私生活

act9



「俺でも思いつくわ、んなこと」
 砂を踏んで海水を素足で味わえるような海は近所にはないので、大型クレーンの腕が空に向かってがあちこち生えた埠頭の端の、コンクリの柵に腰掛けた。八戒が「もう貴方とは会わないのが一番の安全策だ」と言ったとたん投げ返されたのが、これだ。
 悟浄は立て続けに煙草に火をつけてはふかし、消し、吸い殻を空き缶に突っこみ、またつけ、を繰り返している。
「そもそもおまえとはデキてる訳でも職場が一緒な訳でもねえし、いい歳した男がふたりつるんで行動をともにするほうが難しいじゃねえか。足突っこんだのは貴方の勝手なんだから自分の身も自分で守ればいいでしょう。てそゆことだろ?そーゆー奴だもんなあ」
 海風のおかげで冴えてきた頭が今度は敏感になりすぎたのか、どんどん熱くなってくるのに八戒は気が付いていた。手の中の缶ビールのラベルのデザインについて、他社製品より優れている点と劣っている点を頭の中で必死で箇条書きにしていたのはそのせいだ。
「聞いてんのか犯罪者」
「…聞いてますよ」
 本当は、もうひとつ手があった。悟浄は簡易金庫の鍵が開けられる。柳井にひとつ貸しが作れる。だが「犯罪者」のひと言で、八戒はつい言い出すタイミングを失った。
「あの極道社長にSOSだしゃ小言くらいは食らうだろうが最後は守ってくれるだろーし、俺も小田切に小言食らっていざという時は頼るわ。あいつもそこそこチンピラの扱いには慣れてるっぽいし。はい解決。終了。お疲れさまっした。また困った時には便利な俺に電話くれ」
「…悟浄」
「おまえの言うことは大抵正しいけどな。俺は自分でした約束を守った自分のことを、お人好しとか馬鹿とか思わねえし、人の部下捕まえてあーゆー物言いしねえな。現場下ろされたからって人の仕事の足までひっぱんじゃねえよ、大の大人が」
 悟浄が珍しく本気で怒っている。怒っているわりには冷静に「海にはビールだ」と八戒をコンビニで下ろしたりしたのだが、それはともかく彼の怒りはある意味、思惑通りだ。
 もう会わないと自分から口に出すのは気が重かった。だから勢いをつけた。小田切は八戒に期待するのをやめて、雇い主の身を案じて悟浄を自分から引き剥がしてくれるだろう。ボロクソ言ってる間に自分の悟浄への執着も薄れると思った。だって本当にこの人は馬鹿でお人好しすぎる。
 だから、これでいい。


 いいんだ

 けど。
 ベコンと奇妙な音をたてて、八戒の手の中で缶が潰れた。
 噴きだした泡が指を伝って足下の波間へ落ちていくのを、八戒は多少の驚きをもって見守った。 
 まずい。怒ってしまった。
 大人の男がすることじゃないから、だから、ずっと我慢してきた。悟浄と会ってから随分と長い間、延々我慢し続けた。本音も押し殺して、物わかりのいいふりして、毎日毎日我慢してきた。先刻のあれだって嫌々悪役をかって出てやったのに。
 それを、何だって?
 何だって?
「…おい八戒」
 石のように固まったまま動かない八戒の肩を揺すろうとした悟浄は、いきなり泡にまみれて飛んできた缶を避けたはずみでバランスを崩し、危うく海側に傾いだ体を何とか押し止めた。
「…っぶねえ!!!」
「なんで貴方みたいな馬鹿好きになったんだかさっぱり分かりませんよ。人の気も知らないでよくもまあ好き勝手抜かしますね。昔っからそうですよ。悟浄が誰と寝ようが遊ぼうが逃げようが文句ひとつ言わなかったし、気をつかって必ず貴方が目の前から消えてから泣いたじゃないですか。人を人とも思わないってのは僕じゃなくて貴方のことです」
 突如開幕した八戒の弾丸トークに大人しく相槌をうてるほど、悟浄も冷静ではなかった。
「脳みそ使いすぎて電池切れたんじゃねえのか!?俺はその文句のひとつも言わねえおまえがやだったの!勝手に黙ってて勝手に怒るたぁどういう了見だ、ひとりで泣くのが気遣いなら、俺だって自慢できるほど泣いたわ!」
 八戒が放り投げた缶は遥か向こうの柵で止まり、風に押されてまたガラガラと耳障りな音をたててつつこちらへ戻ってきた。港や工事現場が立て続ける特有の金属音が、ふたりのテンションに益々拍車をかける。
「俺はおまえが好きで好きで好きで好きで大好きだったんだよ!それをへぇとかほぉとかノラクラかわしてたいして喜びもせず俺の純情滅多切りにしたのはどこの誰だか教えてやろうそこのおまえだ!忘れたんなら思い出すまで海に沈んで来やがれ!!」
「たいして喜びもせずって、喜んでましたよ無茶苦茶!貴方がふらついてるからいまひとつ信用できなかっただけで、すなわち貴方のせいです!」
「いつふらついた!! 頭のてっぺんから足の先までぎっちりおまえだけだ!でなきゃ女と寝ないなんて気が違っても言うか!」
 自らの言動を振り返るのは恥ずかしいもので、悟浄としてはもうこのへんで打ち止めたいのだが、相手が噛みついてくる以上先に黙る訳にもいかず、声はどんどん大きくなる。
 突然の休みのせいだ。普段ならこんな、やっても仕方ない喧嘩なんか買わない。
 埠頭脇の遊歩道を優雅に散歩中の老夫婦が警察に通報しないことを祈りつつ、八戒は腹いせに悟浄の口から煙草を奪い取った。数年ぶりの煙草が神経を落ち着かせるかと思ったら、あんまり美味いのでかえって舌が回りだした。
「貴方みたいな獣つかまえて女と寝るな、なんて口走ったら、その場で捨てられるに決まってるじゃないですか。言えませんよ怖くて。だいたい貴方は自分に泣いてすがるよーな真似する人、大嫌いでしょう。違います?そうでしょう!?あの緑に赤ラインの装丁、あんまり貴方らしくて笑えましたよ。貴方ってひとは結局モノなんですよ。理屈の通らない人間の心のひだなんて理解不能なんですよ。そんな人に純情語られてもちゃんちゃら可笑しい」
 八戒が書店で見つけたあの短編集の中には、セックス描写はもちろん恋愛話もない。だからひととおり浅く読んだだけの編集者は、そのラインが女性器のシンボルだと聞いて首を傾げたが、作者は感激のあまり事務所まで飛び込んできた。
 海、薔薇、洗濯機の水流、布団の中、一見関連性のないものに執着する主人公たち。それは彼らが帰るべき家であり二度と帰れない子宮の象徴。
 新人作家とデザイナーのささやかな自己満足に過ぎなかった仕事のひとつを、八戒が丹念に味わってくれていたことに悟浄は軽く感動した。喧嘩の最中でなければ深く感動しただろう。
「どーせ人に泣いてすがれる度胸もないわ、てめえのご立派なプライドが俺より大事だわで言えなかっただけだろうが。おまえの好きなんてその程度だ、もうやめろ馬鹿馬鹿しい」
 足元までビールを撒き散らしながら戻ってきた可哀相な空き缶を締めとばかりに悟浄が蹴り上げたところで八戒は柵から飛び降り、悟浄を火を噴きそうな瞳で睨みつけた。
 しまったと思った時には遅かった。
「…泣いてすがりますよ。後悔しても知りませんからね」
「あ」
 八戒はその場でペタンと膝をついた。
 プライドは、大事だった。男がプライドを捨てたら終わりだと思った。また自分を支えていた支柱を一本失う。
 今日はやめだ。休みだ。
「…あなたがしたいようにしてるのを見るのが僕の幸せだなんて思ったことは一度もありません。10年間嘘ついてました。申し訳ありません」
「ちょい待て八戒、そこで」
 やめとけ、だろうか。今更止まるか。
「貴方がいくら不幸でも僕は一向に構いません。本当は貴方の意志なんかどうでもいいんです。無茶苦茶なのは分かってますが、もうそれしか」
 喉が詰まった。
 流石に悟浄の目を正面から見て続きは言えなかった。
 八戒は視線を悟浄のシャツの釦の、その真ん中の糸に据えて、一気に言った。

「そばにいてください。貴方が死ぬほど好きです。18の時からずっと」

 投身自殺を試みて生還した人が、地面に到達する数秒の間に走馬燈のように人生の思い出ダイジェスト版が見えると言うけど。
 としたら、自分は今、投身したのだ。
 離れて平気なわけがない。いて欲しかった。ずっとそばにいて欲しかった。体だけじゃなくて心も欲しかった。そんなこと、かっこ悪くて言えるか。
 自分のポリシーを全部放り投げて頭を下げるのは、しかも悟浄に下げるのは、八戒にとってはそれこそ屋上からのダイブと同レベルのオオゴトに思えた。しかもこのダイジェスト版はどういう編集だ。悟浄以外何も出てこない。ふざけるな自分の人生。
 仕事もプライドも吹っ飛ばすほど目の前の男に価値があるとは思えない。自分のほうが人として総合得点は上だ。絶対負けてない。自分が女だったら、悟浄より自分に惚れる。でもしょうがない。
 脳でも心臓でもないところが、もうどうしようもない。
「貴方に愛されたいし他の誰とも寝て欲しくないです。もう貴方がいないところで貴方のことばっか考えて、貴方のいないところで貴方に文句言うのも、うんざりです」
 殴られてもあやまられてもいいから早く何とか言ってくれ。顔を上げたらもういないなんてことは勘弁してくれ。

 頼むから今だけは、携帯を鳴らさないでくれ、小田切。


 無人の事務所で、小田切は回転椅子ごとグルグル回りながら、何度も電話機に目をやった。
「…もうこーゆーことに関わるのは嫌なんだけどなぁ…」
 人に頼まれてもいないことを勝手にやる、いわゆるお節介というやつが小田切は一番嫌いだった。誰かに何かしてあげるという行為は、例え見返りを期待していないつもりでも、礼のひとつもなければやはり相手を恨んでしまう。八戒が自分に礼を言うとは思えない。そんな可愛い奴じゃない。
 小田切は壁の時計を見上げて、スタッフがあと10分はおつかいから戻ってこないと見て受話器を取り上げた。
「はいシーズン」
「柳井副社長を」
「どちら様で?」
 電話に出たのはやたら元気いっぱいの若者だ。可哀相に。
「息子です」
 小田切はコードを指に巻き付けながら、やたら景気のいい保留音に溜息をついた。
 直通番号教えろっつの、クソ親爺。


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