私生活


act3



その日悟浄はご機嫌だった。
「最高」
軍手にねじり鉢巻きという勇ましい出で立ちの彼が何度も繰り返す言葉に、悟空は律儀に返事を返す。
「何が?」
「この階、編集も全員マック使ってんじゃん?3階はほとんど窓派なのよ」
「だから?」
「俺、windows見るとむかつくのよ」
「…悟浄、とりあえずスキャナーつないで。仕事になんない」
 デザイナーチームと括られている面子は計3名。一人はカメラマンでスタジオに籠もりきりなので、勢いこの島は悟浄と悟空のふたりで独占することになる。これまでは悟浄が3階、悟空が2階専属だったのが、今日の人事発令で同一部署扱いになったのだ。
「ほんと、最高。2階はいいねえ。煙草の自販機あるし、女多いし階段ラクだし。冷房効き過ぎだけど」
 コンピューターの多い階は、空調がきつい。まあ我慢できないほどじゃないが。
 社内中の編集部から回ってきたデザイン発注書を整理して、リーダーの悟浄があとのふたりに仕事を割り振る。効率からいっても、今回の異動は悟浄にはプラスはあれどマイナスはなかった。今のところ。
何より、八戒と四六時中顔を合わせなくて済む。あの調子でチクチク昔の傷をほじくり返されたり迫られたりしたら心臓に悪い。あんな無茶苦茶な進行に付き合わされていたらマジに死ぬ。指輪のことも気にならないと言えば嘘だが、こんなことで三蔵に仮を作るのはまっぴらだ。今更俺に八戒の交友関係に口出しする権利はない。あいつは俺のもんじゃないんだから。…自分だってやるこたやってるわけだし。
「…なあ悟浄、悪いんだけど編集4部の仕事、悟浄やってくんない?」
 編集4部は3階なんだから、別に声を潜める必要もないのだが。
「なんで?」
「八戒こわいもん」
 まあ怖いと言えば怖い。締め切りから15 分仕上げが遅れただけで灰皿で殴られたことがある。しかしその分、確実に腕はあがるのだ。最初は泣いていた部下達も人となりを知ればこそついていく。
「…4部の仕事やっとけば転職ん時、楽だぜえ? 印刷所の担当、三蔵だから出稿はえーし。せっかく同じ班になったんだから、普段やってない部署の仕事した方がよくねえ?」
 いくら人でなし編集長でも、悟空相手に俺に言うような無茶はしないはずだ。
「…そうなんだけど。なあ1部やるから4部やって!頼む!お願い!」
「1部はだめ。俺ファッション誌したかったんだもん。ここの読者モデルいい子多いし」
「悟浄〜!!頼むってば、ほんと、まじ、お願い!!俺4部はだめなの!!」
 悟浄はまじまじと悟空を眺めた。コト仕事に関して、こんな我が儘を言う悟空じゃない。
「…なんでか言ったらな」
「…だから編集長と、あんま、前から仲良くなくて。それにほら、あそこ、エロ雑誌じゃん」
「だから何。AVのサンプル見放題だぜ」
「いらねえって!!」
「だめ。仕事。やんな」
 にぎやかなデザインチームのパーテーションの向こうから、編集1部の女性たちがクスクス笑うのが聞こえた。
 悟空と悟浄は、まったく別の意味で女にモテる。
「悟浄さん、やってあげればいいじゃない、4部の仕事」
「ほらあ!」
 悟空が我が意を得たりとばかりに悟浄を睨む。
「だって八戒編集長って、ねえ」
「ねえ。悟浄さんのコト、お気に入りなんでしょう?」
「気持ち悪いこと言わないでくんない?」
 悟浄は溜息をつきつつ髪を掻き上げた。流し目光線。
「俺はねえ、いっくら美人でも男に媚びる趣味はねえの。どーせならお姉さん方に気に入られたいなあっ」
 悟空は複雑な想いで、悟浄が途中で放りだした配線を片づけ始めた。

1週間経った頃には、悟浄は2階の女どもをあらかた食い尽くしていた。仕事も順調、性生活も快調。
 机の前で大きなあくびをひとつして、悟浄は腕時計に視線を落とした。午前2時。おおかた仕事は済ませたが、タクシー代もないことだし始発待ちになりそうだ。3階にいた頃は週に4度はあった徹夜仕事が、2階に来た途端半減だ。
 目覚ましにコーヒーでも、とホールに出たところが、突然エレベーターのドアがあいて、人が倒れてきた。
「あ!? …何、おまえかよ」
 八戒。
 そういえば部署異動になってからまるまる1週間顔見てなかった。
「ひさしぶりだなあ…って何。酔ってる?」
 ずるずる倒れかかってくるわりに、酒の匂いはまったくしない。そのかわり握った手首からびっくりするほど強い脈。面食らっていると、3階からバタバタと八戒の部下達が駆け下りてきた。
「あ、悟浄さん、すみまれん。ひさしぶりですねぇ〜」
「へんしゅーちょーが一番きいらいましたれ」
 何のこっちゃ。
「…ひょっとして4部の連中、みんなラリってんの?」
 アダルト雑誌では、商品紹介のために妙なおもちゃや媚薬を編集部員が体をはって試すなんてことはよくある。
「そーなんれすよー。編集長、僕は効きませんから〜とかって、一包み12000円の薬ふたつも呑んじゃって、ふらっと2階に行く〜とかって出てっちゃって」
「…分かった、吐かせる。おまえらも仮眠室で横になって一発ぬいて落ち着け」
 普段飲み慣れてない奴がいきなり規定の倍呑んだら、下手したら心臓が止まる。媚薬は劇薬だってことくらい知ってるだろうに、何年編集長やってんだ馬鹿が。こんなことが社のお偉方に知れたら確実に降格だ。
 2階の洗面所まで引っ張っていって、悟浄は容赦なく八戒の腹を殴った。
「……っぐ!!」
 やけに黒っぽい胃液がぼたぼた落ちる。
「…ち、粉薬かよ」
 カプセルや錠剤ならすぐはき出せばほとんど吸収されずにすむが、粉はもうどうしようもない。意識朦朧としたまま何度も吐かせたら気管をつまらせる。
「八戒、おら、しっかりしろって」
 ぺちぺち頬を殴ると、八戒はぼんやり目を開けた。
「大丈夫か? 水呑め、水」
「……はい…?」
「はい?じゃねえ、水呑んで中で薄めろ。死ぬぞ!!」
「悟浄」
「何」
「しません?」
 何を、と言いかけて初めて、このまま町中にだしたら数メートルいかないうちに何人に犯られちゃうかしら?な状態の八戒に気がついた。頬は薔薇色だわ目は水を張ったようにうるうるしてるわ、畜生、効くこたあ効いたんだな。
「……おめーよ…」
「なんか…したくて」
「したくて、じゃない!今したら完璧腹上死だぞセクハラ上司!! 」
「人のコト言えますか。貴方、もう会社中の女の子食ったでしょ。いつまで若い気でいるのかしんないけど、貴方の方がぽっくり…」
 言いながら悟浄のシャツをごそごそ捲ってる辺り、もう救いようがない。
「立場の上下を利用して関係を迫ったことは一度もねえぞ」
 利用するほどの立場がないからだ。
「僕だって貴方以外ないじゃないですか。今だってもうしたくて死にそうなのに、部下にただでやらせるくらいなら貴方がいいなあと思って二階までこーして」
「…死ね」
 頭が痛くなってきた。悟浄の知ってる八戒は媚薬でラリるようなはじけた男でもなければ「したくて死にそう」なんて口に出す可愛い男でもなかった。そしてまたまずいことに、悟浄はそれが不満だったのだ。たまには隙を見せて欲しいし、たまにはおねだりして欲しいと思ってた。
 それが、もう関係が終わってからこんなことになられても。
「悟浄ってば」
「うるせえ、水呑め!」
「して」
「男にかわいぶられてもうれしくねえ、しねえって!」
「悟空がどうなってもいいんですか」
 悟浄は、八戒を支えていた手を思わず離した。
「何?」
「悟空の仕事はねえ…キレイすぎてですねえ…ティーン誌ならまあありですけど、三十代四十代の熟年層のツボをつくデザインがねえ…あがってこないんですよ…自分のことおしゃれだと思ってる女子供と勘違いした似非業界人にしかねえ…受けないんですよねえ」
 八戒は何とか自力で壁に凭れ、ほっとくと限りなく上昇していきそうな息を深呼吸で宥めながら続けた。
「あれはまだ人間が浅いというか未発達というか…僕が中から開発してあげないとダメかも」
「中からってどこからだ…」
「童貞くんに僕との仕事は無理です」
 真顔で言うセリフか。
「童貞処女は、僕は人とは認めませんよ。性を知らずしてこの世の何が分かるっていうんです」
 悟空、ごめん。悪かった。この鬼悪魔にどれほどいびられたのか。
「…八戒、今やったらおまえの心臓は止まるのよ。な。大人しく水呑んで寝てくれ。頼む」
「今したいんですってば」
「薬がぬけたら何でもやってやっから」
「本当ですか?」
「…本当」
「じゃあ今日はいいです」
 八戒の口調が不意にまともになった。
 …おい。罠か?
 悟浄が差し出したペットボトルを八戒は大人しく飲みほして、何事も無かったように三階に戻っていった。思いっきり意味ありげな微笑を残して。あいつは昔は俺のだったかもしんねえが、今は上司で友人だ。社内で妙な噂でもたったら俺はいいがあいつはどーなる。
 経験から言って、一度失敗した相手とは二度目はない。
 絶対に、ない。
 悟浄は痛み出したこめかみを揉んだ。
 
 …辞め時かな。

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