私生活

act12




 一番楽しかったのは、いつだった?

「僕の代わりは見つかりましたか」
 新宿のバーでカウンターの中から小田切ににっこり微笑みかけられた悟浄は、腹いせにコルクのコースターに煙草をおしつけた。
「…備品にあたるの止めてくださいよ」
「仕事減らしてチーフ抜きでまわしてる。ムカつくから話しかけんな」
「それは失礼しました」
 言いながら、まだ微笑は消えない。帰宅前に悟浄がこのバーにふらっと入ったのは、縁を切ったはずの小田切に久しぶりの再会をするためでは無論ない。元々この店はいきつけで、平日だからと油断したら、いただけだ。取り返しのつかないほど有能な元部下。
 生憎朝まで営業のこの店が混み出すのは終電後で、小田切が悟浄に付きっきりでもなんの不都合もないようだ。
「平日にいなかったのはあなたの事務所で働いていたからでしょうが。今は毎日ここでシェーカー振ってますよ」
「もう来ねえ。話しかけんなっつに」
「せっかく八戒に開店3周年記念15%オフの割引券渡しといたのに。こうポケットティッシュに入れて」
 思わずグラスを落っことしそうになった。
「あいつ来たのか?何しに!?」
「バーに大根買いに来る人いません」
 どうして俺のまわりにはこう素直な奴がいないんだ。
 不意に八戒に聞いたセリフを思い出した。
 クスリは、こうポケットティッシュの紙と紙の間に挟んでカウンターの下で手渡しするんですよ。
「…おい、まさかこの店クスリ扱ってんじゃ」
 小田切が、ふと手を翳して悟浄を遮った。客の間でもめ事が起こったらしく、背後で怒声があがる。それ以上騒ぎが大きくならないと見て、小田切はやっと張りつめた表情を解き視線を悟浄に戻した。
「…失礼。ええと、八戒ですよね」
 悟浄はそっとコースターを裏返した。小田切にとって、ここは職場だ。
「僕が見るに、殊勝にも御礼を言いにきたみたいですよ」
「僕が見るに?」
「僕は貴方のためじゃなく、あの性悪を哀れんで優越感に浸るために助け船を出したんだってちゃーんと分かってて、毒舌吐きまくって帰りました。神様は平等ですねぇ、性格が悪いぶん彼は本当に頭がいい」
 悟浄は小田切の手の中で綺麗に砕かれていく氷をぼんやり眺めた。
「…平等かねえ」
「貴方だって、とんでもなく酷い男なのに馬鹿みたいに愛されてるじゃないですか」
「俺のどこが!」
 手に持ったグラスにガランと氷が降ってきた。
「そのコースター、マスター手作りの一点もの。またひとつ貸しです」


玄関をあけた途端、居間の床一面に絨毯のように色校が「敷きつめて」あるのが見えた。
 ほっとした。仕事中の八戒が見られる。
 部屋の主はタンブラー片手に気のなさそうな顔で色校の隙間を歩きまわっていた。一枚を足で跳ね上げ、また戻し、グラスの中味を啜っては眼鏡を押し上げ、溜息をつく。
 悟浄はしばらくリビングの入り口に突っ立って八戒の様子を眺めていた。こういう時の八戒はいくら眺めても飽きないが、キリがないので居間の壁をコンと叩いた。
「…あぁ、お帰りなさい」
 八戒は俯いたままだ。
「…ちょっとハマっちゃって」
「みてえだな」
「人が悩んでるのに何浮かれた声出してんです。どれがいいですか、新雑誌の車内吊り」
 浮かれてたか。
「JR?」
「地下鉄。都営」
「都営?ケチくせえな〜宣伝部。おまえ立場弱くなったんじゃねえの?」
「何を仰いますやら失礼な。全車両独占広告です」
「一番左」
 悟浄はソファーの上に荷物を投げ出し、上着を肩から落とした。
「左?…ちゃんと見てくださいよ、真面目に聞いてんですから」
「さっきからおまえと一緒に延々見てました。ただでさえ地下なんだから暗いんだからあれぐらい文字ぎっちり色派手派手のほうがいい」
「…地が白なら、まあ」
「赤、赤、絶対赤。蛍光灯に映える。赤。特色。蛍光。赤にしないとおまえは後悔する」
「もういいです」
 八戒は悟浄が指した一枚を拾い上げると、照明に透かしたり振ったり、最後には壁に貼り付けて視力検査のように下がれる限界まで後ろに下がり、ようやく疑わしそうに呟いた。
「…朝起きて気が変わらなかったら、これにしますか。たまには悪趣味なことやってみるのも刺激ですしね」
 編集長でなくなった代わりに計15冊の月刊週刊誌の編集長を束ねる立場になった八戒の仕事量は、浅く、かつとんでもなく広くなった。ほぼ十割に近いヒットを飛ばす八戒に、悟浄ほど堂々と根拠もなく自信満々に意見を吐ける人間はひとりもいない。こうしろと言えば全部通る。どっちにしろ八戒はしたいようにしかしないのだが、反論を乗り越えてひとつのことを決定するのと、そうでないのでは全然違う。悟浄には意地で言わないが、実は八戒はとんでもなく飢えていた。噛みついてくれる相手。戦える相手。気持ちよく自分をやりこめてくれる相手。悟浄が会社にいてくれたら、どれだけ楽しいか。
 今みたいに。
 仕事がつまらない。手応えも何もない。
 まだ壁の広告を睨んでいる八戒の肩越しに腕を伸ばすと、悟浄はグラスにブランデーをつぎ足した。
「…また何をさせる気ですか」
「前払い。例の渋谷写真集のカバー、初稿出たからちょっと見て」
 耳元で、タチの悪い甘い声。
「なんで家に帰ってまでそんなこと」とかなんとかブツブツ言う八戒をソファに座らせて、悟浄はさっさと色校を広げた。
「こっちと、これ。どっちがいい?」
 小田切がいた頃は小田切に尋ねた。決定を委ねる訳じゃない。例え自分とどんなに意見が食い違おうが、ある程度経験のあって見る目を信用できる第三者の意見は絶対的に必要なのだ。そういう人物が、今、悟浄には八戒以外ひとりもいない。
「…また凝ったことして」
 八戒は欠伸を押し殺すと、溜息をひとつついて傍の鞄を引き寄せ、愛用のルーペを取り出した。
 いくら酔ってようがパジャマだろうが、印刷物を前にすると目つきが変わる。
 ルーペを当てる前に眼鏡を外すところ、腕まくりするところ、軽く眉間に皺を寄せて数秒動きを止めるところ、その眉間の裏側で高速回転する頭、そういうものを見るのが悟浄は好きだった。同じ会社にいた頃から、自分以外の人間に対してゲキを飛ばす現場を目撃すると得した気分になった。彼氏が真剣に仕事をしてる現場を知ってる女と知らない女じゃ大違いじゃないかと思う。本当はあからさまに誘いをかけてくる八戒より、こっちのほうが余程そそる。
 言わないが。
 八戒はようやくレンズから顔を上げ「こっち」と片方を悟浄に投げて寄越した。
「書体とか、ここの写真の処理とか、版ずれイキにしたほうがいいですね。背表紙も特色じゃないけど特色に見えるし、貴方こういう技、ほんと得意ですよね〜。ちょっと見ない感じで玄人受けしますよ。あれは無難で分かりやすいけど、定価釣り上げるなら断然こっち。余計なお世話ですがこの型抜きは印刷所で現場がNG出す可能性大です。できないんじゃなくて面倒なんです。事前に三蔵に一喝してもらったほうが手間がはぶけます」
「…相変わらずよく回る頭」
 悟浄はくるっと色校を丸めて鞄に突っこんだ。
「サンキュ。助かった」
「こちらこそ」
 八戒は、さっきから一度も悟浄をまともに見ない。今始まったことでもないので、悟浄は特に気にも止めずに立ち上がった。
「眠いなら先に寝れば?俺、もうちょい呑むから」
「僕も」
 八戒が編集長でなくなった日から、悟浄はほとんど自宅に帰っていない。たまに服を取りには戻るが、往復してる間にどんどん八戒の家に服が移動していき、先日ついにクローゼットのひとつを占領した。八戒がこのマンションを買った時に署名捺印した契約書には「オートロックの暗証番号を居住者以外の者に漏らした場合の罰則規定」が明記されていたそうだが、そんなことには構わず聞き出した。
 小田切をクビにしてからは、どんなに仕事が立て込んでも深夜になっても事務所には泊まらず、夜8時か9時には帰宅する八戒の家に荷物を抱えて戻ってきた。午前0時を過ぎる日は必ず電話を入れたし、女と寝ることも、無いとは言わないがほとんどない。
 八戒とは別々に寝ることもあるし(ソファーひとつとってもそのへんのベッドに負けない寝心地だ)自慢のウォーターベッドでくっついて寝ることもある。とにかく、一緒にはいる。手を延ばせばいくらでも触れる位置に。

 悟浄が壁のスイッチに手を延ばす前に、八戒は手元のリモコンで明かりを消した。そうした方が夜景の恩恵に預かれる。
 ソファーに寝っ転がった八戒の向かいに、氷の音をたてながら悟浄が座った。
 その間にガラスのテーブル。1メートルちょっとの距離。
「土日って休みですか悟浄」
「土曜は…どうだっけ。夕方からは空くな多分。買い物?」
「ええ、ぼちぼち大物を。米とかボトルはひとりじゃ辛いんで」
「…健康的。俺、肉じゃがなんか食ったの何年かぶりだったもん」
「まあ…僕も食べてくれる人がいないと手ぇ抜いちゃいますからね」
 こんなふうに1ヶ月。
 人からどう見えるのか分からないけど、という関係を、ずっと続けてきた。男同士というのを差し引いても人に説明するのに困った。会った時は友達。しかも仲の悪い友達。それからずっと恋人だか友達だか曖昧な。その次は上司と部下で親友でセフレで、でも三蔵たちや社長から見れば立派に「できて」る間柄。

 悟浄とは、あれから一度も寝ていない。
 優しくて優しくて優しくて優しいだけ。そばにいるだけ。
 言葉で「もうやらない」と言われた訳じゃない。でも分かる。このまま、多分、二度と、ない。
 これはつまり。
 八戒は琥珀の液体を舐めた。
 お気に入りのペットかなんかを手に入れたって感じなんですよね。
 贅沢だ。仕事も私生活も完璧ではないにしろそれなりに安定していて、どんな形であれ悟浄がそばにいるのに、何か足りない。
 これじゃないような。
 愛されるのが無理でも、もっと何か。

 遠い街のネオンで傍の悟浄の位置を知るという感覚がまた不思議な、と思いながら手を延ばすと、触れた指先だけを軽く握り返してきた。キスすれば侵入させた舌だけを丁重に愛してくれるし、擦り寄ればその強さのぶん抱き返してくる。拒まないが、それ以上は返さない。
 体だけが欲しい訳じゃないから、悟浄の腕や指や肩や髪や目に何の前触れもなくふっと突き上げられる衝動は耐えられる。見なければいい。
 でも声はどうしたら。
 根拠もなく自信たっぷりな、人を食った物言いが聞きたくて、わざと仕事を持ち帰る自分の態度はどう説明したら。
 
「僕の代わりは見つかりましたか、だと」
 悟浄が八戒の指を握ったまま突然呟いた。
「はい?」
「小田切に言われた」
 チーフアシをクビにしてから悟浄の収入は四分の三になった。つきつめればそれは八戒のせいだが、今更そんな嫌味を持ち出すような悟浄じゃない。八戒はあえて軽く口にした。南の島からの絵はがき並みの軽さで。
「…頭くる男ですね。僕を雇えばいいんですよ。編集がひとりいればデザイン事務所から編プロに昇格できますよ。あの似非ホストの4.5倍…いやもっと稼ぎますから、ここはひとつ共同経営で7割を僕が」
 掴まれた指に一瞬火がついたかと思った。
「怒るなよ八戒」
「…それ以上力いれられると怒らざるを得ませんが」
「真剣に考えてる」
 一瞬間があいた。
「……何を?」
 何をもくそもない。考える時間を稼ぐために聞き返しただけなのが分かっているから、悟浄は黙っていた。八戒も。
 ようやく力が緩んだ。

「一番楽しかったのは、いつだった?」

悟浄と、真正面から目があった。
「俺といて、一番楽しかったのはいつだった?」
今じゃない。



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