私生活
act7
「だあから、落ち着いて説明しろって悟空。何がどうしたよ」
悟浄はだだっ広いベランダ(に追い出された)で携帯に向かって怒鳴った。
居間では八戒が、これも不機嫌そうに携帯に耳を押し当てている。
「おまえ、三蔵と呑んでたんじゃないのか?」
「それから会社に戻ったの! したら玄関の前にパトカーがいっぱい止まっててさぁ、中に入れなくてっ」
興奮すると声音が1オクターブ上がる悟空のしどろもどろの説明は更に約5分続いたが、悟浄が得た情報は要約すると上の1行のみだ。歳より遙かに下に見える悟空があしらわれている様が容易に想像できる。
「まあ…帰って寝ろよ」
悟浄は自分でも知らないうちに汗ばんでいた額をそっと拭った。
悟空からの電話のせいか、さっきの八戒の戯言のせいか。遙か下から吹き上げてくる風は強力で、徐々にではあるが悟浄の熱を下げてくれた。
…ここからの夜景は絶品だ。ジグソーパズルみたいに。
嘘みたいに。
「なななな、なんて?」
「中に入れねえし原因も分かんねーんじゃ、そこにぼーっと突っ立ってても仕方がねえだろ。俺は今、警察より厄介な八戒相手に大変なの。すぐに帰って歯ぁ磨いてクソして寝ろ。じゃな」
「ちょっと、ごじょ…」
一方的に通話を終わらせた悟浄は、音をたてないようガラス戸をひいてそっと居間に足を踏み入れた。
「…それは、うちか写真集ですね。ご親切にどうも。もう手遅れですって。大丈夫、慣れてますから」
話しながら、キッチンにまわって悠々とコーヒーをカップに注ぎ始めた八戒の横を擦り抜けて玄関に向かった。舞い上がった悟空じゃ埒があかない。口ではああ言ったが、夜中に会社をパトカーが取り囲む理由なんかふたつにひとつだ。
社内の誰かが事件を起こした。
社外から事件を起こした誰かがやってきた。
「悟浄、どこ行くんです」
明らかに相手がまだ喋っていると思われるのに、八戒は唐突に通話を打ち切った。
「んー? おまえから逃げようかな〜って」
「会社には行かない方がいいですよ。今の電話、悟空でしょ」
八戒はコーヒーを一気に飲みほして流しにカップを放り込んだ。なんて勿体ない飲み方をしやがる。
ブルーマウンテンだぞ。グラムいくらすると思ってんだ。
「僕には三蔵からでした。今、社用車で我が社の前を通ったら警察が取り囲んでたらしいです」
「残念でした。俺なんか現場から実況生中継だったもんね」
「どうせヘアヌード写真集の編集長か、僕の再逮捕ですよ。僕が捕り物の主役じゃないですか」
「それを言うならおまえんとこの発禁激ヤバ素材は全部悟空のパソコンに入ってんじゃねえか」
「じゃあ主役は悟空ですか」
「チームの責任者は俺だろ!」
「編集人は僕です!」
訳の分からない言い合いをしながら、ふたりはマンションにあるまじき長い廊下を通って先を争うように外へ出た。
状況がやばければやばいほど軽口が多くなるのは、昔から数少ないふたり共通の癖だ。
「貴方は下っぱなんだから関係ないでしょ! 帰るなら地下鉄、地下1階!」
エレベーターの1のボタンを連打した悟浄に、八戒が腕時計をはめながら苛ついた口調で叫ぶ。
「誰が帰るっつったよ、会社だ会社!車くれえあんだろ!?ちゃちい軽にぬいぐるみなんか乗せてたら殺すぞ成り上がりが!」
「それが人様の車に便乗しようって人の態度ですか!」
しかして八戒の車は立派にフランス車だった。
「座席の下にイヤリングが落ちてても怒らないでくださいねっ」
盛大にタイヤを鳴らして、八戒は深い緑色の車体を急発進させた。
「…は。怒ってほしいくせに」
だいたい、今時そんな誰かの歌みたいなシチュエーションあるか。
「おまえユーミン好きだったよな…」
「今も好きですよ」
「あ、そーなの。埃だらけの車に指で伝言したり、口紅で鏡に伝言したりするよーな女好きなの?」
「可愛いじゃないですか」
妙にすべすべした肌合いのシートに、悟浄は深々と身を沈めた。この車、人の匂いが全然しない。
午前0時を回ろうというのに、暇そうに待機したタクシーの列を除けば、車の数は驚くほど少ない。時速は実に滑らかに80キロを越えた。
八戒の端正な横顔に、色とりどりのネオンが落ちては流れていく。
しばらく黙りこくっていた八戒が、ぽつんと言った。
「つばめのように」
「…へ?」
「つばめのようにって歌あるでしょ。あれが一番好きですね」
「あったっけ」
「その時彼女はつばめになったって歌、あったでしょ」
「あったっけ」
軽く溜息をついて、八戒はまた黙り込んでしまった。悟浄のささやかな嘘に気づかずに。
会社まで、あと10分もかからないはず。
早く着きたい。けど着きたくない。
「…なあどうする?本気で最悪の事態だったら」
「別にどうも?」
「だよな」
八戒は過去何度も事情聴取されている。そのうち拘留は2回。いくら慣れてるとはいっても、精神的には当然キツい。
編集物はすべて社長の了承を得て社長名義で発行しているのだから、本来の責任は社長にあるのだ。それを、自分の一存でやったと言い通して汚名を編集長クラスで食い止めなければ、会社自体がまわらなくなってしまう。
プライドをかなぐり捨てて、会社のために。
そして得たのが、空っぽの部屋とほとんど使っていないピカピカの車。
欲しいものは大体持ってるんです
あとは貴方だけです
「嘘つき」
「え?何か言いました?」
「俺が好きだっつったよな」
「ええ…?」
逃げに入ったと思っていた悟浄から突然話を蒸し返されて戸惑ったものの、バックミラーと腕時計に交互に目をやっていた八戒は助手席にまで注意を払わなかった。したがって、見落とした。
「指輪はずせ。結婚指輪したまま俺を口説くな」
「何言ってんですか、いきなり」
心持ちスピードを緩めて車線を移す。
「逮捕されるかもしれない時に、国会議事堂とか見ると何となくワクワクしますよね」
「話をそらすな。俺に本気なら指輪を捨てろ」
「できません」
「じゃあ質に入れろ」
「できませんって」
「じゃあ俺に寄こせ」
「あの人とのこと、なかったことにはできませんよ。悟浄だってもう起きちゃったことなかったことにはできないでしょ?」
「なかったことにするふりくらいできんだろうが!!」
いきなりの悟浄の怒号に車が一瞬センターラインを踏んだ。
「……悟浄?」
「停めろ」
ハンドルを横から掴まれた。
何故そこで悟浄が激昂するのか分からず、というより悟浄が自分を怒鳴りつけた事実すらまだ信じられなかったが、八戒は表面上は冷静に悟浄の手を上から握った。
熱い。
「…もう会社に着いちゃいますよ。どうしたんです悟浄」
「サイドブレーキひくぞ。本気だから停めろ」
会社の2筋手前の路肩に、訳が分からないまま八戒は素直に車を停め、すぐさまエンジンを切った。そうするしかなかった。
だって悟浄の目の色といったら。