私生活
act6
八戒が微かに身を乗り出した。
こいつ、必死だ。悟浄は足の下で大人しく息を殺しているCを見下ろした。
明らかに分がない。向こうは曲がりなりにも会社組織で、こちらは後ろ盾もないただの二人組。向こうで危機に陥ってるのはこの男ひとりだが、こっちは俺と八戒のふたり。
八戒が装っている余裕は全部はったりだ。
心臓に冷や汗かいてるくせに、まだ笑ってる。
「…先生。あんたのせいでこっちに入るべきなのに入らなかった金。勝手にうちの人間使われた契約違反やら修正ミスでこっちが起こしかけてあんたに潰された裁判での賠償金請求額。何千万単位」
「そうでしたっけ」
「で、あんたに流してやったクスリの総額も何百万単位」
「そうでしたっけ?」
「働き過ぎで頭イカれたか先生。あんたをここで一生自力で歩けないようにしちまえば済む話じゃねえか」
まったくだ。
悟浄は短くなった煙草をCの顔のすぐ脇の床に押しつけて消した。
まったくだ。
「八戒、停めろ」
返事はない。さっきから交差点にさしかかるたびにタイヤがもの凄い音で鳴き、耳をつんざくようなクラクションが四方八方から襲いかかる。
内心叫び出しそうなのを必死で抑えつつ、悟浄はシフトレバーの上の八戒の手を、ゆっくり握りしめた。
「次の信号左折して外苑で停めろ」
相変わらず返事はなかったが、車は奇跡的に無傷で明治神宮外苑森の脇に停止し、悟浄が横から手を延ばしてエンジンを切った。
ハンドルを強く握ったまま前方を凝視する八戒の呼吸が、だんだん浅く荒く、不規則になっていく。
しばらく黙ってそれを眺めた後、悟浄は肩に腕を回して八戒を引き寄せた。髪に何度も口づけるうち、本格的に体が震え出した。
…泣くかな。
「…もう大丈夫だから」
流石に泣きはしなかったが、八戒が言葉らしい言葉が喋れるようになるまで相当時間がかかった。
「…悟…」
「黙ってろ。いーから。俺だから」
何がどう俺だからなのか口走った本人は訳が分からなかったが、八戒は悟浄の右肩に額を押しつけたまま頷いた。
さっきまで喧噪と光と噎せ返るような人混みの中にいたのに、何キロも離れていない東京のど真ん中で、もうお互い以外、何ひとつない。
悟浄は八戒を凭れさせたまま煙草に火をつけた。音をたてて、日付が変わる。
貴方の背景って大抵夜のような気がしますね。
考えてみれば、普通のことだ。悟浄が吐き出した煙は、窓の隙間から夜に引っ張り出されるように車外に流れていく。普通に昼間働いている大人なら、プライベートの人間付き合いができる時間は、夜を過ごして朝を迎える間だけだ。八戒と初めて出会ってからもう10年近くたつが(そのうち半分以上は音信不通だったが)昼間の八戒の記憶は数えるほどしかない。いつもいつもいつも、夜。その代わり夜なら、遥か昔までさかのぼって鮮明に思い出せる。最初の夜から全部。
「……情けない…」
八戒が掠れた声で呟いた。
「俺が一緒だったから気がぬけたんだろ」
「…も…びっくりして…死ぬかと思っ…」
「あそ。笑ってたぜ、おまえ」
ようやく弛緩した体がずるずると凭れてくるままに任せていたら、八戒の頭は最後に膝の上に落ち着いた。
「…怪我は?悟浄」
紅い髪を八戒の指が掬い上げる。
「掠っただけ」
「無茶を…」
「舐めさせてやってもいいけど高いぜ?」
「…いくらでも払いますよ、即金で」
八戒はようやく、少し微笑った。
「…あー…怖かった」
聞いたか、おい。怖かったんだとよ。あんな無敵オーラを撒き散らした何様な男が、怖かった、だとよ。
悟浄のついた溜息が呆れたようにきこえたのか八戒は微笑をひっこめたが、悟浄のそれは感嘆だ。いくら仕事でも、そうするしかなくても、人にはできることとできないことがある。本音も感情も押し殺して完璧に自分を偽れるその根性は、何度目の当たりにしても圧倒される。
「すげえな、おまえ」
「…どこがです」
「あんなこと、ずうっとひとりでやってきたんだな。すげーわ、ほんと」
八戒はしばらく悟浄をじっと見詰めていた。口調が軽いので、本当に感心しているのか、軽蔑しつくして馬鹿にしているのかの判断がつかないのだ。悟浄もあえて、それ以上説明しなかった。しようと思えばできるが今晩は嫌だ。八戒がこの状態だから必死で平静を装っているが、悟浄だって極度の緊張と安堵を繰り返してテンションが上がりきっている。きっと、妙なことを口走る。
「…悟浄の方がよっぽど。…ほんとに素人ですか貴方。映画見てるみたいでした」
「そんなにかっこよかった?」
「馬鹿ですよ」
一触即発の雰囲気のVIPルームで、悟浄はシャツのポケットに突っ込んだままのカッターナイフを歯をきっちり2センチ出してCの手に押しつけた。ここで飛び出しナイフが出りゃかっこがつくんだが、生憎悟浄はまっとうな社会人で、それより何より、これ以上刃先が長いと本気で痛い。Cには右耳が半分なかった。耳を引きちぎるのは、表向きは会社員であるチンピラの、典型的なオトシマエの付け方だ。2年前の、あの不始末が原因だろうか。こいつも被害者だと思うと一概に恨む気にもなれなかった。が、仕方がない。例えどんなに酷い人間だろうが八戒は八戒だ。大事な奴だ。
目を見開いた片耳の男の残っている方の耳元で、悟浄は声を殺して囁いた。
「悪いな」
他の方法が咄嗟に考えつかなかった。八戒のはったりを、誰も傷つけずに助けてやれる方法が。Cに掴ませたカッターを自分目がけて突きだし、仰天したCが引こうとした刃先を思いっきり素手で握りしめた。
掌を一文字に熱が走る。
「てっめ…何、先走って!」
Aが血相を変えて叫んだ。Cが悟浄を刺そうとしたように見えただろう。脅しの途中で先に手を出してしまったら元の木阿弥だ。指の間からやっとにじみ出す程度の出血。
…少ねえな。
サービスとばかりに力を込めると、やっと演出効果が出るほどの量が噴きだした。
「…あらら、貴方の部下はこりてませんね」
八戒は悟浄の血を見ても眉ひとつ動かさなかった。
「彼は2年前に我が社に乱入して大事なパソコンを破壊したのみならず、うちの前途有望なデザイナーを結果的に社から追い出したんですよ。ほーら、また怪我させた。どうしてくれるんです。あのような危険な方を許して差し上げるっていうのは、僕にも彼にも相当な譲歩ですよ。特に彼はこの僕が手こずるほどのやんちゃ坊主ですから敵にまわすと何するか。ねえ悟浄」
八戒は、完璧な笑顔を魅せた。見惚れるくらい自信たっぷりに、それはそれは楽しそうに。まるで生まれてこの方思い通りにならなかった事なんかひとつもないように。たいした演技力だ。
「あー悪いけど俺は許して差し上げられねえな。俺の人生無茶苦茶だぜ、こいつのせいで」
別に全然平気ですけど。おまけに撃たれたのはこいつのせいじゃなく八戒のせいですけど。
「まあまあ、僕が頼んでるんですよ悟浄。許してあげてください。お願いします」
違う俺は何も、とか何とか喚きかけたCの口に血まみれの拳を突っこんで、悟浄は如何にも「渋々」と言った感じで頷いた。
「あんたがそういうんなら、まあ、いいけどよ」
白々しい掛け合いに騙されてくれたのか、予想外の展開に面食らってペースを乱されたのか、Aは八戒と悟浄を交互に見比べたまましばらく沈黙していた。
「……先生。と、そこのあんた」
マドラーが悟浄に向かって突き出された。
「うちの会社のほうが性にあってんじゃねえの」
「光栄です」
八戒の微笑は店を出るまで消えなかった。無言でハンカチを悟浄の掌に押しつけると、八戒は足早に来た道を戻り始め、地下駐車場へ降りて車に乗るまでひと言も口をきかず、運転席に腰を下ろした途端乱暴にネクタイをむしりとった。
戦闘モード解除。
「本当は、貴方は柳井さんに気が付かない前提で話を進めるつもりだったんですけど」
「…柳井さんて誰」
「シーズンの副社長」
そんな名前だったか。
八戒は悟浄の膝の上で90度体を反転させた。下腹に熱い息。
「…そしたら脅しになんないじゃん。あいつら、俺が言わなきゃ俺が誰だか分かんなかったろ」
身動ぎしようにも狭い車内では逃げ場がないので、悟浄は八戒が口でジーンズのファスナーを下ろしにかかったらすぐさま引き剥がそうと、茶色がかった髪に指を差し込んだ。こんなところで挑発されても。
「だから、銃創を見せてくれって言ったんじゃないですか。あれひとつで脅しには充分だったんです」
そういうことか。なーにがキスマークが消えちゃったみたい、だ。
「…怖えー男。一瞬でもその気になった俺が馬鹿でしたよ」
これで終わるだろうか。
八戒に手を出したら悟浄が、悟浄を狙えば八戒が黙っちゃいないことが、向こうに伝わっただけでも牽制にはなったはずだ。
「…これ、あれ?」
八戒は、ああ、と呟いて胸ポケットから覗いたポケットティッシュの中に押し込まれた小袋を指で摘んで引き出した。VIPルームを出るときに、餞別だと柳井が投げて寄越したやつだ。
「悟浄、本物見たことあるんですか」
「映画でな。…クスリって、大麻とかじゃなくてコレのこと?まさかヤッてねえよな」
「人に盛ったことはあります」
さらりと恐ろしげな台詞を吐いて、八戒は探るような目を向けた。
「覚醒剤に対して偏見は?」
「…別にねーけど偏見以前に法律で禁止されてるんじゃなかったか?」
元通りに懐にソレをしまうと、八戒はようやく体を起こした。
「一般に可愛いと言われてる女の子たちが、僕に抱かれたくらいでほいほいなびく訳ないじゃないですか。別に貴方みたいにテクが凄い訳でもモノが立派なわけでもないし」
話がシモなわりに、八戒の口調は至極真面目だ。
「ご謙遜を。俺を押し倒すテクは立派なもんだぜ」
言い終わるやいなや体はおろか助手席のシートごと後ろに倒された。あっと言う間に上から見下ろす立場になった八戒が足の間に入り込んでくる。
「……いや、本当に立派」
女でもないのに、腰から胸までぴったり密着させて首筋に顔を埋められると体の凹凸がパチンとはまったように違和感がない。気持ちいい。
…理屈じゃない。気持ちいい。死ぬほど。
「セックスって上手い下手もあるけど相性とかその時のテンションとか、いろんなものが作用して、同じ相手でもよかったりそうでもなかったりするじゃないですか」
「…八戒、ただでさえ暴れて血ぃ見て興奮してる奴にそういう話すると」
「僕は仕事ですから、必ずその一発で決めなきゃいけないんですよ。やー今日は疲れててタチ悪くてすいませんねーとか言うわけにはいかないんで、ヤる時にほんのちょっと粘膜から吸収させると、イイらしいですよ」
「…そういう話するとこうなるって」
正直言うと、八戒が何をどうカミングアウトしようと、どんな人でなしだろうと、もうどうでもいい。こいつのためなら犯罪だって犯すだろうし人殺ししたって許すだろう。間違ってる。恋愛するには危なすぎる。きっと縺れ合って地獄に堕ちる。
「…キスしよっか、八戒」
「キスだけですか」
「…外だし、神宮前だし」
また絶妙なタイミングで邪魔が入った。
「……携帯鳴ってますよ悟浄。きっと明治天皇の御霊から御神託が」
口の減らない八戒の腰を膝で捕まえ、通常使いの携帯を引っ張り出して液晶を確認し、すぐ切った。小田切だ。
「…いいんですか、切っちゃって。仕事じゃないんですか?」
「仕事は昼間やる」
台詞に迷っている仕事人間の八戒に、悟浄はもう一度手を延ばした。
「おいで」
朝になったら俺らは離れる。朝なんて、すぐだ。