ俺が欲しいだろうか。俺は、またかわすだろうか。また上手くかわせてしまうんだろうか。今度はタイムリミットがない。卒業や退社でリセットできる区切りがない。強いて言えば、八戒からの頼まれ事が解決するまで。
俺を逃がさなきゃいいのに。あいつなら、できるだろうに。
9時半きっちりに八戒はやってきた。待ちくたびれた悟浄はベランダで一服していて、ドアを開けたのは小田切だった。
「どうぞお入り下さい。お待ちかねですよ」
「どうもお邪魔します」
八戒は何の気負いもなく頭を下げると部屋の中を見渡した。マンションの8階、角部屋のワンルームだが、芸術家くずれのスタッフたちが寄ってたかって空間プロデュースしたために、天井から棚だのハンモックだのポスターだのオブジェだのがぶら下がって上半分はおもちゃ箱のようだ。下半分は普通のオフィス。
「…デザイン事務所ーて感じですねー。…貴方がチーフの方?」
小田切は穏やかな笑顔で頷くと、八戒に椅子を勧めた。
「おひさしぶりですね八戒さん。小田切です。4、5年前に黒川さんの下にいた」
ちょうどその時、悟浄がガラリとガラス戸を開け、八戒と真正面から目があった。八戒は視線を悟浄にあわせたまま、さらりと言った。
「すいません、僕、驚異的に人の名前覚えるのが苦手で。どこかでお会いしたことありましたっけ?」
「…いつまで笑ってるんですか貴方」
八戒が一旦家に戻って引き出してきた車の中で、悟浄は抑えたと思ったらまた噴き出し、おさまったと思ったら肩を震わせる。
「や、ワリ…ごめん…もうちょい」
「何がおかしいんです」
「つか…おめー…ほんとに小田切…覚えてねーの?」
「覚えてますよ、よく」
憮然とした八戒の返答にまた爆笑した助手席の悟浄は、思いっきり向こう臑を蹴り上げられた。
「しつこい」
「や、いや、ごめん…やっぱ、あれだわ、おまえだわ」
「何のこっちゃ」
八戒は大きくハンドルを右にきった。車の外が明るすぎて、お互いの顔がよく見えない。
「いやーなんか、嬉しくてよ」
「嬉しかないですよ。僕にちょっと似てる?小田切が?どこが?信じがたい侮辱」
「あはははははははっ」
「怒りますよ」
八戒は勢いよくギヤを落とし、車はがくんと地下へ潜った。
「あれ、ここどこ?笑ってて見てなかった」
「渋谷です。ちょっと外れてますけど。地下に止めて5,6分歩きます」
渋谷。
あの月に1、2度顔を出す「緑色の目をした綺麗な顔の男」がこいつであってくれるなと祈っていたのだが、こういう時は必ず悪い予感が当たるものだ。物騒なことはもう御免だ。
と思いながら、悟浄の口からはまったく別の言葉が零れた。
「好きだなあ」
「はい?」
「なんでもね。さ、行きますよーどこへでも」
あの小田切の、キョトンとした顔。明日は小田切のご機嫌伺いをしなきゃならないし、これから連れていかれるであろう場所は眩暈がするほど行きたくない店に決まっているのに、八戒が小田切をやりこめたのが、何でこんなに嬉しい。
「悟浄」
八戒はキーを指でクルクル回しながら、車越しに悟浄を見た。
「ちょっと演技してくださいね。得意でしょ」
「は?演…」
「貴方はチンピラという設定で、僕の舎弟」
やっぱろくな奴じゃない。