私生活
act11
寝不足でただでさえ靄がかかったような視界に深い夜。人波にもまれて、黒づくめの悟浄の背中を不意に見失った。
「…悟浄?」
八戒がぼんやり呟くのを、すぐ脇を通り抜けた女子高生が怪訝そうに見上げた。
子供の頃、こんなふうに視界が回ったことがあったっけ。知らない町で迷子になった時。自分の庭に等しい東京で、人ひとり見失っただけで地面が揺れる。小田切の最後の言葉。柳井の捨てぜりふ。
三日前に膝をついた自分を凄い力で引き起こした悟浄の腕。
随分と長い間、悟浄は八戒の腕を掴んだまま黙っていた。目もそらさずに。
いつだって悟浄は八戒に対しては真剣で素直で真面目だった。
八戒は結果的に不真面目だった。
意地張って嘘ついて捨てて拾って甘えて頼って利用して縋った。
だから今すぐその場から走って逃げたいのを我慢して、八戒は大人しく待った。時間にして1分程度、悟浄が腕を痛いほど掴んでくれていなければ、多分また崩れてた。
自分があんなことするなんて。あんなことができるなんて。自分のことなのに今まで知らなかった。
「…そばにいるのはいいけど、俺、今、世界で一番おまえのこと嫌いだぜ」
「世界で一番なら好きでも嫌いでも一緒です」
「おまえが辛いっつってんだ」
悟浄。
自分が毎日毎日、想像もしなかったことをやったり考えたりするんです。
貴方の上にたつためならヤクザに喧嘩売ったり人をゴミみたいに扱ったりも平気でできるし、下でもそばにいられるなら土下座だってできる。いいか悪いか、弱さか強さか、楽しいか辛いか、そんなことはどうでもいい、自分が変わるんです。
きっともっととんでもないことだってできる。
八戒はその場で指輪を抜くと海に放り投げた。
貴方がいれば自分に飽きない。飽きた自分を引きずって生きるくらいなら50年後に死のうが今死のうが一緒だ。
「置いてく気ですか」
路地に止めたバイクのスタンドを蹴っていた悟浄は、八戒に見つかると小さく舌打ちした。
「…まこうと思ったのに」
「会社まで送ってください。もうタクシー代ないんで」
悟浄は腕時計の文字盤に目を落とした。水曜日。
週中の東京は取り締まりが緩い。行き先が会社なら国道さえ通らなければノーヘルでも平気だろうが、今日という今日は八戒を振り落とさずに完走できる自信がない。
「てめえのおかげで小田切切っちまった。あんな使える男もう絶対いねえ。どう責任とんだ」
悟浄がこちらを見もせずに投げたメットを受け取ると、八戒は手の中でくるっと回し勢いをつけて投げ返した。
「僕がどうこうしてくれなんて頼んだ訳じゃないでしょう。貴方と小田切が勝手にやったことで恩売られても迷惑です」
「助けてもらっといて何だその言い草は!」
あいつらに追っかけ回されてふたりで逃げるっていうのも悪くないなと、ちょっと思ったんで。
「あいつらに追っかけ回されてふたりで逃げるっていうのも悪くねえってか?」
八戒が思うのと同時進行で悟浄が喋った。
「…よく分かりますね」
「俺も思ったもん」
助けましょうか。
もし小田切があの日、事務所に戻った悟浄に言い出さなかったら。
「助けましょうか悟浄さん。大変不本意ですが、血迷ってあの人でなしと逃亡されるよりマシです。僕なら他にいくらでも勤め先はありますし」
八戒は思ってもいないことを平気で口に出せるやつだ。付き合ってた時でさえ、そうやって自分を守ってきたやつだ。
だから八戒を信用したことなんか、別れて以来一度もない。世のカップルたちは恋人の浮気を口実に別れるが、本当は浮気をした過去ではなく、一度やったんだからまたやるかもしれないという疑心暗鬼と不信感におしつぶされて別れるのだ。
あいつの願いなら、そばにはいられる。でも信じられない奴にうっかり本心なんか離せないし、多分、愛せない。
だから、ほんの一瞬、真剣に考えた。
仕事も東京も人付き合いも全部捨てて、八戒とできる限り遠くへ逃げて、この10年間を全部一からやり直す。
八戒ともう一度恋愛しなおす。
ふたりとも身内はいないし、別に結婚するわけでも子供ができる訳でもないんだから、住民票や戸籍がなくても不都合なく暮らしていける。悟浄の職場は個人事務所で、仕事は全部月に一度の契約更新。正社員は小田切ひとりだし、事務所の名義は元社長。周囲にかかる迷惑なんてたかが知れている。八戒は編集長として最後の校了が残っているけれど、実作業はほとんど引継がすんだ副編集長の仕事だ。「今までお疲れさまでした」と花でももらって区切りをつける為に立ち合うだけ。
編集長でなくなった八戒を、会社が目の色かえて追っかけるとは思えない。むしろ高給取りで扱いづらい八戒が消えてくれれば部長クラスは大喜びだ。八戒でさえ代わりがきくのだから、一介のデザイナーなら尚更。
「…心中の準備みたいですよ、なんか」
「同じようなもんじゃん。そんで悟空と三蔵はお節介にも探してくれたりする訳よ。でも見つからなくて、あきらめかけた頃にポストに俺らからの絵はがきが入ってんの」
「うわ、80年代ドラマの最終回みたい。南の島の写真で、差出人の名前はないんでしょ」
「そうそう。んでひと言だけ走り書きしてあんの。僕たち結婚しま…」
悟浄が途中で言葉を切り、視線を浮かせた。
「…は無理だから」
「…僕たち幸せで〜すとかね。それで悟空は空を見上げて南に思いを馳せちゃったりなんかして、消印の地名が読めないから実はどこだかよく分かってないんですけど」
「おお、馬鹿だけどいい子だね〜」
「いい子ですよねえ、虐めてばっかでしたけど」
言ってから、八戒は苦笑した。
「…まあ、これからも虐めるんでしょうけど」
しばし沈黙の後、悟浄に目で促されて、八戒は後ろに跨り目の前の背中にトンと額を押しつけた。
「…悟浄、本当にそんなこと考えたんですか?」
「俺はロマンチストですから」
それくらいしないと、ちゃんと八戒を好きになってやれない気がして。
ジェットコースターで目を瞑る奴いるじゃん。
ああ、いますよね。
何で瞑るんだろ。
怖いからでしょ。
瞑った方が怖ぇよ。俺、瞬きもしねえもん、勿体なくて。
1回700円とかしますもんねえ。
…金が勿体ないんじゃなくてさ。
あれはいつだっけ。確か大学1年か2年。悟浄と、女の子ふたりの4人で遊園地。多分どちらかが悟浄狙いでどちらかが自分狙いだったのだが、もう名前も顔も覚えてない。悟浄とふたりになったのは、女の子たちが連れだってトイレに行った5分だけ。
八戒は瞑っていた瞼を開けた。夜のオフィス街なんか真っ暗で何も見えないし、風で少々辛かったが、会社に着くまでの10分弱、八戒は目を開け続けた。
悟浄は元来た道を戻ったり過去を懐かしがったりするのが嫌いだ。そんな人が、好きで選んだ仕事から離れられる訳がない人が、自分と一からやり直すような夢を見てくれる。十分だ。
そばにいてさえくれれば必ずまた自分に惚れさせる。
昔よりずっとずっと強く。
「はい、着きましたよ」
出版社が集まってそこだけ不夜城のように青白く光った表玄関につけると、悟浄はエンジンを切った。早く戻らないと、悟空が仮眠室を覗いたらオオゴトだ。八戒が風圧で涙目になった瞼を擦りつつバイクを降りると、悟浄が急に肩を掴んだ。
「…おい、約束しろ。もう絶対あんな危ねえ仕事の仕方はしねえって、あの世界の連中とは関わらねえって誓え。俺に」
微笑って誤魔化すことはできたが止めた。誓えない。この会社にいる限り、現場を離れてもああいう修羅場にかりだされることがないとは言えない。編集者として八戒がもつ一番強力な武器だ。
「無理です、多分」
「…しないって言っときゃ俺が安心すんだろーが」
「もう貴方に嘘つかないって決めてます」
悟浄はしばらく八戒をまじまじと眺めていたが、やがてふっと手を離した。いつまでもここにいて会社の連中に見つかるとまずい。
「…悟浄。もう行きますね。ありがとうございました」
「いーえ。俺が勝手にやったことですから。修羅場終わったら電話しろ」
「え…何で」
「そばにいるっつったろ」
エンジン音が語尾にかぶった。
「最後の最後でヘマすんじゃねえぞ編集長!」
悟浄の髪と同じ色のテールランプは角を曲がってすぐ見えなくなった。
そばにいてくれとは言ったが、クリスマスを過ごすとか土日はデートとか一緒に住むとか、そこまで具体的なことを要求したわけでも約束したわけでもなかった。なんせ三日間会社に泊まり続けで、夜があけたらようやく帰宅。「編集長」が終わるまでは顔どころか声も聞けずにいたから(その間悟浄は何やらとんでもないことをしでかしたわけだが)、悟浄が何をしてくれようとしているのかさっぱり合点がいかない。
悩む間もなく、八戒はエレベーターから飛び出した部下に3階まで連行され、慌ただしく校了を終えた。早朝やってきた三蔵に「うちの会社から引退祝い」と社名ロゴ入りタオルを渡されて「いりませんよこんなの!」「うるせえ持ってけ!」とどうでもいい問答を繰り返した挙げ句部下からは花束なんかを頂いてしまい、延々36時間覚醒のまま会社を出た。
編集長じゃなくなって、初めての朝。
八戒は早朝の横断歩道を渡りながら、鞄を探って携帯を取り出した。