私生活


act8



 悟浄と八戒が、いわゆる「おつき合い」をしていたのは大学2年から4年の間だ。
 おつき合いという言葉が正しいかどうか分からない。悟浄には常時5、6人の「自称・彼女」がいたから。八戒には、特に彼女らについて悟浄を咎めた覚えはない。地味で、どこといって取り柄のない(と八戒は思っていた)自分にとって、よく喋りよく笑いどこにいても人目をひく悟浄は憧れだったから。自分のどこが気に入ったのか、何故女に不自由しないくせに毎日自分の部屋に「帰って」くるのか、問いただすと鬱陶しがられそうで、聞けなかった。
 本当を言うと、そんなことはどうでも良かったのだ。
 両親の記憶もない。
 愛された記憶もない。
 八戒にとって、悟浄はたまたま何かの気まぐれでそこに吹いた突風のようなものだ。くる時がきたら不意に消えるものだと最初から思いこんでいた。突風を独占しようなどと思うはずがない。
 最初に体を重ねた時だって、ふたりして酔っぱらって(なんとクリスマスだった)なんとなく寒くて(こたつしかなかった)体温の高い悟浄にすり寄ったら(猫がいたら猫にすり寄ってた)そのままずるずる突入してしまっただけの話だ。さすがに慣れたもんですね…とかなんとか言ったかもしれない。悟浄のほうは最初から最後まで一言も喋らなかった。今から考えると随分とメチャクチャな初夜だが、いくら思い出そうとしても痛かったとか辛かったとかいう記憶がない。
 悟浄といて、傷つけられたことも泣いたこともない。
 人が人のそばにいて、ただの一度も相手にそんな思いを抱かせない、そんなことは奇跡に近い。
 だが悟浄はやったのだ。
 八戒の頼みならなんでもきいた。言い争いになる前に必ず自分からあやまった。どんなに疲れていても、どんな悩んでいても、八戒の前で不機嫌な顔は絶対に見せなかった。いつもいつもして欲しいことだけをしてくれた。だから八戒は、スポーツ特待生の悟浄が、しょっちゅう高熱や骨折を隠して試合に出ていたことも知らなければ、同居時代に兄が行方不明になっていたことも知らなかった。
 彼がどれだけ強かったか。どれほどの忍耐力で自分と向き合っていたか。
 それが奇跡だったと気づいたのは、悟浄が消えた後だった。

 悟浄は自分のことが好きだったのかもしれない。

 愛されなれていない八戒にとって、そこに考えが行き着くまでには相当な時間を要した。
 行き着いた途端、世界が形を変えた。

 悟浄が。
 あの悟浄が自分のことを好きだったかもしれない。
 好きだったからそばにいて抱きしめてくれていたのかもしれない。
 もしかしたら悟浄にとって、自分は特別な存在だったのかもしれない。
 もしかしたら悟浄は、ずっと自分の答えを待っていたのかもしれない。

 結果的に、悟浄の衒いのない言葉と態度での愛情表現に、八戒は何一つ応えなかったのだ。
 失ってから好きになった。もう遅すぎるのに、部屋に、学校に、空に、街に、夜に、朝に、その全てにこびりついた悟浄の残骸を拾って味わえば味わうほど、好きで好きで、もう一度だけ、もう一度でいいから、顔をみて、声を聞いて、夢に出てきてくれるだけでいい。他の人のものでいい。愛されなくていい。
 今度会う時には、悟浄の強さを少しでも自分のものに出来るように。
 対等に向き合えるように。
 ちゃんと誰かを信じて愛することができるように。
 そうして巡り会ったあの人は、突然、空に身を投げた。


 キーを回し終えた途端、悟浄に左腕を引かれた。
「…ごじょ…」
 一瞬上体が浮いた。
 あまりに唐突に、ぶつけるようなキス。運転席と助手席の間の支えるものもない空間に八戒を引っ張り出して腕一本で動きを止めてしまうと、その唇を貪るだけ貪って最初と同じくらいあっさり八戒を突き放した。
「…何…どうしたんです悟浄」
 初めて悟浄の方から口づけられた動揺を、八戒はたちまち押し殺した。そんなことばかり得意になる。耳が痛くなるほどの静寂と、先刻一瞬垣間見た、悟浄の燃え滾るような眼の色が、あっという間に出ていった悟浄の柔らかい舌の名残が現実離れした妙な浮遊感となって、八戒を余計に落ち着かせる。
 夢のようで。
「俺は昔みたいな、忍耐力の塊じゃない」
「…ええ」
 八戒は微かに頷いた。
 再会してからの悟浄は、八戒に対しても屈託なく愚痴も弱音もさらけ出す、素直な男だった。相も変わらずその優しさは規格外だけれど。
「俺は仕事以外の面では、おまえを一粒たりとも信用してない」
 ざっくり。
 効果音にするとそんな感じだが、傷つくのは後でひとりでやることにして、八戒はまたもや即座に立ち直った。
「一粒…とはまた微妙ですね」
「何が微妙だ。米一粒砂一粒原子一粒きっぱり信用してねえ。仕事以外ではおまえは卑怯で逃げ腰だ」
「そうですね」
 肯定するしかない。
 昔は最初っから諦めていたものが、下手に逃げ道を作る術を覚えてしまった。悟浄の潔さにはまだ遠い。
「指輪を渡すか、今すぐ俺をキレイさっぱり諦めろ」
 悟浄の顔色を窺おうにも、さっきから窓の外の一点を見詰めたまま、ちらともこっちを見ない。
「…何でそうなるんです。外したからって貴方が僕になびくわけでもないんでしょうが」
 自分が死なせた人。
 悟浄の幻から救ってくれた人。
 自分に唯一残された形見を、悟浄と引き替えにしなければならない理由が分からない。
「指輪を渡せば確率は限りなくゼロに近い1だが外さなけりゃゼロだ。昔みてえに俺に寄っかかって楽したいか、毎晩俺とベッドの上でヤりてえだけじゃない証拠を見せろ」
「…そんな身も蓋もない」
 そんなことを言い出せば、指輪を渡して確率がゼロ以上になる証拠はどこにある? 自分より遙かに大人な悟浄がそんな無意味な要求をしてくる理由がまったく分からない。しかも大真面目に。しかも会社が何だか訳の分からないことになっているこの非常時にわざわざ車を停めさせて。
「…悟浄。もしかして、なんですけど」
「何」
「違ってたらすいません」
「だから何」
「…妬いてるわけじゃないですよね、指輪に」
 悟浄は、未確認生物にでも遭遇したかのように、ぽかんと八戒を見た。
「…何をぬかしてんだ、この馬鹿は」
「はは…そうですよねぇ」
「あのな…」
 まだ自分に恥をかかせるつもりらしい悟浄の言葉を、八戒は早口で遮った。
「悟浄、とにかく会社に行って状況把握してからにしましょう。僕も落ち着かないんで、ほら訳の分からないこと言ってるし」
 あたふたとキーに伸ばしかけた手を悟浄が止めた。
「もう、あんま時間ねえぞ。おめえさんが引っ張られたら、下手したら拘置中にさよならだ」
「…はい?」
「俺、来月会社辞めるから」

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