私生活
act4
1年に2回、編集部門に修羅場が訪れる。年末年始とお盆の、印刷所の休暇。
その日、三蔵は珍しく直接やり取りする必要のないデザイナーチームの島に顔を出した。顔を出したと軽く言うには、三蔵のオーラはあまりにも強大だ。金髪にスーツというだけで社内では相当目立つうえ、信じがたいような美形で身につけるものは上から下まで最高級品。そのまま雑誌に写真載っけたら表紙に使えそうな出で立ちだ。大人の男の究極のスタイルとか何とか。
「よお、凸凹コンビ」
2階フロアに彼が一歩足を踏み入れ、一言声を発しただけで空気が変わった。
「部長、おひさしぶりです! 進行表いただきましたんで!」
「こないだの写真集、ポジの件では本当にお世話に」
「年末進行、よろしくお願いします」
あちこちからかかる声を、ナンパされなれている美女のようにかわして、三蔵は「凸凹コンビ」の前にやってきた。
「相変わらず貧乏くせえな、おまえら」
「…貧乏だもん」
「何の用よ」
直接印刷所とやり取りすることがない悟空と悟浄には、三蔵のオーラはいまひとつ効きが悪い。
「何ってこともねーが、次の進行表が出たんでおまえらの分もコピーしといた。最近カラーの入稿遅いんでおまえらの方にもはっぱかけとかねえと年末死ぬからな。特に編集4部」
「う」
悟空が呻いた。確かに、デザインの段階で八戒に突き返されて時間を食うことが多い。
「…悟空よ、4部、俺がやってもいいんだぜ?」
悟浄が囁くと、悟空は健気にも首を振った。
「うん。ありがと。でも勉強になるし、やっぱ頑張る」
以前は、編集4部から手をひいた悟浄への当てつけに、八戒が悟空をいじめてるのかと思った。だが違った。
悟空、貴方、できないんですか?やりたくないんですか?できないんならできるまで付き合います。やりたくないなら今すぐ辞表を出しなさい。向上心のないスタッフと仕事はできませんし僕の部下にもやらせません。
八戒が一部部下に熱狂的に慕われる理由が、公衆の面前で言い放たれた悟空にも、横で聞いていた悟浄にもよく分かった。
彼は自分の下の人間を、何があっても守ってくれる。決して部下を不安にさせたりしない。
「僕が何とかしますから」「謝るのも憎まれるのも僕の大事な仕事です」
そう言ってにっこり微笑まれると何もかも大丈夫という気になるのだ。
「時におまえら、いつまで会社にいるんだ? 特にチンピラ、もういい歳だろうが」
「チンピラチンピラ言うんじゃねえ!」
「独立しねえのかって聞いてんだ。こんな弱小出版社の専属なんてデザイナーとしちゃ下の下だろ。月給もらってる職人…プライド捨てるにもほどがあるんじゃねえのか」
三蔵にぐっさり突かれて、悟浄は言葉に詰まった。仕事は自分から取りにいかなくても勝手に降ってくるからラクと言えばラクだが達成感はまるでない。
「……三蔵、人を傷つけて楽しいか」
「全然」
マルボロに火をつけると、三蔵は勢いよく煙を吐き出した。灰がキーボードの上に舞いそうになるのを、悟空が慌てて庇う。
「独立する気があるんなら、八戒に真っ先に言っとくのが筋だろーと思っただけだ。あいつの推薦で入社してんだから、あいつより先に退社するっつーことはあいつの顔を潰すってことだろ」
他の社員が大勢いる前で、独立だ退社だ言わないで欲しい。
しかし悟浄の口から出たのは全く別の言葉だった。
「…えらく八戒の肩もつな」
三蔵は、微かに眉を顰めた。
「言いてえことははっきり言え、チンピラらしくもねえ」
「指輪」
「あ?」
「八戒の指輪。あれ、何」
悟浄の傍らの電話がけたたましく鳴り始め、即座に悟空が横から手を伸ばしてくれた。
「…何って、左手の薬指なんだから結婚指輪に決まってんじゃねえか」
結婚してたのか! あの男が人並みに!!
「…あ、そう。そうだよな。へー…誰と」
昔は自分の腕の中で眠ってた奴が、今は家に嫁さんがいて(ひょっとしたらガキまでいて)そいつらを抱きしめて眠るのかと思うと、複雑というより何だか可笑しい。その男に色仕掛けで迫られて、ほいほい言うこと聞いてた自分が更に間抜けだ。
「…悟浄、3部の橋口さんから内線。後にしてもらう?」
そっと囁いた悟空にちらりと目をやって、三蔵はくるりと背を向けた。
「あ、こら、シカトかよ!!」
思わず立ち上がった悟浄の腕を、悟空が意外な力で掴んで引き戻した。
「んだよ猿!」
「悟浄、八戒の奥さん、死んじゃったんだよ」
「…え?」
「結婚してすぐ、自殺しちゃったんだよ」
夜空に季節外れの花が咲く。
もう秋風が吹こうというこの季節に、撮影用に仕入れた花火が大量に余って処分に困った編集1部が、急遽会社の屋上で花火大会を主催したのだ。新入社員が炊いた角煮をつつきながら、悟浄は誰の輪にも入らず鉄柵にもたれて空を見上げていた。
ビールをすっ飛ばしてワンカップ大関なんて、俺はもう若者ではないのでは。最近徹夜が辛いしなあ。
編集4部は欠席だ。ちょうど校了の真っ最中らしい。
今頃下で、八戒は真剣な顔で腕まくりして校了紙と向かいあい、煮詰まったらボールペンを手の中でクルクル回して。部下や悟空を叱咤激励し、1時間おきに三蔵に電話して。
徹夜の前にはいつも胃薬とサーバーいっぱいのコーヒー。目が悪いから、冷蔵庫で冷やしたタオルを時々目に押し当てて。
悟浄は思わず微笑んだ。あの癖、学生ん時からだな。
レポートは決して手伝ってくれなかった。何をするでもなく一晩中、空気みたいにそばにいた。レポートがあがった途端、後のことなんか考えずぶっ倒れても、八戒が当然のように大学に提出しておいてくれた。それを当たり前に思ってた。
緑の花火。
女性社員の間から歓声が上がった。
「綺麗だな…」
「キレイですね」
不意に側で、聞き慣れた声がした。
「うわ、何だおまえ、校了は!?」
「ちょっと息抜き」
八戒は悟浄と並んで缶ビールのプルトップを引き上げる。
「…おいおい、酒のんで仕事やんのか?」
「ビールで酔っぱらうような子供じゃありませんよ」
言葉通り、ほとんど一息で一缶を飲みほした八戒は威勢良くアルミ缶を握りつぶした。
「さ、気合いいれて朝まで闘いますかねっ!」
その横顔は、自信が溢れて誇らしげで。八戒は自分の誇りだ。昔のことは関係ない。今、隣にいられることが自分の誇りだ。
「そう、例え、どんなに獣でも」
「何か言いました?」
「八戒さ」
「はい?」
「指輪はずせよ」
何の悪びれもないストレートな物言いに、八戒はにっこり微笑んだ。
「悟浄、好きですよ、そういう遠慮のないとこ」
とん。八戒の額が肩に落ちてきた。
「…もう酔ってんのか?」
「髪も目も腕も指も性格も全部、昔よりずっとずっと綺麗です」
「…もぉいい。俺が悪かった」
「何でも好きなことしてやるっていうあれ、まだしてもらってませんよねえ〜。どうしましょっか」
「頼むから黙れ!」
そうやって、いつもきちんとはぐらかされてくれる優しさも。
「…乾杯」
花火に翳したワンカップの向こうに、紅色が散ってすぐ消えた。