私生活

act1


「…クレジットリスクを考慮した転換社債のプライシングと社債の理論スプレッドの推定」
「何語?」

以上、初対面の会話。


「…あれは何です」
 捲簾が出ていった扉を呆然と見詰めたまま天蓬が呟くと、教授は居心地悪そうに白髪混じりの頭をかいた。
「俺の甥っこだ」
「あれが?」
「あれあれ言うな」
 天蓬が出来上がったばかりの論文を抱えて担当教授の研究室を訪れてみたら、教授の机の「上」に髪も目も服も真っ黒の見たことのない男がいた。大学入学当初から敬愛していた教授の尊ぶべき机の上に腰かける不作法は天蓬にしてみれば極刑モノだったが、人の会話に割り込む不作法も同じくらい嫌悪していた天蓬は、教授に目で促されて、いつもの通り自分のぶんのお茶を汲み、そっとソファーの隅に腰掛けた。
「そんで何。結局卒論出さずに卒業はできねえの?」
 は?
「そうだと言ってるだろうさっきから何遍も。卒論が免除されるのは神学部と法学部だけ」
「えーマジかよそんなの入学案内に書いてなかった。入る前に言えよ」
「うるさい何でもいいから書け!…天蓬!」
 いきなりの指名に、天蓬は湯呑みを握ったまま飛び上がった。
「おまえ2年の時に般教で経済学の、ほれ西山さんとこにレポート出したろ。こいつにちょっと見せてやれ」
 話がまったく見えない。
「…経済ですか?」
「ああ」
「…クレジットリスクを考慮した転換社債のプライシングと社債の理論スプレッドの推定」
 捲簾は初めてこちらを見た。
「何語?」

 天蓬は文学部の文化学科哲学専攻であり、したがって教授も哲学の権威だ。
「…あの…彼は」
 教授の身内にアホですかとは言えない。
「…彼は…えー…正気なんでしょうか」
「正気だ」
 教授は真顔で答えた。
「俺を困らせて遊んでるだけだ。あいつは昔っからそうだ。ああもうこーんなちっこい頃からそうだ。どうせもう誰かに書かせる算段ぐらいしてる」
「何を」
「卒論。ああ、おまえが考えてることは分かる。腐っても経済学部にきちんと入試を受けて真っ当に現役合格してるから頭の出来はまあまあだ、やる気がないだけで。…課題はできたか?」
 教授の口調が愚痴りながらもどこか弾んでいるので、天蓬の彼への敬愛の念が急激に醒めてしまった。
 腐っても経済学部。一番人気だ。つまり何か。身内自慢か?
 最近は大学教授も人気商売だ。生徒の間じゃ鬼とか偏屈とか頑固とか講義がくそ真面目で面白くないとか陰口ばかり叩かれるが、天蓬はその愛想のなさがいたって気に入っていた。1年の時から足繁く研究室に通ってしつこく授業の内容に突っこむ天蓬に、教授も顔には出さないが可愛がってくれたし、議論に何時間でも付き合ってくれ、一度きりだが自宅に招待してくれた。彼の書斎は図書館かと感嘆するほどの蔵書量で、その1冊1冊を慈しんでいるのがよく分かった。その貴重な本を、天蓬にはいつでも快く貸してくれたし、奥さんも歓迎し喜んでくれた。
 …それが何だこれは。
 どうやら彼はあの真っ黒な甥が可愛くてしょうがないらしい。これが俗に言う馬鹿な子ほど可愛いというやつか。何たることだ。親戚の子供に押し掛けられて無茶苦茶言われて喜んでますよこのオヤジ。
「先生」
「ん?」
「出直します」
 天蓬は勢いよく立ち上がった。
「ん?何だ、土曜だぞ?これ預かっといていいのか?」
「週明けにまた来ます」

 …大変だ。
 天蓬は廊下を歩きながら眉間を軽く揉んだ。
 この頃の天蓬は、純粋に一途に生真面目に勉学に燃える学生で、その日まで教授が神だった。
 大げさでもなんでもなく、本当にそうだった。
 そりゃ教授だって人間だ。肉親の情ぐらいあるだろう。それにしたって「見せてやれ」とは何事だ。品行方正頭脳明晰勤勉極まりない教え子のレポートを、あろうことか他学部の甥っこの卒論のために貸せだと?その甥が豊かな人間性とか煌めく知性とか、百歩譲ってその片鱗でも見せてくれていたら納得いったかもしれないが、これはあまりにあんまりだ。
「おす」

天蓬は悪夢のまっただ中でどんよりした目をそちらに向けた。
「……何か」
「死にそうな顔してんな」
 捲簾は花壇の煉瓦にぺったり座り込んで煙草をふかしており、何の邪気もなく天蓬を見上げた。
「さっきはお邪魔様」
「…ほんとに甥なんですか」
「似てるだろ?」
 …似てる。うん似てる似てる。よくよく見ればそっくりだ。顔も声も。
「…世界の終わりだ…」
「どういう意味よ」
「…教授は僕の憧れでした…」
「なんで過去形よ」
「申し訳ありませんが落ち込むのに忙しいのでさようなら」
「待て待て面白いぞあんた」
 捲簾は煙草を踏み消すと、天蓬がのろのろUターンしたその前にくるっと回り込んだ。
「俺のこと覚えてねぇ?」
「…は?」
「前に会ったの、覚えてねぇかな」
「ナンパですか?」
「…天然?」
 疲れた。
 天蓬は捲簾を押し退けて真っ直ぐ正門に向かった。レポートをあげるのに必死で、昨日は2時間しか寝ていない。土曜の構内はやたら閑散としていて、そののんびりした光景が余計に眠気を誘う。散らかり放題の下宿の惨状を思い浮かべるとただでさえ重い気がますます重いが、掃除する気力なんか残ってない。寝る場所ぐらいあるだろう。
 ああ、最悪だ。厄日だ。だいたい何で今のこの時期…
「待てっつってんだろうが」
 いきなり凄い力で腕を引かれた。天蓬は勢い余って危うく後ろにつんのめりそうになり、声の主にドンとぶつかって止まった。
「無視されるのだいっ嫌いなんだよ」
 どういう言い草だ。
「貴方が何を好こうが嫌おうが僕の知ったことですか」
「初対面の人間にいきなり八つ当たるこたねえだろうがよ」
 八つ当たり。
 …そうか、八つ当たりか。
「すいません」
「素直だな」
「疲れてるんです」
 天蓬は軽く頭を下げると踵を返して歩き出した。もう追ってこない。変な男だ。
 …もしかしたら僕は彼のせいで道を。いや考えるのは一寝入りしてから。
「天蓬!」
 びっくりして振り返ってしまった。数メートル離れたところで、捲簾はひゅっと腕を振り上げた。
「…え?」
「…やっぱ覚えてねえか」
 捲簾はちょっと微笑って上着のポケットに上げた手をそのまま突っこむと、あっと言う間に見えなくなった。
 …何だあの仕草。
 大学から歩いてものの5分。天蓬の下宿はごちゃごちゃした古い住宅街の真ん中だ。1,2年生のキャンパスは新設されてここから電車で1時間あまりかかる田圃の真ん中に移転しているので、下宿も小綺麗なのが揃っていたし夜も静かなものだった。3年になってこっちに越した途端、昼も夜も車通りが激しくて落ち着かないことこのうえない。前の下宿は一番近いコンビニでも歩いて10分かかったから、便利といえば便利だが。
 まだ昼の1時。
 さんさんと陽光が降り注ぐ部屋ですぐさま熟睡というわけにはいかず、天蓬は嫌々壁の周辺に本を積み上げ、申し訳程度に埃をはらった。
 
 …やっぱ覚えてねえか。

 …他学部生でも1,2年の間はよく授業がかぶるから会っていても不思議じゃないが。
 腕を。こう…。
 天蓬は部屋の真ん中で、捲簾がしたように腕を振ってみた。
「あ!」
 手が電灯の紐にひっかかって灯りがついてしまったが、構わず二、三度繰り返してみてようやく思い出した。剣道か。1年の時に体育で一緒だった。3年も前に週に1回顔を合わせただけだが、トーナメントで試合すると必ず彼と自分が残った。話した記憶はまるでないが、いや彼に限らず誰ともろくに話した覚えはないが、そうかそうかそうでしたか、いやあ懐かしいおひさしぶりです。
 途端に天蓬はその場に崩れ落ちた。
 和んでる場合か。
 
 
 

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