私生活


act9



 悟浄の言葉は聞き間違えのないほど、きっぱり八戒に届いた。聞こえたものを、いちいち聞き返すような無駄な行為に時間を割くほどの余裕は八戒にはない。

1ヶ月後ってことは辞表提出済みってことですか?
じゃあ悟空は当然知ってるってことですか?
何で僕は知らないんですか?
あんまり唐突じゃないですか。
そんなに僕が慌てるところがみたいんですか。
あなたの資金で独立なんてできるわけないじゃないですか。
それとも引き留めて欲しいんですか。
今そんな冗談言っていい時じゃないことくらい分かりますよね。
八戒はさっきの悟浄の口調にならって、きっぱり私生活に関する思考回路を切った。
「悟浄、とりあえず会社の前につけますよ。拘置されるにしても、一晩くらいは家に帰れるでしょう」
宙に浮いたまま静止していた手を再起動して、八戒はエンジンをかけた。混乱した時には目の前のことから一つずつ片づけていくに限る。なのに八戒の必死の理性に、また揺さぶりがかかった。
「…に決まってる」
 今度こそ、うまく聞き取れない低音。
「…え?」
「何でもねえ。出せよ早く」
 思わず自分の指輪に目をおとした。磨きもせず何年も薬指にはまったままのプラチナリング。自分にとって「左手」は「指輪がはまっている方」の手だった。
 妬くに、決まってる?
 こんなものに、あの悟浄が身勝手にも妬いている。背筋をゾクッと何かが駆け上がった。
八戒の混乱に喝を入れるような絶妙のタイミングで、その音はこだました。

 パン!

「うわわ!! 撃ちやがったよ!!」
 口ほど驚いた様子もなく、悟空は携帯に耳を押しつけ続けてた。
 重装備の国家公務員たちに会社の半径500メートル以内に近づくなと厳命された社員たちの大半は、動かない状況に飽きて帰宅してしまったが、好奇心旺盛な悟空だけは警察の目を盗んでまんまと会社の裏手に潜んでいた。いや正確には悟空と三蔵が。
「だめだ、八戒も携帯に出ねー。ふたりともどこほっつき歩いてんだろ。こんな時間に家にもいねえし」
「電波の届かない場所におられるんじゃねえか? ラブホとか」
 不機嫌最高潮の三蔵はさっきから運転席で立て続けに煙草に火をつけてはもみ消している。煙の多いマルボロの匂いが車内に充満し、悟空はまた軽く咳き込んだ。
「…三蔵、帰れば?」
「あほか。銃撃戦の最中にガキひとり残しとけるか。それよりおまえも、大人しく帰れ。送ってやるから」
「やだよ面白そうだもん。明日新聞に載るぜー?」
 大げさに溜息をついて、三蔵は社用車の灰皿を乱暴に引き出した。こんな捕り物ごっこ、東京のど真ん中で長年生きてりゃ一度や二度は遭遇するもんだ。
「…面白かねえよ。隙を見てケーサツが踏み込んであいつらとっつかまえて終わりだ」
「でもここに八戒が来たら、結構ドラマじゃん?」
「まあな。殺傷事件に発展するかもな」
「えー? そうかなあ」
 三蔵はまたひとつ大きな溜息をついた。悟空はまだ人に死なれた事がないらしい。自分の知人が死ぬことなどあり得ないと思ってる。今起こってることも、こいつの頭の中では遊園地のアトラクションと一緒で、まったく現実感がないのだ。
 だからガキは嫌いだ。
 まあ、いくら八戒でもこのバリケードを突破して「あいつら」に近づくことは不可能だろうから、殺傷事件はないか。

 三蔵が退屈半分あきらめ半分で悟空に付き合っていたその頃、悟浄と八戒は目の前の会社の地下2階にいた。
「……よくこんな入り口知ってましたね」
 隣のビルの敷地から塀をくぐって狭い階段を下りたところにあるボイラー室の扉。悟浄は、壁を2,3度蹴り飛ばしていとも簡単に鍵を外してしまった。
「おめえは表玄関の鍵、支給されてっけど、俺や悟空みたいな下っ端は持ってねえのよ」
「…そうでしたっけ」
「だからうっかり夜中に出社して鍵が閉まってた時は、こっから非常階段あがって入れって教えてもらった」
 闇に目が慣れない八戒の手を無造作にひいて、悟浄は迷いもせず階段に向かってスタスタ歩いていく。相当こんな極道な出入りをしているらしい。
「誰にです?」
「小林さん」
「誰ですそれ」
「掃除のおっちゃん。知らねえの?」
 悟浄の口調はあくまで軽かったが、まるで責められたように八戒の頬は強張った。社歴の短い悟浄のほうが、会社の「本当のこと」を知っている気がした。
 数日後に、この時の八戒の曖昧な「気」が正しいことが証明されるのだが。
「3階の自販機の裏に扉あんじゃん? あそこに出れっから」
 そっと離れた手を気にもとめず、悟浄は螺旋階段を上がっていく。
「やっぱ同じ逮捕されるんでも、会社の前で連行されるの気分悪いもん?」
「…といいますか、僕も黙ってその場で連れてかれるほど人間出来てないんで。会社の前の道路よりは、会社の中の方が心理的にこっちが有利です」
 こういうことが淡々と言えてしまう八戒の人生は、やはりどこか普通じゃないような気がする。
「でも助かりましたよ悟浄。さっきの三蔵の口調からするに、正面からはとても入れなかったでしょうから」
「…それはいいんだけどよ」
 3階の扉に突き当たった悟浄がふと扉に耳を押しつけた。
「…なんです?」
「さっきの音なんだったと思う? 紙袋割れたみたいな」
「紙袋が割れたんじゃないんですか? 僕一度、道路を横断中のマクドナルドの袋轢きましたけど、同じ音でしたよ」
「…だよねえ」
 悟浄はようやく取っ手に手をかけた。錆びついた扉は、思いがけなく大きな音を立てて内側に開いていく。
「会社に手入れが入ってんなら、もっと社内中わさわさケーサツがいるかと思ったけど…なんか人の気配しなくねえ?」
「…悟浄、待って!」
 振り返った悟浄の肩越しに何かが光った。

 パン!!

「え、また?今、銃声したよね!」
 せっかく助手席でうとうとしていた悟空が跳ね起きてしまった。本格的に眠り込んだら車を出して強引に連れて帰ろうともくろんでいた三蔵は、思わず罪もないハンドルに拳を叩きつけた。
「八戒もいねえのに、あいつら誰に向かって撃ってんだろ」
 三蔵の怒りもつゆ知らず、悟空は窓に額を押しつけた。
「…さあな。ケーサツに脅しかけてんじゃねえの」
「あ、そっか」

 パン! パン!

「あ、2連発」
「花火じゃねえぞ猿」

 花火が見えた。と悟浄が呑気に思った瞬間、体が宙に浮いた。
 弾かれて飛んできた悟浄を受け止めた八戒は、ふたり縺れてたっぷり1階ぶん落下した。闇と螺旋に助けられ、続く銃弾はけたたましい音を立てて手摺りに弾かれ火花を散らしただけ。
 さっきまで静まりかえっていたビルの中を、大勢の人間が走り回っている。怒号とサイレンと足音と。
「……悟浄、生きてます?」
 鼓膜が引きちぎられそうな騒音の中で、八戒の囁く声が奇跡のようにはっきり聞こえた。
「……全然生きてる」
「…今、体、抜きますから」
 抜く?
 言われて初めて、自分と八戒が仰向けに折り重なっているのが分かった。文字通り耳元で囁かれたのだ。八戒はごそごそと自分の下から這い出すと、すとんと悟浄の頭を自分の膝に置いた。
「…何、この体勢…」
 膝枕?
「喋らないで。じきに救急車来ますから」
「なんで?」
「なんででもないです」
 やけに疲れた顔で八戒が自分の瞼に手を置いた理由も、自分が今倒れている理由も、大勢の人間が壁の向こうで走り回っている理由もさっぱり分からない。どうしたっけ。扉を開けて、こうなった間の記憶がまるでないけど。
「…今、俺、怪我してる?」
「ちょっとね」
 なんでこいつ、こんなふわふわした喋り方してんだろ。
「…どっこも痛くねーぞ?」
「体がびっくりして脳まで回ってないだけです」
「……へえ」
 あ、そういや携帯、こいつんちに忘れてきた。どこ置いたっけ。
 …やばいな、こいつにメモリー検索されたらまたぐだぐだ文句言われる。

 そこまで考えて、悟浄の意識が飛んだ。
 次に目が覚めたのは、翌々日の朝だった。
 
 

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