私生活


act5



 人生というものは、どこかで辻褄が合うようにできている。

 というのが八戒の持論だった。
 立場上、部下に減給を申し渡したり、長年付き合ってきたスタッフと契約を切って逆恨みされることがある。タレントの売り込みを断ったら所属事務所の社長がヤクザで(別に珍しいことじゃないが)延々脅されたりだとか。ネットで「あそこの編集長は変態だ」やら「モデル全員と寝てる」やら「無能なくせに態度だけでかい」やら名指しで叩かれたり。
 悟浄が入社する半年前に、青少年育成条例がどうしたとか猥褻物なんとか罪だとかでいきなり警察に踏み込まれて、2週間取り調べを受けた。引き出しからパソコンから全部中身を引き出されて没収されて。エロ雑誌なんか作ってれば、それくらいのことは最初から覚悟してる。
 人に軽蔑されようが、眉を顰められようが、例え法律すれすれのことだってやる。売れれば何だって作る。八戒にだって道徳や人情はあるが、仕事になればスイッチは切った。数字を上げれば会社はそれなりの評価を下す。昇給し、部下が増え、名刺に肩書きがつく。
 だけど、随分前から気がついてた。
 自分は人から一目おかれはするが、決して好かれない。尊敬されても、愛されない。
 もう慣れた。
 慣れたけど。

「ひとりぃ? 美人のお兄さん」
 突然、耳元で囁かれた。
「…悟浄?」
 驚いた。普段は接待用にしか使わないバカ高いバーだ。貧乏人の悟浄が気軽にふらりと入ってこれる店じゃない。
 だいたい悟浄のかっこうは、ドレスコードを差し引いても品があるとは言い難い。黒いシャツはボタンが役目など忘れたように襟も袖も景気よく外されて、いっそ脱げと言いたいくらい。突然気の張る場所に呼び出されることが多い八戒と違って、年中社内勤務の彼はTPOを考えたことなど一度もないだろう。出版社という業界柄、まだ周囲に馴染んではいるが、一歩外に出ると真紅の髪と目だけで恐ろしいほど人目をひく。どんな場所にも空気のようにとけ込む八戒とはえらい違いだ。
 悟浄はいつもそうだ。何からも自由だ。
「何。この店、おめえの行きつけ? さすがへんしゅ〜ちょ〜」
 相当酔いが回っているらしいが、流石にいつも屋台でやるようにバンバン肩を叩いたり大声を張り上げたりはしない。
 が、動くたびにじゃらじゃらアクセの音がする。
「…誰が隣に座っていいと言いました? だいたい貴方、なんでこの店にいるんです?」
 編集長、という呼びかけが、今の八戒の勘にさわった。
 僕の仕事が編集長なんであって、僕が編集長なわけじゃないんですよ。
 …やめた。ただのからみ酒だ。
「男がひとりでバーで呑みたい気分も分からんでもないから、知らない振りしようかと思ったんだけどさ」
 直接質問に答えず、悟浄は八戒のグラスにちらっと目をやった。
「じゃあほっといてください。考え事してるんです」
「疲れてるみたいだったから」
「…誰がです?」
「おまえさんがよ」
 何が言いたいのか、八戒にはよく分からなかった。
 確かに疲れてる。もう随分と疲れてる。でも疲れてて忙しいのはみんな一緒だ。もう、慣れた。
 昔の恋人で自分と同い年の男に、自分の選んだ仕事のことで愚痴るまいと思うのは、男として当然の意地。
「…疲れない程度の仕事しかしないなんて社会人失格ですよ」
「あ、そう。そうきますか」
 悟浄は八戒のグラスに、いきなり指を突っ込んだ。琥珀を人差し指でカラカラかき回し、目を丸くした八戒に構わず濡れた指を無造作に舐めた。
「……何すんですか、貴方……」
「メーカーズ・マークのゴールド。せっかくうめえ酒をやけ酒にするよーなくたびれきった男とオトモダチなんて思われたくねーな。お邪魔しましたね編集長様。どうぞごゆっくり」
 あっさり席を立って、悟浄は呆気にとられた八戒を振り返りもせず離れていった。会社では垣根が低くて話しやすい男、と自分と正反対の評価を受けている悟浄だが、時々鞭で打つような嫌味を平気でとばす。
 …厄日かな。
 グラスに口をつけて、八戒は半分以上中身の残った水割りをカウンターに戻した。
 不味い。

 薄暗い店内で悟浄を探し出すのは至難の業だ。悟浄がひとりなら勘定を経費でおとしてやろうと思ったが、諦めてひとりで外へ出た。
「…疲れた」
 呟いてみると、漠然とした「疲れ」が実体化してどっと肩におぶさってくるような錯覚に見舞われた。言霊ってこういうのを言うのだろうか。
 立て続けに大事な人を失って、それでも一人でやってきた。会社や仕事上の人間には弱味を見せられず、そうでない人間とは付き合う暇もなかった。
 走りすぎたかも知れない。
「……そりゃ…疲れますよねぇ」
「素直じゃねえなあ」
 思わず叫びそうになった声を、八戒はあわてて喉でくい止めた。
 ほんの2,3歩後ろにいたらしい悟浄は、脚を止めた八戒の脇をそのまますり抜けた。不本意にも後を追う形になる。
「悟浄、何で、そういきなり…」
「別にいきなりって訳じゃねえけど。おまえの後、追っかけてすぐ出てきたから」
 八戒が聞きたがってることを、わざわざ聞かれるまで待つ悟浄ではない。
「三蔵の奢りで悟空と呑んでた。おまえに3人のうち誰が声かけるかでもめたんだけど、ま、俺かなーって」
「…俺かなっーて…て、何ですか」
「俺になら、いいんじゃねえかなって。三蔵や悟空にはかっこつけたいだろうけど、俺にはもーいーじゃん? 俺によく思われたって仕事上なんのメリットもないし、あらゆる意味で俺ら、終わってるしよ」
 表情は見えなくても、八戒が傷ついたのは分かる。
「だから、もーいーじゃん。年がら年中、余裕たっぷりに笑ってたら、どっかでぷつんとキレんだからよ。おまえの外面に騙されて夢みてる三蔵やら部下やらの前できれてみ? おめえの築いてきたものなんかあーっという間に消えて無くなんぞ。俺なら、まったく気にしないから。元々興味もねえし」
 こうやって挑発してやらないと、こいつは感情を表に出さないのだ。一度吐き出せばラクになるのに。
「…よくもまあ、言いたい放題言ってくれますよね」
「俺が言わなきゃ誰も言ってくんないっしょ。あんだけ稼いでる編集長様に意見なんて社長もできねんじゃね?」
 八戒は、ついに立ち止まった。
「…編集長、編集長ってうるさいですよ」
「へええ、嫌なら辞めれば? 辞めろよ。編集以外に何ができんのかしんねえけどよ」
「寿命の短いデザイナーごときに言われたくないです」
「おめえの話してんだろ。矛先ずらすってこたあ、どーゆーこと? 逃げてんの? あ、逃げるんだ。いいんじゃないの? 編集長のプレッシャーってきっといくらでも代わりのいる俺なんかにゃ理解の範疇外なんだろうし?」
「辞めませんよ!!」
 言わせた。
 悟浄の肩から安堵で力が抜けたが、人影がまばらとは言え、ここではまずい。
 悟浄は八戒を強引にビルの谷間に押し込んだ。感情を押しとどめる術にたけている八戒だ。流石に声を落としはしたが、それでも相当頭にきたらしく一度噴き出した言葉は止まらない。
「…貴方には分かんないでしょうけどね、ここまでくるのに僕がどんだけ苦労したと思ってんです。そりゃ僕は編集しかできませんよ。契約とるためなら何でもしましたよ。ええ、苦労話させたら誰にも負けませんよ。プライベートもぐちゃぐちゃで不幸のどん底でしたよ。でもね、貴方ごときに偉そうに説教されるいわれも半端に同情されるいわれも何ひとつないです。だてに胃に潰瘍4つも作ってませんよ。僕でなきゃ他の誰もあんな汚い仕事できやしないんですから、一度だって後悔したことも愚痴ったことも」
「八戒」
「何ですか!!」
「そういうの、聞きたい奴もいるんじゃねえのかなあ…」
 悟浄は、八戒から目をそらせ、手元で火のついていない煙草を弄んでいる。
「…そういうの、愚痴とか不安とか、たまには聞きたいんじゃねえのかな。おまえのこと好きな奴なら。部下連中とかよ」
 決して俺もそうだとは言わないのが、自分でも卑怯だと思う。その後ろめたさが悟浄の目をそらさせる。
「それが、腹割るってことじゃねえのかなあ」
「……」
「おめえが一歩ひいてっから、みんな一歩寄れずにいるんじゃねえのかな」
「……」
「そういうの、寂しいんじゃねえのかな」
 戻るところがあるなんて、思っちゃいけない。
 逃げ場を作っちゃいけない。
 弱くなる。
「…また説教ですか。偉くなりましたね貴方も」
 八戒の柔らかな口調につられて、悟浄は目をあげた。いつもの微笑。
「でも、ま、ちょっとはすっきりしましたよ。怒鳴ってごめんなさい」
 悟浄は内心溜息をついた。
 甘えてくれればいいのに。大人の男って、本当に厄介だ。素直さや正直さが美徳だと信じていられるのはガキだけだ。
「…悟浄、僕ね、あの人に死なれてから、何か、感情が欠落しちゃたみたいで」
 あの人について何の予備知識もない悟浄は、それでも黙って頷いた。
「なんかもう、泣き方とか、甘え方とか…忘れちゃってて」
 ああ、これがこいつの精一杯の甘えなんだ。
「うまくできないんです。いろんなことが。特に貴方には、だめなんです。どうしたらいいか分かんないんです。ごめんなさい」
「…別にあやまるこっちゃないけど」
 悟浄はちらりと腕時計に目を落とした。
「どーすんの」
「はい?」
「俺は最終に乗って近所のコンビニに寄って夜食買って帰るけど、おまえはどーすんの」
 もう、賭けだった。というか、チャンスをやったつもりだ。
 どうしたらいいのか分からなくても、どうしたいのかは分かるだろう。分からないなら、もう知らん。

 八戒の視線が揺らいだのは、ほんの一瞬だった。
「…うちに来ません? お客を雑魚寝させるような真似はしませんよ。誰かさんと違って、僕はベッドひとつとってもアメリカンサイズでないと眠れないんで」
 にっこり笑った八戒に、悟浄は同じように笑い返した。
「どーせなら、ホームバーがあるとか、灯りを消すと天井がプラネタリウムだとか言ってくれりゃー誘われちゃうんだけどなー」
「ラブホテルじゃないんですけど」
「24時間完全空調・24時間常時接続・24時間セキリュティーシステム・エレベーター1基占有・キーは指紋照合、とか」
「悟浄、それこのご時世じゃ全然珍しくないですよ。都内で億の金出してんですから」
 億。……億!?
「それじゃ、まだ最終間に合いますから地下鉄乗りましょう。駅からうちのマンションまで地下通路のびてますから」
 …殺そうかこいつ。
 俺なんかほか弁ののり弁が今日から200円セールだとかマックでチキンタッタが半額だとかで喜んでるのに。
 いつもなら人が聞きたがっていることを、聞いてくるまでわざと待つ八戒だが、今度ばかりは先回りした。
「人が死ぬと金になるんですよ悟浄。不思議ですねぇ、人生」
 不思議なのはおまえだ。

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