私生活
act6
「おめえ、ここで一人で住んでんの!?」
玄関に入るなり、悟浄は喚いた。八戒の言ったとおり駅から地下の駐車場まで連絡通路を通ってきたから、この建物の外観はまだ見ていない。
「いいとこでしょ」
「3LDKはあんじゃねえ?」
「ロフトと半地下もありますが、見ますか?」
「見ますよ! 探検探検っ!」
いそいそと中へ突入しようとした途端、散歩途中の犬の如くベルトを掴まれて引き戻された。
「うわわ!」
どん、と八戒が体ごとぶつかってきた。抱き留めるかっこうになった悟浄が背中を預けた壁が異常に冷たい。飛び上がりそうになるのを堪えて、おそるおそる振り返ると、後ろは床から天井までの鏡だ。玄関に鏡。まあ、普通っちゃ普通だ。
「鏡だと思うでしょ」
悟浄の右肩に顔を埋めたまま、八戒が囁く。
「…鏡じゃねえのかよ」
「実はこの後ろが靴箱になってまして、高さのあるブーツも場所をとらず楽々収納できるよう工夫されております」
「はあ」
八戒が喋りながら体をずらしてくるので、唇が首筋から胸元にあたってくすぐったい。
「バリアフリー、センサーによる自動点灯はもちろんのことですが、床は埃を逃がさない特殊加工を施してありますので部屋の中に汚れが舞い込む心配はございません。お掃除楽々で奥様も大喜び」
「…八戒、おまえ、何してんの」
シャツのボタンを器用に口で外されて、ようやく悟浄は八戒を冷静に見下ろした。
「やらせて」
ください、まで言うのが面倒らしく、八戒は床に膝をついて悟浄の腰をきつく抱き寄せた。
男がストレスを解消しようと思ったら呑むか犯るしかないわけで、悟浄とてはなからそのつもりだった。だったが。
「なんでこんないい部屋にきて玄関でしなきゃなんねーんだ!! 俺はなあ、ラブホでも、まず風呂を確かめてお茶の一杯も飲んでだな!」
「お風呂がまたいいんですよ。広さは2020で普通なんですが家中どこからでも自動給水できますし、ボタンひとつで乾燥室にもなります」
下腹のあたりに、ちょうど八戒の熱い息が、おそらく意図的に、あたる。
「八戒!!」
「…ジェットバスにサウナ付きですよ」
小さな金属音は、ジーンズのファスナーを八戒が歯で噛んだ音。そのままゆっくり引き下ろす間、悟浄にまわした腕の力は少しも緩まない。
悟浄は女友達に「男を押し倒す方法」についてよく指南してやったものだ。目の前で跪かれて下半身を捕まえられると身動きがとれない。不安定な姿勢で正面から相手の腹に膝をいれるしかなく逃げ道がなく、そこまでできる男もそういない。いたとしても脚の間に入り込んでしまえばアウト。
悟浄の指南は実に正しかった。
「八戒、せめてアメリカンサイズのベッド!!」
「ベッドはなんとウォーターベッドで腰に優しく」
「だからそのベッドで!!」
八戒の髪に指を差し入れて引きはがそうとした瞬間を見計らったように、八戒の舌がするっと先端を絡み取ってしまった。
「……っ!!」
「布団は羽毛で…」
「銜えたまま喋るな!!」
家の玄関を入ってから靴を脱ぐまで15分もかかるとは思わなかった。
「うあ、マンションなのに螺旋階段が!」
八戒はコーヒー豆を挽きながら、部屋中を歩き回り扉という扉を開けて回っている悟浄を眺めた。まさしく探検だ。
「上がロフトで占有屋上。ベランダは南と西です。そこから新宿のビル群見えますよ」
「うああ、すげえ! きれー! ここでビールのみてぇ!」
予想以上に悟浄の日常とかけ離れていて、いっそ清々しい。最初はちょっとやっかみもあったが。
「あ、コンセントいいとこにあんなあ。仕切りないから掃除機かけるのも楽そう」
「見るとこが家庭的ですねえ。でもうち、掃除はプロまかせなんで」
聞くだけバカだった。
「あーキッチンも広。何。このデカい冷蔵庫は」
「あけちゃだめですよ。中に人が一人」
「…マジ顔でいうのやめろ」
言いながら、もう開けている。
「ふーん、へー」
「悟浄、後ろに立たれると落ち着かないって何度言…」
八戒は不意に黙った。何度も言っていたのは5年も前の話だ。
同じようにキッチンに自分がいて、同じように悟浄が後ろでごそごそやってるだけで、こんなに簡単に時が戻るなんて。
「なあ、料理とか最近もやんの?」
何事もなかったように、悟浄は調味料が並んだ棚を指で辿っている。
「…最近は…休みの日くらいですねえ」
「あ、パプリカあんじゃん。あれ、まだ作れる?」
「ああ、あれはねえ、圧力鍋がないと…」
…あれ?
また言葉を詰まらせた八戒に、悟浄はようやく目を向けた。責めるでも労るでもない不思議な目。
「八戒。おまえさ、俺に惚れてないよな?」
「……今はないですよ」
「じゃあ何で俺と住みたいの」
「……いつそんなこと言いました?」
悟浄は、ふーん、と口の中で呟いて、ふらっとキッチンを出ていった。動揺で震えた右手が、何か他の生物のようだ。
落ち着け。
そういうの、寂しいんじゃないのかなあ。
疲れてるように見えたから。
「八戒、俺、帰るわ」
考えられる限り最低最悪なセリフを悟浄が吐いた。
…ああ、思い出した。
このセリフ、前にも聞いた。
あの時、自分は微笑んで…なんて言ったっけ。何か思ってもいないことを言ったのだ。
好きになったほうが負けだと思ったから、好きだといったこともなかった。悟浄は毎日毎日うるさいほど囁いてくれたのに、いつでも物わかりのいいふりをしていた。
そして悟浄を失った。
何度繰り返すんだ。同じことを。同じ場面を。同じ失敗を。
思ってもいないことばかり話してきたから、本音の言い方を忘れてしまった。
会社勤めが性に合わない悟浄が、数年ぶりに会った自分の頼みを断りはしないことも、頼めば抱いてくれることも知っていた。
自分は何がしたかったんだろう。悟浄を手放して、あの人を手に入れて、また失って、悟浄を自分のそばに引き寄せて、仕事でつなぎ止めて、甘えて甘えて甘えて。何がしたいんだろう。何が欲しいんだろう。
悟浄は独立したがっている。デザイナーなら当然のことだ。自分たちをつないでる唯一の絆がなくなってしまう。
「朝いち仕事、思い出した。どうする、さっき俺だけいっちゃったから、もう一回やろーか?30分ありゃ済むだろ」
「悟浄」
八戒はソファーに寝っ転がっていた悟浄の上に乗り上げた。
「ん?やる?」
「悟浄」
八戒の声音に、悟浄はふっと表情を引き締めた。人の感情に聡い男だ。昔から。
下から八戒を抱き寄せようとした悟浄の腕を払って、ぶつかるようなキスをした。身動ぎすら許さないように全身で押さえ込んで、唇から喉の奥まで蹂躙する。その激しさに驚いて強張りかけた悟浄の体から力が抜けたのが分かった。背中をそっと指で撫であげられて、背筋を電流が走る。
もう手放したくない。
「帰らないで欲しいんですけど」
悟浄がゆっくり瞬きをした。
「帰したくないんですけど」
「…その言葉、もっと前に聞きたかったなあ」
建物の下はすぐ幹線道路のはずなのに、何の騒音も聞こえない。こんな静かな部屋で、こんな広い部屋で、空気すら使い切れず、闘うためだけの言葉しか覚えずに生きてきた。
ソファーの上に散った紅い髪を掬い上げ、唇を押し当てる。
「欲しいモノはだいたいもってるんです。あとは貴方だけです」
「ひとつくらい手に入らないモノが、あったほうが人間は成長すんじゃねえ?」
八戒は、笑った。悟浄が見とれるほどの鮮やかな顔で。
「本気でそんなこと言うんですか?貴方が?」
「…さっきモデルルームを見に来た客へのセールストークみたいのは何よ」
「一緒に暮らす気にならないかなと思って」
「やだっつったら?」
「ここから出しません」
八戒のひんやり冷たい唇が、耳朶に、首筋に墜ちてくる。
「八戒、俺は…」
途端に耳障りな電子音が二重奏で鳴り響き、ふたりは同時に体を起こした。
ふたつの携帯が、同時に鳴っている。