私生活
act8
「おまえ、どうしちゃったの」
悟浄は通算3回、この台詞を繰り返した。
「…どうかしてますか僕」
「こんな素敵な誘われ方初めてよ?」
だから誘われるとか惚れ直すとかいう訳でもないようだ。
大人しく引き倒されてくれたはいいが直後にいびきをかきだした悟浄を上に載せたまま、八戒はぼんやり天井を眺めた。もっと早くどうかすればよかったなんて思わないけど。
休むと決めた途端、いきなり何かが音をたてて切れた。
もうあんな修羅場をくぐることもない。1週間会社に泊まり込むこともない。あの仕事が好きで好きで仕方ないという訳じゃなかった。悟浄がデザイナーになると言うから同じ業界に入って必死で出世しただけだ。なのに、あの日々が惜しい。
誰も表だって誉めてはくれなかったし、頑張ったなとねぎらってもくれなかった。自分は精一杯やっただろうか。最後の最後まで悟浄に頼るような中途半端な自分のままで現場を離れて後悔しないだろうか。会社を移って現場をやり直す手もあるが、共犯になってくれるような社長にまた会えるとは限らない。そうなれば悟浄の言う通り、ただの犯罪者だ。
仕事を軸にして上へ上へ延びていた蔓がいきなり支えを失った。支えがないなら自力で光の方へ延びるしかないが、今の自分にはそれもない。
悟浄じゃない。
いつまでも悟浄にすがっちゃいけない。
「…あ…そうそう、対策を考えなきゃなんですよね…」
対策なんて決まり切ってるが、口に出したくない。仕事途中で抜けてきた悟浄をここに転がしておくわけにはいかないが、起こしたくない。要するに今は寝る以外何もしたくない。
八戒は思考も行動も全部放りだして目を閉じた。
思った通り携帯が鳴った。悟浄の。
いつもいつも携帯が邪魔する。文明の弊害というやつだ、いっそ携帯を持たない新たな人生をスタートさせるっていうのはどうだろう、などと延々考えていたが持ち主が起きる気配がないので、八戒はそっと手を延ばして悟浄のポケットから携帯を抜き出した。
「代理応答です」
「…なんであんたが出る」
「持ち主が寝てるんで」
八戒は紅い髪を指先で弄びながら外の明かりに翳してみた。ただの白い日光が紅い髪に転がされて虹色に光る。八戒は電話の向こうの相手のことを一瞬忘れて目を見はった。綺麗だ。凄く。綺麗なんてもんじゃない。凄まじい。
出会ってから10年も経つのに、まだ知らないことがある。
電話の向こうで小田切はしばし黙ったあと、思い直したように敬語に戻った。
「今日は急ぎの仕事はないので悟浄さんは休みということにしときます。事務所に戻る必要はないからと、そうお伝え下さい」
「…あ、いいんですか」
「事務所を開いてから彼は一日も休みをとっていませんので」
自分より激務だ。
「分かりました。じゃあ一日借ります」
「あんたには話がある」
「今日はダメです」
「今日しかダメだ」
八戒は向こうに聞こえるように大きく溜息をついたが、大きすぎたせいで耳元をくすぐられた悟浄がゴロンと上から退いてしまった。
「…なんですか。悟浄の怪我なら僕のせいだしキスマークも僕のせいですよ」
「んなこた分かってる」
「でしょうね」
悟浄は小田切を舐めている。八戒が同性のデザイナーとたてた噂や発砲事件を小田切が知らない訳がない。
「今から出てこい、直接話す」
「悟浄はどうするんです」
「勝手にウロチョロしないようにそのへんに繋いどけ」
たいしたマネージャーだ。
携帯を元通り上着の中に戻すと、八戒はそろそろとベッドを降りて、TシャツにGパンという実にやる気のない服に着替えながら横目で悟浄を窺った。昔は一晩中やりまくった後、平気で学校行って部活してバイトしてたくせに。
結局繋ぐのはやめて、[すぐ戻ります]と書き置きだけして家を出た。
どうせ目を覚ましても悟浄は帰れない。鍵を開けたまま人の家を無人にするような真似は悟浄にはできない。
悟浄の事務所と八戒の自宅の間、ふたりが再会した歩道橋のそばのカフェで、小田切は煙草をふかしながら待っていた。さっきの電話とはうってかわった穏やかな笑顔で。どっちにしろ八戒は相手の顔などろくに見てはいなかったが。
八戒が、聞かれるままに昨晩の出来事を適当にはしょりながら話すと、素直な態度に警戒を解いたのか小田切はまた敬語に戻って丁重に尋ねた。
「対策は考えてあるんでしょうね」
「…考えるというか考えるまでもないというか…」
テーブルに肘をついてカフェオレを掻き回しながら欠伸混じりにつぶやく八戒を、小田切は首を傾げたまま眺めた。
「…どうかしたんですか貴方」
余程どうかしてるらしい。
「…だから今日はダメだと言ったでしょう。僕だってダメになる日くらいあるんですよ。いつもいつも背筋延ばして目を光らせてる訳にいかないんですよ人間なんだから」
いつもいつもと言われても、何年も会っていない小田切が八戒のいつもいつもを知る訳がないのだが、当の八戒は相手のリアクションなど気にもとめていないようだ。
「…まあダメでも何でもいいですけど対策は」
「もう悟浄には会いません」
八戒は淡々とカップの中味を掻き回し続けた。カフェオレがすっかり泡だって最早カプチーノだ。
「どーせ2年も会ってなかったし?その前は5年も会ってなかったし?別に?平気ですよ?」
「…平気そうには見えませんが」
「どうせただのセフレです」
甲高い音を立ててスプーンが跳ねた。
「セフレ!?」
店中の客の注目が、思わず立ちあがった長身の小田切に集まった。不意の大声に驚いた八戒も小田切も周囲に人がいることなど既に忘れていた。
「…セフレ。セフレ!? セフレをあんなディープな現場に連れてったんですか!?」
「どうでもいい相手だから厄介事に巻き込めるんじゃないですか。だいたいあの世界の連中を前に力負けしないような、見た目チンピラの知り合いなんか悟浄しかいません。お人好しだからなんでもホイホイ言うこと聞きますし」
小田切はもう相槌もうたずにストンと椅子に座り直した。
「貴方も悟浄の下だと働きやすいでしょう?人の言うことすぐ真に受ける馬鹿だから。心配しなくても、もう充分使い倒しましたからお返しします。言っときますけどあの怪我、悟浄が勝手に暴れただけであって僕に責任ないですからね」
離れてさえいれば、どちらかが狙われた時もどちらかの存在が牽制になって、向こうもあまり無茶な真似はできない。だが一緒に行動すれば、万が一の時にまとめてやられる。
「…借りるとか返すとか便利とか、人を何だと思ってんです」
伝票を握ってふらっと立ちあがった八戒を、小田切は瞬きもせずに見据えた。
「もういいですか?眠いんですよ悪いけど」
「しかも初めから終わりまで嘘ばかり」
八戒は初めて小田切をしみじみ眺めた。彼のことが嫌いだったのは、羨ましいからだ。自分と同じように周囲を見下しているくせに愛想がよくて、誰からも好かれるからだ。悟浄のそばにいて悟浄の役に立てる立場にいるからだ。しかも自分のように恋愛感情と仕事を混同したりしない。悟浄のことを内心どう思っているかは別として、部下として上司の身を案じて冷静に、しかも的確に物事を処理しようとしている。
「…僕は、貴方のことが結構好きかもしれません」
「オオカミ少年がたまにほんとのこと言って信じてもらおうなんて甘いですよ」
小田切の視線がすっと逸れた。
「ねえ、悟浄さん」
八戒が振り返ると同時に、すぐ後ろに立っていた悟浄はくるっと背を向け店を出ていった。小田切が溜息をつきつつ差し出した手に遠慮なく伝票を押しつけると、八戒はすぐさま後を追った。
「ちょっと悟浄!」
「何」
「鍵は!?」
「閉めた」
八戒は内心舌打ちした。悟浄はアナログの鍵でさえ開けるのも閉めるのも大得意だ。そんな現場、会社で何度も見た。一旦外にでてから錠を下ろすやり方なんて100通りはある。いや、表玄関でセキリュティーのかかるマンションの個別の錠なら余計簡単だ。ガラスを強化ガラスにするとか缶切りなしで缶詰を開けるとかハッキングするとかそういう妖しげな知識だけは満タンの男だ。一般人にしておくのは惜しいほど。
…まだ手がある。
離れなくてすむ手が。
事務所が入ったビルの裏に回り込むと、悟浄はバイクを引き出した。
いつ買ったんだ、こんなもの。会社勤めしていた頃よりは多少は潤ったのか。
八戒が惚けた頭のエンジンをかけようと必死なのに一向構わず、悟浄はさっさとバイクの方のエンジンをかけてしまった。
「待ってくださいよ、怒ったんですか!?さっきのはただ」
「なーんも聞いてないし怒ってもない」
「嘘ですよ!じゃあ何で逃げるんです」
「誰が逃げるよ、家に帰って寝るだけだ馬鹿。あんだけやってまだ足りねえのか。どけ」
殴られるのを覚悟で、八戒はバイクのハンドルを横から握りしめた。
「もう少しで思いつきそうなんです対策を。目を覚ましますから後ろ乗せてください」
「ノーヘル乗せたらパクられるわ」
「へー逃げ切れる自信ないんですか」
本気で腹を殴られたと思ったが、悟浄が尋常じゃない力で思いっきりメットを投げて寄越しただけだった。
「…途中で振り落として後続に轢かせてやる」
「どうぞ」
悟浄の後ろに飛び乗ると、八戒は肘まで捲り上げていた袖を戻すと、悟浄の背中に呟いた。
「どうせなら湾岸道路で落としてください」
「ベタだな」
数時間後、悟浄と八戒は初めて大喧嘩と呼べるほどの大喧嘩をする。海で。平日に。昼間に。大声で。
大人だから、男だから、今まで言わずに黙っていたこともやらずに済ませていたことも全部ぶちまけて。
多分、お互いに思いがけなく訪れた突然の休日と、頭上にある不自然な光のせいで。
いったいどこの誰が、会わなくても大丈夫とか言葉はいらないなんて絆を真剣に信じる。あの人の言うこともやることも100%分かるなんて確信がもてる。人に頼らない、甘えない、強い男の存在なんか信じる。
本気で、泣くほど、泣けないほど、何でもできるほど、何にもできないほど、人を好きになったこともない幸せ者だけだ、そんなのは。
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