私生活

act5



「貴方の背景って大抵夜のような気がしますね。でなきゃ朝」
 人が多いとか歩き煙草が危なくてできないとか五月蠅いとか眩しいとか寒いとか、後ろから自分の位置を文句で知らせながらついてくる悟浄に、八戒は振り向きもしないまま呟いた。聞こえなくても良かったのだが、相変わらず悟浄は五感が鋭い。
「そっか?そんなことねーだろ。昼間も会ってたじゃん」
「でも何となく印象が」
「それはてめえが俺とヤることばっかり考えてるからだ」
 思わず振り向いた途端、肩に人がぶつかってくる。
「…なんてこと言うんです、人を獣みたいに」
「でなきゃ俺に性懲りもなくまだベタ惚れで、夜ふたりっきりになった時以外の記憶を片っ端から抹消してるからだ」
 そうなのか?
 自分がどう暴走しようが基本的には「受け止める」姿勢の悟浄が極たまに断定口調で話す言葉は、するっと奥に入り込んでくる。
 そうだったのかと。
「で…それを怒ってるんですか?」
「おや図星なんですか?」
 手強い。
 仕事柄そういう知識ばかり増えるのだが、人を揺さぶるにあたって刺激すべきなのは、女性なら聴覚、男性なら視覚だそうだ。セックスの時に女は平気で目を閉じるが男は閉じない。女は睦言を大事にするが男はしない。
 いつもいつも悟浄を前にすると軽く混乱するのは、自分のせいではなく彼を取り巻く微かな光のせいじゃないか。深夜のネオンサイン、車のヘッドライト、枕元に置いた腕時計の蛍光の秒針、明け方にカーテンから漏れる薄い太陽。悟浄を浮かび上がらせるのはそんな小さな光ばかり。そばにいないと見えないような光ばかり。だから余計、錯覚するのだ。
 いつも手を延ばせば届くような。何度離れても必ずそばにいるような。
 でも錯覚だ。
「…僕は?」
「ん?」
 信号が赤に変わったのに気が付かない八戒の腕を掴んで引き戻しながら、悟浄はようやく煙草に火をつけた。
 そう、ライターの炎とか。
「僕の背景ですよ」
「…夜か朝」

 死に物狂いで捕まえるか。
 こうして何度も引き寄せては離しながら、潮がひいていくのを待つか。
 うっかり悟浄を好きになりすぎた。
 今更恋愛するのも馬鹿馬鹿しいくらい、悟浄にとって自分がどんな位置にいようが構わないくらい、もう好きだか嫌いだか分からないくらい、いくら長い間離れても平気なくらい。でもそれは、呼べば必ず来てくれるという大前提があっての話だ。
 どうする。
 
[fish]は喧噪から離れた雑居ビルの地下にある。上階は夜は無人になるオフィスばかりで飲食店のテナントも入っていないので、その気で探さなければ地下にクラブがあるとは、まず気が付かない。
「貴方、通ってたんですって?」
 悟浄は嫌々頷いた。
「大昔な」
 宮と。
「VIPルームに入るまでは僕の名前を呼ばないでください。一応、謎を纏ってみてるんで」
「なんでよ」
「かっこいいでしょう、その方が。謎の男」
 悟浄を事務所に迎えに来て小田切を一刀両断した時にはGパンにネルシャツだった八戒は今やスーツで、しかも店の前でネクタイを締めた。悟浄は思わず自分を見下ろした。まさか今晩町をうろつくなんて思わなかったから、女をひっかけるにも気後れするまったくの普段着だ。
「…俺、こんなんでいいの?」
「貴方は元々が派手すぎるんです」
「…で、何すればいいの?」
「僕をたててればいいんです。いつも通り」
「…で?」
 八戒は、ネクタイの結び目の大きさを掌で確かめながら、簡潔に説明した。
「今からここで、ちょっと厄介な人に会います。貴方は自由にしてください。暴れたくなったら暴れて構いませんし殺したかったら殺してください。ただし僕の言うことはキチンと聞いて」
 いまふたつもみっつも悟浄の合点がいかないうちに扉を押してスルリと中に入ってしまった八戒は、慌てて立ちあがった受付の男の前を一瞥もせず通り過ぎながら、短く言った。
「連れです」
 今のが受付に対する自分の紹介だと悟浄がようやく気が付いた時には、更に奥の扉が開いて眩暈がするような轟音がどっと襲ってきた。
「…もう既に嫌」
「早すぎますよ」
 逃亡を警戒してか悟浄のシャツの裾を握ると、八戒は人混みの中を、自分の行く手に塞がるものは電信柱でもよけて当然とでも思っているかのように直進した。さっき渋谷の町中でぶつかってきた通行人に「あ、すいません」と丁重に詫びていた男と同一人物とは思えない。10代後半の少年少女たちの中で、スーツ姿の八戒は恐ろしく目立った。しかもまったく気後れしないその堂々っぷりに、あからさまに周囲が動揺している。
「何者?」
 悟浄の耳に入った囁き声は、まさに悟浄の心情そのものだ。何者だ。つーか何様だ。
「…おまえ、怖いもんなしだな」
 八戒は不意に悟浄に向き直った。その視線の鋭さに思わず立ち止まる。
「…僕は貴方が」
「悟浄さん!?」
 緑の目をした男情報をくれた顔なじみが、遠くから悲鳴のような声をあげて近寄ってきた。
「…またおまえかよ…」
「あれ〜!? 何、何、何で」
 八戒はふっと悟浄の裾を離すと、VIPルームへの階段を上がった。
 この世で怖いものなんてないと思ってた。
 だって時間が流れる。時間が解決しないことなんて何もない。どんなに自分が嫌いになっても必ず好きになれるチャンスがくる。変わらないものなんてない。本当に怖いのは変わらないことだ。希望がないことだ。
 悟浄が変わらない。
 声が低くなった。同じ優しさでも遠回しになった。ちょっとやそっと突いたくらいですぐさま発情したりしない。なのに、変わらないと思いたい気持ちで自分の目が曇っている。それが怖くてたまらない。
 会わない間の時間が、自分の側だけ止まってる。

「し、知り合いっすか、あの人」
「知り合いっつか…昔の友…」
 悟浄は思わず階段の上を仰いだ。
 友達と言っていいのか謎の男を。舎弟設定だから、えーと、舎弟は上の奴を何て呼べばいいんだ。
「……えー……まあ…ご主人様?」
 違う。
「えーあの人、絶対アブないっすよ!なんか弱味握られてんですか!?」
「惚れた弱味で自主的に」
 まだぎゃあぎゃあ騒ぐ男を振り切って階段を駆け上がると、八戒は上がったところで腕組みして待っていた。
「…知り合いがいるんですか。僕の名前、言わなかったでしょうね」
「勿論です」
 これは、そろそろ忘れかけていた八戒の戦闘モードだ。
 そう思った途端、悟浄の肩から荷が下りたように楽になった。昔の恋人でもなく友人でもなく部下に戻ればいい。簡単だ。
 入社したての頃に八戒が言っていた。気持ちの上で人より有利な立場にたつために大事なのは、性格でも見た目でも才能でも、ましてや肩書きでもなく、気合いと自信。
「自分は偉いと思いこむんです。たいして美人じゃなくても雰囲気が美人な人っているでしょう。有無を言わさず気合いでオーラを出すんです」
「出るのかよ」
「出ますよ。出てるでしょう?」
 真夜中のオフィスで悟浄の上にのっかりながらの台詞だ。
「…出てる。なんかもう、負けてもいーかなって感じ」
 貴方みたいに天然で自信満々て訳にはいかないですから。八戒はそう言うが何もないところからは出ないだろう。八戒は元々自分のことを愛せる奴だ。あいつが自信を無くすのは、俺と恋愛した時だけ。
 だから、もうしない。
 八戒に二度と勝ちたくない。
「おひさしぶりです。お邪魔しても?」
 八戒は3つめの扉を開き、穏やかに微笑んだ。VIPルームの先客は三人。本物のチンピラにしか見えない。悟浄は自分の形状記憶シャツのボタンを、なんとなくもう一つ外した。気合いだ。
「どうぞ、先生。ひさしぶりですね」
「…誰だ先生って」
 言いかけた悟浄の靴を、八戒が笑顔もそのままに踏みつけた。
「これ、連れです」
 二度目の短い紹介文を受けて、悟浄はどうもと頭を下げた。意外と礼儀正しいチンピラA・B・Cが悟浄に席と酒と煙草を勧めてくれたが、八戒の無言の牽制にあって席だけもらった。
「瑞穂のことなんですけどね。あの子をよそに使う話を僕は聞いてないんですが、これから説明してくださるおつもりだったんでしょうか」
 八戒はソファーに座るなり、世にも不思議な微笑を浮かべて切り出した。
「ああ、どうも僕の話はまわりくどくていけませんね。説明してくださいと言ってるわけじゃないんです。使うな。と言いたいだけです」
「やっぱ火貸して」
 急に、悟浄は一番近いチンピラBにくだけた口調で言った。
「あ、え、はい」
 思わず敬語と共に差し出されたライターを受け取って火をつけると、悟浄はそれをポンと投げ返した。
「サンキュ」
 八戒は一瞬驚いて悟浄を見たが、すぐ視線をチンピラAに戻した。深い考えがあってのことじゃ多分ない。悟浄の戦術はこれなのだ。事務所でも、きっとこの調子で相手をまかすに違いない。
「でもねぇ先生。貴方噂じゃじきに現場離れるって話じゃないですか。先生がいないんじゃ俺らが貢献する意味ないじゃない」
 一番身分が上らしいAは、喋っているうちにだんだん声が低くなってきた。人にはそれぞれの戦い方があるものだ。
「ぶっちゃけた話、あんたにはかなり痛い目にあってるよねえ。うちの女の子に事務所通さずに接触しちゃうしさあ。世間にそれなりに名がとおった会社にいるってだけで偉そうにしてるけど、あんたのやってることは犯罪だろ?だいたい瑞穂にどこで会ったのよ先生」
「六本木のバーで、たまたま」
「たまたまじゃねえだろ、調べて張ったンだろ!?んでベッドん中で体掘ったついでに根ほり葉ほり事務所の内情聞き出して次は恐喝?かーっ!たいした編集長様だなぁおい」
 あーこわ。悟浄が平然と呟いた。
 チンピラに言ったのか八戒に言ったのかは謎だ。
「そんな大事なタレントを放し飼いにしてる貴方がたのマネージメント能力に問題があるんでしょう。ただでお上に黙ってて差し上げる義理もないから、お金やおクスリで解決してるんでしょう。立派に取引ですよ。何人もおたくのタレント売ってさしあげたはずですが?」
 八戒の横で、悟浄は退屈そうに背後のガラスに額を押し当てている。一応会話の端々から事態を把握して欲しいと願っていた八戒が、早くも諦めて言葉を続けようとした途端、悟浄はくるりと向き直った。
「ああ、あんたシーズンの副社長じゃん!どっかで見たと思った!」
 どうやら下のフロアーではなく、ガラスに映った男の顔をさっきから眺めていたらしい。
「あんたんとこの部下だろーが、俺の肩ぶち抜いてくれたのは」
 ゆっくりと、Aの眉間に皺が寄った。
「……おい先生、こいつ誰だ」
「誰だたぁ御挨拶だな。あいつ、もう出所したろ?俺を撃ったガキだよ、毛がツンツンの…」
 語尾が途中で宙に浮いた。一番遠い席で悟浄を凝視しているチンピラC。
「……みーっつけたっ!」
 ダン!
 部屋の真ん中にあったテーブルを踏み台に、悟浄は部屋の対角線上にあっという間に移動して、逃げ掛かったCの襟首をひっつかみ床に薙ぎ倒した。止める間もなかった。それでも悟浄は自分の動きに不満らしく、舌打ちして拳を握った。
「あーやっぱ体なまってんな〜。良かったなガキ。運がよけりゃ死なねえかもな」
「悟浄、そのへんでやめなさいって」
 八戒は悟浄がテーブルから撒き散らしたカシューナッツの屑をポンポンと膝からはらった。
「どうせ逃げられやしません。僕の話が終わったあとで」
「あとで?」
「お好きに」
 八戒はまだ笑みを崩さず、立ちあがろうとしたAの前に掌を翳して遮った。
「…で、続きですがね。瑞穂に関しては書類がそろってますので、向こう1年はうちの専属です。僕が引退しようがどうしようが、法的にそうなってますんでね。申し訳ありませんが」
「あの男は何だっつってんだろうが先生!! あんたんとこのデザイナーじゃなかったのか、弾に当たった間抜けは!それとも、あのチンピラみてえな奴がデザイナーか!?」
「それでですね、今まで交わした取引に関しての過不足は、そこで殺されかけてる貴方の部下の身の安全と引き替えってことでどうでしょう」
 Cを足で押さえ込んだまま煙草をふかしていた悟浄は、八戒をちらりと見た。
 …俺がAだったら、この場で八戒か俺を半殺しにすると思うけど。


 

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