私生活
act7
「悟浄、事務所の前でおとすんでいいんですか?」
「いい。もう家に帰ってる時間ねえ」
一晩中切っていた携帯の電源を恐る恐る入れる。勢いよく瞬いた気が遠くなるような着信履歴の数に、悟浄は思わず見なかったことにして、携帯をポケットに突っこんだ。慌てて浴びたシャワーの水分が抜けきらず、思い出したように水滴が落ちてくる。手の甲で水を払うと、汗でも拭ったように見えたのか、八戒が笑った。
「だから出ろって言ったんですよ」
「うるせーよ。とばせ」
言われなくてもとばしてる。八戒の愛車は、ようやく混み出した午前7時の青山通りを時速80キロで走り抜け、路地を一本入った裏通りで停車した。
「はい、お疲れさま」
八戒は、谷間風の中を健気に道路横断中の黒猫を、なんとなく目で追った。他に見るものがない。
「ほんとにな」
助手席のドアが開いて、閉まった。と思ったら、悟浄は車を半周して運転席側に回り込み、外から窓をノックした。
「…なんです」
下ろした窓から、悟浄が上半身突っこんできた。キスされるかと思ったが、直前で思い直したように止まった。
「…任務終了か?編集長」
八戒はそっと悟浄の髪の香りを吸い込んだ。自分と同じでピンとこなかったけど。
「ええ。ありがとうございました。助かりました」
「ホテル代はおまえの奢り?」
「昨日の御礼と治療費でチャラです。さっさと行って」
悟浄はちょっと笑うと、ハンカチを巻いた手を軽く振ってあっという間にビルの中へ消えていった。あっさりしたもんだ。
八戒はというと、夕べの反動がきたのか、恐ろしく低いテンションと体のだるさにすぐさま車を出す気力も失せて、ずるずるとシートの背を滑り落ちた。体中があちこち痛い。何度繋がったか覚えてない。
「…眩し……」
朝日で体が溶けそうだ。わざわざラブホなんか行かなくても家でやれば楽だったのだが、悟浄が朝、玄関を出て行く図を見るのがもう嫌で。かといって車の中は勘弁してくれと悟浄が言い張るもんだから。
そういえば悟浄とホテルに行ったのは初めてだった。普通の恋人同士みたいだった。気恥ずかしくて、時間が戻ったみたいだった。しかして時間は止まらない。悟浄に「編集長」と呼ばれるのも今日で最後。
これから家に帰って着替えて地下鉄で出勤するかと思うとどっと鬱がきた。
「休みたーい……」
欲望に忠実に呟いてみて、思わずパチリと目が開いた。休もうか。欠勤なんて考えたこともなかったが、有給も使い切れずに朝から夜中まで働き詰めだったんだから一日くらい許されるはずだ。なんで今まで思いつきもしなかったんだろう。
自分と同じく一睡もしていない悟浄が、今頃事務所で小田切に罵倒されているかと思うと多少罪悪感がないでもないが、電話にでなかったのも朝まで自分と縺れ合ってたのも悟浄の勝手だ。
「…すいませんね」
一応口の中であやまっておいて、八戒はようやくエンジンをかけた。
家に帰って思いっきり寝よう。寝て、忘れよう。
その頃悟浄は、八戒の予想に反して穏やかな小田切の応対に面食らっているところだった。
「心配しましたよ」
「…すいません」
「コーヒーは?」
悟浄が返事をしないうちにカップが出てきた。怒りを通り越して壊れたのかと思ったが、小田切の表情はごく自然で、特に感情を押し殺しているようにも見えない。
「…昨日は電話に出れなくてごめんなさい」
それでも一応、悟浄は神妙に頭を下げた。
「とんでもない、切られて当然です。あやまるのはこちらです。昨晩何度もお電話さしあげたのは個人的にちょっと気にかかることがあって、仕事の用件じゃありませんでしたし。でもその様子じゃ取り越し苦労でした。僕こそお邪魔して申し訳ありませんでした」
「…へ?」
「…余計なこと言うようですが、鎖骨のここ、キスマークが」
げ。
「ご、ごめん!」
小田切は心底不思議そうに悟浄を見た。
「…何故あなたがプライベートで楽しんだことを僕にあやまらなきゃなんないんです。それ、彼女に失礼ですよ?」
一瞬悟浄の頭の中をかき乱したこの台詞は、実に様々な過程を辿ってようやく筋が通った。小田切の中では、昨日の悟浄のお楽しみと「昔の友人」の八戒の間には何の関連性もないのだ。当然だ。八戒のことが好きなのかと聞かれて「多分」と答えはしたが、小田切自身の性癖がどうであれ、普通男ふたり並べてそんな発想は出てこない。
八戒と夜会って、別れて、その後女と寝た。そういう図だ。なるほど。
「…あー…えー…と、んで、その個人的に気にかかることって何だったの」
ひとりで勝手に警戒して先走った気まずさで舌が縺れた悟浄に、小田切はとんでもないことを淡々と言い放った。
「柳井さんって御存知ですか。シーズンの役職付きだと思うんですが。常務だか専務だかの」
「…………ああ」
「ああって何です」
「知ってる。顔だけは」
あの眼光の鋭さと妙に柔らかい口調は、今思い出しただけでも寒気がする。何というか、本物だった。あいつに比べたら、八戒も俺もただのガキだ。
「彼と会ったことは?」
「…何でそんなこと聞くの」
「僕のバイト先の常連なんです。昨日新宿まわったんでちょっと店に顔出したら、本職がデザイナーだったら悟浄っていう真っ赤な髪のチンピラ知らないかと尋ねられまして」
チンピラにチンピラなんて言われたくねえ。
「ただほら、あの人堅気じゃないでしょう。怖いんで一応、知りませんって言っといたんですけど。あの人に情報集められるって普通じゃないから、貴方が何かヤバいことでもやらかしたんじゃないかと思って念のため」
そこで初めて小田切は、冷めたコーヒーカップを宙に浮かせたままの雇い主に真正面から視線を合わせた。
「してませんよね、何も」
「……と、思うけど」
「本当ですね。信じますよ」
視線が僅かに下にずれた。
「その怪我なんですか、悟浄さん」
「…てめえ、殺すぞ」
突然自宅に乱入してきた悟浄を、八戒は布団の中で枕を抱いたまま、声だけで出迎えた。
「……もうちょっと」
「なーにーがーもうちょっとだ!!!真っ昼間からいい歳こいた社会人が気持ちよさそうに寝こけやがって!仕事はどーした!」
素肌に心地よすぎるシーツのせいで、悟浄のわめき声すら難なく耳を素通りする。
「……体調不良」
「ああ、会社にかけたら悟空もそう言ってたな!俺の方がよっぽど体調不良だ、起きろ犯罪者!」
しつこく怒鳴り続けるうち、ようやく盛大に欠伸しながら八戒は体を起こした。
「……誰かと思えば貴方ですか」
自分でオートロックを外しておいて何を惚けてる。
「おまえは相手も確かめずにほいほい他人を寝室に入れるのか!?」
「うるさいんですけど」
急に明瞭になった口調に悟浄は思わず黙った。寝癖がついた前髪を掻き上げて、ぜえぜえ息をつく悟浄を上から下まで眺めると、八戒は溜息をついてベッドからのろのろ降りてきた。
「…昼間の貴方ってほんっと色気ないですよねー…。よかったよかった」
「なんだと?」
パジャマのズボン1枚でペタペタ部屋を横切り、八戒は人でも楽々入りそうな冷蔵庫をバタンと開けてウーロン茶の紙パックを直にラッパ呑みした。気が付くと悟浄が目をまん丸にして自分の一挙一動を凝視している。
「おまえ…なんか…そうだっけ」
「何が」
「男くさいっつーか…オヤジくさいっつーか…昔は缶ビールでもコップに注がないと怒ったぜ」
「そんな大昔の僕は滅びました。何の用です」
我ながら口調が刺々しい。その日のうちに早速再会するとは思わず動揺しているからだが、悟浄にそこまで察しろというのも無理な話だ。
「…会えて嬉しいくせに」
「何の用かと聞いてるんです!!」
悟浄は勝手にソファーに座って、さっきの小田切の話を復唱した。聞いているんだかいないんだか、八戒はふんふんと爪を弾きながら適当に相槌をうっていたが、悟浄がテーブルをバンと叩いたところでようやく目を上げた。
「…単に貴方のバックに誰かついていないか確かめたかったんだと思いますけどね」
「どーでもいいけど上になんか着てくれ」
「貴方をどうにかした場合に仇討ちにくるような仲間がいないかどうか」
「おまえしかいない」
八戒はどさっとソファーに転がった。
「もう一回言って」
「……八戒、俺は今とっても真面目な話をしてるんだが」
「今日はダメです」
体に力が入らない。心にも入らない。楽な方へ、楽な方へ。
「…僕は今日は休みです。今日一日無事乗り切ってくれれば明日から真剣に対策を考えますから心配しなくて大丈夫」
「おまえが今日は使い物になんねえことだけはよっく分かった」
八戒は、ゆっくり首を回して煙草を抜き出した悟浄を見た。
「使えなくしたのは貴方です」
「もっとしてやろうか」
「…もう一回言って」
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